第3話~それぞれの想い(ジャック)~
「う、ん……。――っ!!」
露出されている肩が冷え、肌寒さで目を覚ます。先程まで確かにそこにあった筈の温もりがなくなっていたことに気づいた叶子は、慌てて飛び起きると急いで床に散らばった服をかき集めた。袖を通しながらリビングへの扉を勢い良く開け放つが、そこは既にもぬけの殻。家の中の扉と言う扉を次々と開けていくたび、彼がもうここにはいないのだと言う真実が徐々に確かなものになっていった。
「な、んで?」
玄関の前、膝から崩れ落ち、暫くの間途方に暮れた。
◇◆◇
その後、また彼とは一切連絡が取れなくなってしまった。
ブランドンに聞いてみると『詳しいわけは今は話せないが、ジャックはアメリカに戻ってしまった』らしい。そう聞いても、叶子は不思議と涙が零れる事はなかった。
当の本人はおろか、誰も理由を教えてくれないと言うこの奇妙な状況。最後にジャックに抱かれた日。いつも『愛してる』の言葉をくれていた彼が、その日は一度も言ってくれなかった事に叶子は気付いていた。だからこそ、ジャックが突然何も言わずにいなくなってしまった事を不自然だとは思っておらず、これが彼なりの答えなのだと冷静に受け止める事が出来たのだった。
それからと言うもの、一ヶ月に一度位のペースでブランドンから定期的に連絡が来るようになった。『最近どうだ?』や『ちゃんと飯食ってるか?』など、ジャックがいなくなった事で落ち込んでいるのでは無いかと何かと気に掛けてくれる。けれど、ブランドンの口からジャックの話が出る事は一切無く、彼女もあえてブランドンにジャックの事を聞くような真似はしなかった。
――そうして、時は過ぎていった。
◇◆◇
~一年半後~
「あれ? もう帰ってきたのかな?」
来客を知らせるチャイムが鳴り、待ち侘びていた人が帰ってきたのだと思った叶子は、急いで腰を上げた。
普段ならインターホンで誰が来たのかを確認しているが、相手が誰なのかを確信していた叶子は何のためらいも無くその扉を開ける。
「お帰りー。早かったの……ね、――」
だが、目の前に立っていたその人は、叶子が待ち侘びていた人では無かった。
「――や、ごめん。誰か……待ってたのかな?」
いきなり開いた扉に驚きながらも、現れた彼女を見て目を丸くしている。次第に今の状況がわかってきたのか、バツが悪そうな表情を浮かべていた。
「ジャ、ック?」
あまりにも突然すぎる再会に、叶子の気持ちが追い付かない。それ以上何か言うわけでもなくただ呆然としている叶子を見て、ジャックはしまったと指先で頬を掻いた。
「あの、出直して来るよ」
「え? あ、ちょ――」
逃げるようにして踵を返した彼を慌てて呼び止めた。その時、
「ふぎゃー! ふぎゃー!!」
部屋の奥から赤ん坊の泣き叫ぶ声が聞こえ、立ち去ろうとしていたジャックの足がピタリと止まる。
「ああ、あの、ごめんなさい。取りあえず入って?」
「あ、いや、でも」
振り返ったジャックの顔は顔面蒼白になっている。ジャックは叶子と視線を合わせることもなく、ヒクヒクと口元を引きつらせていた。
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「ふぎゃー! ふぎゃー!!」
「やーん、セナちゃんごめんねー、一人にしちゃってー」
パタパタパタとスリッパを鳴らしながら赤ん坊に駆け寄る彼女の後ろを、トボトボと肩身の狭い思いでジャックがついて歩く。クーファンの中から愛らしい赤ちゃんを抱き上げる姿が余りにも自然で、その光景に目を奪われていたジャックは瞬き一つする事なくただじっと無言で見つめていた。
「――? どうしたの? どうぞ掛けて? 今お茶入れるから」
「あ、いや、お構いなく……」
彼女に声を掛けられてハッと我に返る。そう言われてソファーに腰を掛けるも、どこか他人行儀な返事をしてしまった。
彼女が抱き上げた途端泣くのを止めた赤ん坊を見ると、複雑な気分に陥った。
一年半前。自分がもう少し上手く事を進めていれば、少なくとも今よりは幸せな日々を送ることが出来ていたのであろう。赤ん坊を抱いている彼女の背中ごとすっぽりと抱き締めて、この上ない幸福感で満たされる毎日。そんな幸せな日々を彼女と過ごす事が出来ていたのかもしれないと思うと、後悔の念に押し潰されそうだった。
ジャックとしては予想もしていなかったこの展開が、己の身勝手さを際立たせ、本当に自分は馬鹿な男なのだとそこで初めて自覚した。
「はい」
「――え?」
ソファーに座りながら苦々しい表情をしているジャックに、叶子が赤ん坊を差し出した。
「抱っこしてて? お茶入れてくるから」
「あ、いや、でも。あ、僕なら本当、構わないでいいから」
「ううん、セナちゃんもそろそろミルクの時間なのよ。だからお願い、――ね?」
「――あ、そう……」
そう言って半ば強引に赤ん坊の世話を任され、微妙な気持ちになってしまった。
元来、男親と言うのは粗末に扱われるもので、こういった対応も彼は幾度と無く経験してきたから慣れていた……はずだった。あの頃はさほど悲しい気持ちにはならなかったのは、きっとその子が自分の血をわけた子どもだからといった優越感故なのだろう。今、腕の中にいる子がそうではないからきっとこんな複雑な気持ちになってしまうのだと、自分で自分に言って聞かせるように心の中で呟いた。
「……」
それにしても、久し振りに抱く赤ん坊の感触に知らない相手に対して抱いていた嫌な感情も次第に薄れ、自然と頬が緩み始める。紅葉の様な小さな手を伸ばし、彼の頬を触りながら「あー」とにこやかな顔をした穢れの無い表情を見ると、いつまでもうだうだとしているのはこの子に対して失礼だと自分の気持ちを心の底に押し込めた。
「かわいいなぁー、ママ似かな?」
キッチンカウンターの向こうから、哺乳瓶を振りながら彼女が戻って来た。
「ううん、絶対パパ似よ? 目元なんかそっくりなんだから」
そう言って、彼の前にライム入りのペリエを置くと、ジャックから赤ん坊を抱き上げて哺乳瓶を口にくわえさせた。叶子がまだ、自分の好みを覚えてくれていた事に感激するも、彼女の言ったことが妙に引っ掛かる。
(目がパパ似?)
赤ん坊でもわかるその切れ長の目に、一人だけ彼が思い当たる男がいた。
(……健人君? まさか、あいつなのか?)
あれ程、自分の足元にも及ばないのだと言っていた相手に、あっさりと足元を掬われてしまっていたとは思いもよらなかった。心底情けなくてがっくりと肩を落とし、顔を両手で覆い隠した。
(ああ、もうどうしようもなく……、――ムカツク)
「あれ? もう寝ちゃった?」
彼の頭の中がそんな事になってるとは知らず、哺乳瓶をくわえたままあっと言う間に眠りに落ちてしまった赤ん坊。この子にあたるのは筋違いだとわかっているのだけれど、彼女の腕の中で幸せそうに眠っている姿を見るとやはり複雑な気持ちになった。
叶子は赤ん坊の頭を支えながら縦に抱き上げ、トントンと背中を叩いて空気を吐き出させると、起きてしまわないようにそっと再びクーファンに寝かせた。
手馴れた一連の動作に、一度は仕舞い込んでいた感情が溢れ出そうになるのを感じる。
「――? どうかした?」
最後に会った時は顎のラインで揃えていた彼女の髪も随分伸び、初めて出会った頃と同じくらいの長さまで伸びている。相変わらず年齢を感じさせない愛くるしい顔で首を傾げ、様子のおかしいジャックを不思議そうに見つめている。
「――」
そんな愛しい彼女を目の前にすると、先程まではこうなってしまったのは仕方が無い事だと割り切るつもりでいたのが、相手が健人だと気付いた途端、時既に遅しと思いながらも焦りの感情が堰を切って溢れ出てきてしまった。
「――カナ?」
「?」
「僕はね。今日君に会って、もし既に君に誰かいい人がいたとしても、僕はその相手から君を奪う位の心積もりでいたんだ。でも、まさか……君がもう結婚してこんなかわいい子どもまでいるなんて」
「ジャック?」
驚いて目を丸くしている叶子に向かって、ついには箍が外れたように思いの丈をぶちまけた。
「いやね!? 確かに僕が以前アメリカに帰るって言った時に、君に『僕の事は忘れて』みたいな事を言ったのはわかっているから、君を責めるつもりは勿論ないんだけどっ! ……そもそも、何も言わず勝手にまたアメリカに帰ってしまったのは僕だし、こんな事になっても不思議では無いんだけど。でもね! まさか、あの健人君と結婚していたなんてっ! 僕なんだかショックでさ……」
こんな話を今更してどうなると言うのか。勢い良く話し出したはいいが、話の途中からそんな事ばかりが頭の中を駆け巡っていた。
「ああっ!! もう僕は本当に馬鹿な男だ!」
ジャックはついに頭を抱え込んでしまった。
「あ、あの、ジャック? な――」
叶子が何かを話し出そうとしたその時、誰かが訪れた事を知らせるチャイムが鳴った。
それに反応したジャックがゆっくりと顔を上げる。きっと、ドアの向こうには健人が立っていて、自分の姿を見た途端、それ、見ろと言わんばかりに見下した目を向けるのだ。そう思うとおぞましくてたまらない。
もう、どうあがいても健人と顔を合わせてしまう。逃れることは出来ないと思った彼は、観念してその場で立ち上がった。
「僕、そろそろ失礼するよ」
「え? ――あ、ちょっと??」
ジャックは逃げるようにして玄関へと足を進めた。
こんにちは、まる。です。
この度はご訪問有難う御座います。
さて、長々と続いてまいりましたこの『運命の人』ですが、
とうとう次話で最終話となります。
宜しければ最終話までお付き合い下さいませ^^




