第27話~溢れる涙~
引っ切り無しに鳴り響く電話の音の中、叶子は全てを忘れようと無我夢中で仕事に没頭する。他にこれと言って趣味を持ち合わせていなかった叶子は、仕事に打ち込むことでしか傷ついた心を癒す事は出来ない。いや、仕事に集中したとしてもこの心の傷が簡単に癒える事は無いとは思ってはいるが、今は自分を追い込む事で余計な事を考える暇を与えさせない様にするしか無かった。
――あの日、彼に一方的に振られてから既に数週間が経っていた。
「これ、急ぎの仕事なんだけど、誰かやってくれないかぁ?」
そう言ったのは、彼女がWEBデザイナーとして勤めるWEB制作会社の上司で、制作部WEBプロデューサーの山下課長、通称“ボス”だった。今でこそ“ボス”と言う呼び名がしっくりくる年齢になったが、実はこれは彼が初めてチームリーダーになった時からの“愛称”だ。その当時、海外ドラマに嵌まっていたらしく“ボス”と呼ばれる事にずっと憧れていたらしい。部下と呼べる人間が出来てすぐに自分の事を“ボス”と呼ぶようにと言って回ったそうだ。
嫌われているわけでは無いが、少し空気の読めない所があるのがボスの特徴だった。
現に、あと数分で終業時間になると言う時に仕事の依頼をして、誰が喜んで引き受けるだろうか。周りのスタッフはボスに指名されまいとおもむろに受話器を握り締めて電話を掛け始めたり、席を立つなどしてわかりやすい反応をしていた。
どうにも仕事を投げる先が見つけられず、ボスは書類を丸めながら首の後ろを撫でていた。
「私でよければ、やりましょうか?」
見かねた叶子が声を掛ける。
「え? でも、これカナちゃんの担当分野じゃないけどいいのか?」
「はい。どうせ早く帰ってもすることないですから。私が引き受けても問題無いんでしたら、喜んで引き受けますが」
「おお、勿論問題無いよ! 逆にカナちゃんみたいなベテランさんにやって貰った方が、早いしぶつくさ文句も言われないし助かるわ。若い奴らはどうもイカン。サンキュー、じゃあお願いするよ」
褒められている筈なのに、何処か可愛そうな子扱いされているような気がしたのか、叶子の顔が引きつった。
“帰ってもやる事が無い”など年頃の女性が言うには悲しい理由だったが、今の彼女にはそんな事はお構いなしだった。
――とにかくいらぬ事を考えないように。
そう思ってがむしゃらに仕事をしていた。
丸まった書類を広げてみると、それは有名なアーティストのCDジャケットの制作依頼だった。普段は企業のロゴやホームページのデザインを主にしている彼女にとって、非常に魅力的な仕事であった。
「……あ、この人知ってる」
訴えかけるようなメッセージ性のある詩と、一度聞いたら耳に残るような音楽。そして何よりも透き通るような声が特徴の今人気のアーティストだった。
(なんだかラッキーかも)
初めてする分野の仕事に携わる事が出来た叶子は、ワクワクしながら仕事に取りかかった。
「さて、と。そろそろ帰ろうかな」
ある程度仕事を片付け、帰宅の準備を始める。気付けばオフィスは叶子一人。ここ最近は毎日こういった状況が続いていた。
窓から見る月は外の空気が澄んでいるのか、くっきりと見えてとても綺麗だった。
「……」
仕事が終わって気が緩んだのか、ふと、あの日初めて電話をした時の事を思い出してしまった。
ドキドキして震える手で彼の電話番号を押したあの時。強引で直接的な表現をする彼に振り回されながらも、会えない日でさえも凄く楽しかった思い出が蘇り自然と口元が緩んだ。
それと同時に、あの日終電を逃してしまった勢いで電話してしまった事を今更ながら後悔する。彼に電話をしなければこんなに辛い思いはしなくて済んだのかも知れないというのに。
「……っ」
今の叶子には、楽しかった思い出よりも辛かった思い出の方が鮮明に頭の中に残っている。忘れようと思っていた過去に蓋をしようともがけばもがくほど手に負えない程それは圧力を増し、押さえた手のひらから溢れ出すとあっという間に決壊を破られてしまう。
「ほんと、ずるいよ」
頬を伝い始めた涙に気付き両手で顔を塞いだ。声が漏れるのを必死でこらえながら、あの日から我慢していた涙があふれ出るのを止める事が出来ないでいた。