運命な貴男(ひと)・中編
都心部から高速に乗り、車を走らせる事約一時間半。高いビル群はすっかり姿を消し、所々にのどかな田園風景が広がっている。遠すぎず、近すぎずの距離に叶子の生まれ育った家があった。
昭和初期に建てられた趣のある古民家は彼女の祖父の代から受け継がれてきたもので、ガタがきた箇所を何度もやり直してはずっと大切に扱われてきた。いつもは外灯などつけていない玄関先も、二人が行くのを事前に知らせていたせいかボワーッとオレンジ色の明かりが灯されている。そしてその外灯が点いていると言う事が“扉の鍵は開いている”のだということを意味しており、野嶋家独特の暗号の様なものであった。
その事を懐かしみながら、古い引き戸を勢いよく開ける。久し振りの実家の匂いを嗅ぐと、気持ちが安らいでくるのが自分でも良くわかった。
「ただいまぁー」
バリアフリーと言う言葉が存在しないこの家は、玄関の踏み込みが丁度膝の辺りに位置している。バッグをそこに置くと同時に腰を掛け、ブーツを脱ぎ始めると背後からパタパタパタと走ってくるスリッパの音が聞こえた。
「おかえり、叶子。遅かったわね。皆お腹すいてブツクサ言ってるわよ」
「あー、ごめん。ちょっと途中渋滞してたの。だから気にせず先に食べててって言ったのに」
振り返った叶子の目に映ったものは、久し振りに帰ってきたわが娘に目もくれず、キョロキョロと家の中から外の様子を伺い続ける、いつもよりも髪が綺麗にセットされた母の姿だった。
「お母さん、今日美容院行ったでしょ」
「ん? ああ、そうよ。ついでに白髪染めもしてもらっちゃったわ」
襟足を掌で撫でつけながらも母は外が気になって仕方が無い様子だった。
「所で、どちらにいらっしゃるの? 一緒に帰って来たんでしょ?」
「ああ、何かうちの家が珍しいみたいで、ちょっと一周してくるって行っちゃったからとりあえず置いてきた」
「まぁ! あんた、そんな未来の旦那様に向かって『置いてきた』だなんて!」
「だってあの人、気になるものがあったら誰と居ようが、何をしてようがすぐに夢中になっちゃうから。――時々私の存在も忘れられるし」
少し口を尖らせながらブーツを脱ぎ終えると、玄関に置いてあった母のサンダルに履き替えた。
「ちょっと呼んで来るね」
「あ、ええ、そうしなさい!」
そう言うと、上がり口で正座を始めた母は、美容院でセットしたての髪を掌で何度も撫で付けた。
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「ジャック? 早く入ろ? 皆待ってるんだって」
「あ、カナ。ちょうどいい所に来た。君の家は築何年になるの?」
チラリと彼女へ視線を向けたが、すぐに家へと視線を戻した。暗闇の中を物珍しそうに見ている彼は、今日ここへ来た本来の目的をも忘れていそうだ。
「え? あー、おじいちゃんが小さい頃から住んでたって言ってたから、……九十年? 近くなるのかなー?」
「九十年!? にしては凄く立派だよね! 手入れがちゃんと施されてるなー。……あ、もしかして“蔵”とかもあるの?」
「うちは無いよ。んもぅ、そんな事より早く入ってよ。皆お腹すいて死にそうだって」
「ないのかー、残念だなー。ね? この近くに蔵がある家って無いの?」
腕組みをしながら顎を擦っている彼の腕を無理矢理引っ張り、ようやく玄関の扉まで連れてくることが出来た。
「お母さん、連れてきたよ」
「まぁ! 遠いところからわざわざおいで下さって恐縮ですわ! お仕事お忙しいんでしょう? お疲れの所にこんな田舎にお越し頂いてほんと申し訳……。――! あらやだ、私ったらご挨拶が遅れちゃって! 初めまして、私は叶子の母の静代です」
いつもより高いテンションでそう言うと、静代は三つ指をついて深々と頭を下げた。こんな風に娘の旦那さんになる人へ挨拶を交わす日が来るなど、半ば諦め気味だったからか今までに無いほどの浮かれっぷりに叶子は苦笑する。
静代が頭を上げると彼の大きな手がスッと差し出されており、ぼんやりとしながらその手を辿って彼を見た母は、慌てて両手を差し出した。
「こちらこそ、初めまして。一度お会いしたいとずっと思っていました」
手を握りながらにっこりと微笑んでいる彼を、静代はポーッとした顔で見つめている。「こんなとこで何だから、とにかく上がって?」と彼女が声を掛けてやっと、静代は意識を戻した。
「あら、やだ! 私ったら、お客様をいつまでもこんな所で立たせてしまって」
「いえ、僕はお客様じゃないですよ? これからは家族になるんですから」
「まぁ……」
ジャックの発する一言一言に、いちいち頬を染める母。忘れかけていた女の部分が現れ、自分の母ながらもその事が叶子を不機嫌にさせた。
「……あれ? なんだ智樹。あんたも来てたんだ」
「おっせーよ。――あ、ちわーっす」
いい匂いが漂っている居間へと移動すると、胡坐をかいて両手を後ろについた弟の智樹が叶子を見上げた。彼女の後ろからやってきた、背が高く異国の雰囲気が漂う男性に智樹がペコリと頭を下げる。
「あ、これ弟の智樹」
「『これ』言うな!」
「あー、そうなの? 弟さんいたんだね」
「あれ? 言って無かったっけ?」
ジャックは困った様に笑いながら、首を二度振った。
「うっへー! マジでイケメンじゃん! ねね、父さんもこっち来なよ!」
そう言えば、と叶子はまだ父と会話を交わしていない事に気が付いた。弟の言葉につられて部屋を見回してみると、隅っこに置いたストーブの前で新聞を広げながら背中を丸めている父がいた。
いつもは叶子が帰省すれば、玄関まで迎えに来るほど子煩悩と言うか娘が大好きな父だと言うのに、流石にこういうシチュエーションだとそうもいかなかったのだろう。そんな父の背中を見ていると何かが込みあがってくるのを感じ、叶子はそれを必死で堪えた。
叶子がジャックに目で合図をし、二人して父の側へと近づいて行く。背中越しに二人が腰を下ろして膝をつくと、叶子が父へと声を掛けた。
「お父さん、ただいま」
「ん? あ、ああ、お帰り。遅かったな。――道、混んでたのか?」
「ええ、どうやら高速で事故があった様で、その影響で少し渋滞してました。遅くなってしまってすみません」
父は背中を向けたまま顔を少し横に向けるだけで、二人の方へと決して振り返ろうとしない。こっちを見ていないとわかっていても、それでもジャックは父に向かってペコリと頭を下げた。
「お父さん? 電話でも伝えたと思うけど、こちらがジャックさん。その、――彼と結婚したいんだけど、……いいかな?」
「……いいも何も、お前がそう決めたんなら俺は何も言わん。十代の子供じゃあるまいし、いいか悪いか自分で判断つくだろ」
「うん。――ありがとう」
父と娘の会話を誰も邪魔する事無く、彼も含めそこに居たみんなが二人の背中をただじっと見詰めていた。
「さ、さぁっ! じゃあご飯にしましょう! 叶子、手伝って頂戴っ」
そう言って、しんみりとしたその場の雰囲気をがらりと変えてくれた母は、目頭をエプロンの端で押さえ鼻を軽く啜っていた。
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「んじゃ、かんぱーい!」
弟の智樹の号令で、今日何度目になるかもわからない乾杯の音頭が取られた。先程までの空気は一変し、皆笑顔で和やかだった。
智樹が来ているのを初めに見たとき、本音を言ってしまうと面倒くさいなと思っていたが、智樹がいてくれたからこそこんなに楽しい雰囲気になったのかも知れないと思い直した。
父の好きなものをお土産に、と彼が言ったので、無類の日本酒好きの父のために一升瓶を二本持参した。すぐに栓は開けられそれが母の手に渡ると、台所で父好みの温度に仕上げられる。「車で来てるから」と何度言っても聞かない我が家ののん兵衛達は、「俺の酒が飲めぬと言うのか!」と、昭和の酔っ払いらしく彼に絡みだした。
仕方なく、「じゃあ一口だけ」とお猪口を手にしたものの、勿論一口だけで満足する男共では無い。口をつければすぐにお酌をされる、といった具合だった。
「結婚、結婚とか言ってるけど、お前らアレだろ? 籍は入れんのだろ?」
「え? マジ? ハリウッドスターの結婚みたいじゃん!」
「……あのね、ちょっとその話はここでは触れないでもらえないかな」
実はその件についてはまだ彼の承諾は得ていない。今ここでそういう話になると実に面倒な事になるのでは、と気をもんでいたのが見事に的中してしまった。
「そぉーなんですよぉー! ちょっと言ってやってくらさいよぉー」
「ジャック??」
完全に酔っ払いと化したジャックは、気付けば徳利を握り締め手酌酒までをもかましている。ほんのりと赤い頬に焦点の定まらない目で、父と弟に交互にお酌をしていた。
彼はアルコールは好きだが嗜む程度で、決して強いわけではない。特に日本酒を飲んでいる姿を今まで見たことが無かったから、もしかすると飲み慣れていないのかもしれない。飲み口がいい分、ついつい飲みすぎてしまう日本酒は、叶子も過去に何度か失敗した実績がある為、よっぽどの事が無い限り口にするのを避けていた。
無論、今日も一滴も口にしていない。
「叶子。お前せっかくジャックさんが貰ってくれるって言ってるんだ。わけのわからん意地張ってないでさっさと観念したらどうだ、ん?」
「『観念』って、酷いなぁーおとうさん」
「あははは! って、……俺はまだ君に『おとうさん』って呼ばれる筋合いは無いぞ? ――なんつって! 言ってみたかったんだわー、こー言うの!」
「うっは、父さん古っ!」
「あのね……」
母は一家団欒が余程嬉しいのか、母も一滴も飲んでいないというのに嬉しそうに一緒に笑っていた。
「それにさぁー、カナってば酷いんだよ? 結婚式もやらないって言うんだ。こんなお姉さんを君、どう思う?」
「えー!? 前はあんなに『自分が挙げるときはー』って講釈たれてたくせに?」
「智樹……」
やっぱり智樹がいたのは良くなかったのかもしれない。余計な事までペラペラ喋る智樹にヒヤヒヤさせられ、生きた心地がしなかった。
「悪い事は言わん、式はちゃんと挙げときなさい。俺も昔を思い出すなー、白無垢を身に纏った母さんが――」
「そうよ! お母さん、あんたのウェディングドレス姿見てみたいもの! あんたが着ないんだったら、お母さんが代わりに着るわよ?」
(な、なんでそうなるのかな……)
「……は、ははっ。――っ!」
「そうだよ、カナー?」
急に肩の上に顎を置かれ、間近で酔っ払っているジャックの顔を見た。その光景を見て、皆は一瞬固まっているのにも気付かず、彼は更にとんでも無い事を口走る。
「結婚式はいいよぉー? 何歳になっても何回やっても感動するねー」
「「「……」」」
酔っ払いの戯言とは言え、家族一同その言葉には敏感に反応した。
◇◆◇
「ちょっと、大丈夫? ほら、ちゃんと歩いて?」
「うーん、もう飲めにゃい」
日々の激務に付け加え、変な緊張感と飲み慣れない日本酒が彼の体に浸透してしまったのだろう。一口飲んでしまった時点で車を運転する事が出来ないと判断し、早々に今夜はこのまま実家に泊まる事を決めた。
この家に居た頃に使っていた彼女の部屋へと入ると、既に母が準備してくれていたのであろう、一組の布団が彼女のベッドの横に敷かれていた。
身体全体がふにゃふにゃになってしまっている彼の着替えをしようにも代わりの服など当然持ってきておらず、仕方なくジャケットだけを脱がせて布団へ寝かせた。掛け布団をジャックの首元まで覆うと、叶子は自分用に置いてある部屋着に着替えるために、布団に手をつき立ち上がろうとした。
「……っ、ちょ」
「かーなぁー?」
ついた手を引っ張られると同時に、布団の中へと引きずり込まれた。するとすぐにジャックの足が叶子の身体に巻きつき、逃がさないと言わんばかりに拘束する。
アルコールを過剰に摂取したせいか彼の胸元に顔が埋まった時、物凄い速さで刻む鼓動の音に叶子は驚く。
「ちょっと、凄い心臓がドクドクいってるよ? 大丈夫なの?」
胸元から彼を見上げると、トロンとさせたジャックの目が更に蕩けだした。
「んー? それはね、カナのせいなんだよー?」
「……いや、完全にお酒のせいでしょ」
そんなやりとりをしていると、ジャックの唇がチュッという軽い音と共に額に降ってきた。こめかみ、頬、唇の端と徐々に下がり始めると一旦顔を離す。彼がニコッと微笑んだのを合図にやっとの事で唇に重なった。
アルコールの混じる彼の吐息はいつもより熱く、口内の温度を一気に上昇させる。いつもよりスローペースで絡んでくる彼の舌が新鮮に感じ、すぐに叶子の感情を高めさせた。
一旦、離れようとする彼の唇を追いかけ、餌を欲しがる雛のように首を伸ばすと彼は心底嬉しそうな顔で叶子を見詰めた。
「ねぇ、――いい?」
「何を?」なんて野暮な事は聞かない。彼の艶かしい表情が全てを物語っている。これが自分の家とかなら即座にOKを出すのだろうが、階が違うとは言え両親がいるこの家でコトに及ぶなんて勇気は流石にない。
「ええー? ……ここじゃ駄目だよ」
「じゃー、ちょっとだけ?」
「ちょっとってどれ位?」
「んー、日本ぽく言うと、C“ダッシュ”くらい?」
彼女の表情が変わるのを想像したのか、満面の笑みを見せてジャックはそう言った。
「“ダッシュ”って何よそれ」
「終わった後の腕枕」
「バカ!」
結婚を控えた幸せ一杯の二人は、いつしか自分達が今どこにいるのかも忘れて浮かれまくっていた。ジャックが体勢を入れ替えると、叶子に覆いかぶさり耳元へと唇を寄せる。
「ねぇ、もうシよ?」
「ひゃっ、……ぁん、もう。耳はやめて」
ゾワリと耳介を舐め上げられ、思わず声が出てしまい慌てて自らの手で口を塞いだ。その時だった。
――ゴトン、キィッ、……バタン
「「――」」
扉が開け閉めされる音が聞こえ、二人は思わず目を合わせた。そして、次に聞こえてきた声で一気に現実に引き戻されることとなる。
「あーあ、なんっか寝れないから下で三十分くらいテレビでも見てこよーっと」
独り言にしては大きすぎる弟の声が聞こえたかと思うと、トントントンと階段を降りて行く足音が聞こえた。
今日は、智樹もすっかり酔ってしまったため、叶子の部屋の隣にある智樹の部屋に自分も泊まると言っていたのを思いだし、背中にツーッと水が伝っていく感覚がした。
古いこの家は当然、防音効果は全くといっていいほど期待出来ない。
「……最悪」
他人に聞かれるだけでも恥ずかしくて死にたくなると言うのに、事もあろうか自分の弟に姉のあられもない声を聞かれてしまい、その上、気を使わせてしまうなんて。姉としての品格なんて気持ち良いくらい木っ端微塵に粉砕した。
よくよく考えてみれば彼の兄、ブランドンとの初対面も確かこんな感じだった。何度も同じ事を繰り返している自分に、いい歳をして一体何をしているのだろうかと自責の念にかられていた。
「智樹君っていつもあんなに大きな声で独り言いうの? おもしろいね」
「なわけないじゃない。あの子なりに変な気を使って、わざと私たちに聞こえる様に言ったのよ。にしても、三十分って……」
(妙にリアルすぎてイヤー!!)
「そうなんだ。――しかし、幾ら僕がおじさんだからって三十分は心外だな」
「そこなの……」
「よし、わかった。ちょっと下に行って一時間に変更してもらうように言って来る!」
「はぁ!? ち、ちょっと」
ガバッと布団から飛び出そうとする彼の腕に必死でしがみつき、その場はなんとか治まった。酔っ払っているジャックはかなり面白かったが、同時にヒヤヒヤとさせられて精神的に疲れる。
「まだ、物足りない」と言う彼を無理矢理布団にねじ込むと、叶子は自分のベッドに移動し、その夜は静かに眠りについたのであった。