運命な貴男(ひと)・前編
一年半振りにひょいと現れたと思ったら、ジャックは相も変わらず早とちりの連続だった。叶子の話を最後までちゃんと聞こうとせず自己完結し、彼女の部屋から立ち去ろうとする。
扉の向こうにはきっとこの赤ん坊の親である、正博と絵里香が立っているのであろう。突然飛び出してきた彼を見て、二人は一体どう思い何を言うのだろうか。
叶子の首を絞めてしまった事に負い目を感じている正博と、彼が忽然と姿を消していた間もずっと彼女を元気付け支えてくれていた友達思いの絵里香。きっと、正博は視線を不自然に泳がせ、絵里香はもしかしたら彼に掴みかかるかもしれない。いずれにしても、あまりいい結果を望めないと瞬時に考えた彼女はジャックを引きとめようとしたが、結局それを防ぐ事が出来ずに彼の手によってその扉は開かれてしまった。
扉の外にいたのは正博だけだった。叶子が予想した通り、驚きの余り目を見開き不自然に目を泳がせた。そんな正博を見て、何を勘違いしてしまったのかジャックはいきなり正博に掴みかかった。
言葉で言っても聞き入れてもらえなさそうな程、酷く興奮し切っている彼を止めるにはどうすればよいのか。そう思うより先に、叶子は彼の広い背中に抱きついていた。
何故、正博だけで迎えに来たのかと後で聞けば、絵里香は久し振りの二人っきりの外食に随分上機嫌になり結構な量のワインを口にしたらしい。心地よい車の揺れと暖かい車内に誘われ、すっかり眠りの底に落ちてしまったそうだ。起こすのはかわいそうだと思った正博は車の中に絵里香を残し、セナちゃんを迎えに来たのだと言っていた。
そして、てっきり叶子が出てくるものと油断していたらジャックが飛び出してきて、彼を見た途端過去の記憶が瞬時によみがえり一気に青ざめてしまったそうだ。
それがまた、彼の逆鱗に触れたのだろう。
正博の表情を見て叶子と結婚したのは正博だと思い込み、彼が言うには前から二人は疑わしかったというのが災いし、気付けば汚い言葉を吐きながら正博に掴みかかっていた。
しかし、誤解が解けてからはあれよあれよと言う間に事が進んで行った。
キッチンで行われたプロポーズに納得がいかない叶子は、もう一度やり直して欲しいとお願いした。ジャックは少し不満そうにしながらも、後日、思い出に残るような素敵なプロポーズをしてくれた。
そして、プロポーズを終えた二人が次にする事は、お互いの家族へ結婚の承諾を貰う事だろう。仕事が落ち着いている今の内に、挨拶に行かせて欲しいと彼からの申し入れがあり、今日、これから仕事が終われば叶子の実家へと一緒に行く事になっている。
「はぁ。気が重いなぁ」
マウスを握り締める手を止め、左手の薬指にはめている小さな石がいくつもついたリングに目をやった。
婚約指輪はいらないと散々言ったのに、それでも買いに行こうとする彼を叶子は必死で説き伏せた。その時は納得していた様に見えたから彼女も安心していた。
その後、向かったディナーでは店のはからいで出されたシャンパンを、車の運転を控えている彼の分まで叶子が飲み干した。部屋を取ったから自分も飲みたいとジャックは言っていたが、すぐ近くに家があるのに大金を出してまで泊まるのはなんだか馬鹿馬鹿しい。そんな事を彼に言ってもきっと、これくらい大丈夫だよと言い返されるのが目に見えている。だから、叶子はあえて「落ち着かないからイヤ」と言って、どうにも腑に落ちないといった顔をしている彼を渋々頷かせた。
その時の水分の摂り過ぎのせいか、翌朝彼の家で目を覚ますと身体がむくみ左手の指に圧迫感を感じた。視線を指にやるといつ用意したのか、いくつもの石がキラキラと輝いているシンプルなリングがはめられている。あれほどいらないと思っていたものだったが、いざ貰ってみると想像以上に嬉しくて、叶子はしばらくその指輪を微笑みながらじっと眺めていた。
あの時の事を思い出しながら、じっと左手を見つめる。ふいに、人の気配を感じて振り返ってみると、いつからそこにいたのか健人が無言でボーっと突っ立っていた。
「な、何??」
「……仕事中にニヤつくとか止めてくれない?」
「え? にやけてた?」
そう言った叶子の顔がまたにやけているのを見た健人は、切れ長の目をさらに細めた。
「……マジ、むかつく」
「もう、別にいいじゃない! ……たまには、さ」
彼と出会ってから付き合う事になった後も、仕事に差し支えると思ったのか叶子は彼との関係を職場では誰にも言わずにずっと隠し通してきた。だから、結婚すると決まった以上、もう我慢するのもおかしいと思い、指輪の事を聞かれた時にはちゃんと本当の事を話すようにしていた。
結婚するのだと言うとてっきりみんな驚くと思っていたが、思っていたほど騒がれる事は無かった。その事を不思議そうに首を傾げていると、「気付かれて無いって思ってるの、きっとカナちゃんだけだよ?」と、失笑に近い笑いを含みながら冷ややかな視線を送られたのだった。
「あのね、そう言うの世間では色ボケって言うんだよ」
「う、うるさいなぁっ! なによ! 自分だっていつも給湯室でデレ顔しながら電話しちゃってるくせに」
「なっ! ……んで知ってる」
先程まで叶子をやり込めていた健人の勢いが急になくなり、代わりに健人の頬が赤く染まり始めた。
どうやら、健人にも春が訪れたらしい。
噂によると数年前、電車の中で痴漢にあっていた当時まだ女子高生だったその子を助けた事がきっかけらしいのだが、その話を聞いた時叶子は思わず耳を疑った。と言うのも、いつも周りの事などおかまいなしで、自分さえ良ければいいと思っている様な自分勝手な人間だというイメージを持っていたからだった。だから、他人を助けたと聞いて驚いたと同時に叶子は少し嬉しくもあった。
会社の前でよく健人が出てくるのを待っている、何ともいじらしい女子高生の姿を度々見たことがある。いつも年上の女性を追いかけては落とすのを楽しんでいたプレイボーイは、純真無垢な年下の女の子に追い回され、酷く動揺している様子だった。
どうしたものかと困り果てた末、はっきりと「高校生は恋愛対象外」と引導を渡したのがきいたのか、その後その女の子はピタリと来なくなった。
てっきり諦めたのかと思いきやどうもその引導が逆効果となった様で、その子は大学生になってから改めて告白しに来たのだった。
あまりにも必死なその姿に、叶わぬ恋だと思いながらも必死で叶子を追いかけていた自分をその子に重ね、健人は彼女を受け入れた。
「な、なんだよ」
「ん? べっつにー」
叶子の冷やかし気味の笑顔にどんな顔をしていいのかわからないのか、顔を赤らめながら少し口を尖らせている。そんな表情を見せた健人に、自分だけではなく健人もまた幸せなのだなと素直に喜んだ。
◇◆◇
「お待たせ! 待った?」
「ううん、今来たとこだよ」
ビルを出たところに車を停め、叶子の姿を見つけた彼はすぐに運転席から降りると助手席のドアを開ける。彼は今来たとこだと言うけれど、外から帰ってきた社員に「もうジャックさん来てるよ」と教えられてから十五分は経つ。なのに、文句一つも言わず満面の笑みで彼は出迎えてくれる。
何年経っても変わらぬ紳士っぷりに改めて心を打ちぬかれる。こんなんじゃ、この先心臓がいくつあっても足りないな、と叶子は思った。
二人して車に乗り込むと、ジャックは慣れた手つきでカーナビを操作した。
「あのさ、何かお土産を買って行こうと思うんだけど、何がいいかな?」
「ああ、そうね。うーん」
「君のお父さんの好きなものって何?」
「お父さんの好きなもの? ……あっ」
まさか、この時何気なく口にした事で、この後、自身に災いをもたらす結果になろうとは思っても見なかった。