第2話~それぞれの想い(健人・叶子)~
「カナちゃん、すっかり元気になったみたいだな」
健人が喫煙室にいたところにたまたまボスがやって来て、開口一番そう言われる。
「そう、っすね」
ジャックの婚約報道が世に流れ出た時、彼女の変化は顕著に現れ出た。
目にはクマを作り頬は痩せこけ、新調したわけでもないのにやたらと余裕のある衣服。誰が見ても痛々しいその姿に、何があったのかなんて声を掛けることすら出来なかった。だが、この間の社のパーティーがあった時から、叶子は何処か吹っ切れたかの様に見える。元気になってくれたのは喜ばしい事だが、あの日、酒に酔った叶子をブランドンが抱きかかえ、二人して会場を後にしてからの変化とあればとても手を上げて喜べるものでは無かった。
あの頃、叶子が落ち込んでいるのは目に見えてわかってはいたが、弱っているところにつけいるのは自分自身が許せなかった。仮にそれで上手くいったとしても、後になってあの時は落ち込んでいたから仕方なく、なんて言い訳をされたくも無い。ちゃんと自分自身を見て、それでいて自分の事を好きになって欲しい。そんな思いが先に立ったせいで、最終的にブランドンに足元をすくわれる結果となってしまった。
ブランドンの勝ち誇った顔が目に浮かぶ。健人を見下ろし、片方の口の端をクッと上げ『どれほど奇麗事を並べようが、結果が全てだ。相手の為に我慢するのが美徳と思っているのか、日本人はいつもこうやって出遅れる。――滑稽だな』と吐き捨てる様に蔑むブランドンが頭に浮かんだ。
(――クソッ!!)
火を点けて間もない煙草を灰皿にグイグイと押し付け、奥歯をギリッと噛み締めた。
◇◆◇
「ただいまぁ」
玄関を開け、ポツリと一人ごちる。
誰も出迎えてくれるはずもないその部屋は真っ暗で、一人で住むのに丁度良い広さの間取りも、今の彼女にとっては広すぎて一層寂しさが増すようだった。
この間の正博との一件もあるし、オートロックすらついていないこの部屋からそろそろ引越した方がいいのかも、と叶子は思う様になっていた。
「……」
この部屋にいると、ジャックとの事を嫌でも思い出してしまう。
玄関で突然の別れを告げられた事や、恋人同士になってから初めてジャックと朝を迎えた事。『一緒に住もう』と、彼が言ってくれて二人で荷物を取りに戻った時、玄関に座りこんでいた彼の広い背中。
『カナ』
目を瞑れば聞こえる彼の優しい声。
『カナ、愛してるよ』
何度も繰り返される愛の言葉。
だが、それらは全て偽りで、今の状態が本来自分があるべき姿なのだと思う様になってしまった。
「――」
テレビをつければ時折目にする彼とカレンの婚約報道。耳を覆いたくなる現実に、叶子の胸は張り裂けそうになっていた。
「――ジャ……ック」
部屋のカーテンを全部閉め切り、真っ暗な部屋の真ん中でペタリと膝から崩れ落ちる。キリキリと痛む胸を押さえると、ポツポツとスカートに染みを作りながら何度も彼の名前を呼んだ。
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「はぁーっ、やっぱり目が腫れちゃってる」
疲れきった体と心を癒そうと、温かい湯船にゆっくりと浸かりながら久し振りに思いっきり泣いてしまった。わざわざ鏡で確認しなくてもわかる瞼の重みに、何度も溜息を繰り返す。熱いお湯にくぐらせたタオルを瞼にあて、したたり落ちる髪の雫もそのままに、うらめしげに洗面台の鏡を見つめていた。
「……?」
リビングからインターホンが鳴る音が聞こえる。真夜中に突然訪れた訪問者に、叶子は思わず息を潜めた。こんな時間に一人暮らしの女性の部屋のチャイムを鳴らすなんて、どう考えても気味が悪い。第一、今は風呂場から出たところで、人に会える姿ではないしこのまま放置しておこうと決め込んだ。
それでも繰り返されるチャイム。
叶子は恐ろしくてその場にうずくまったが、もしかして……と、僅かながらの期待を抱き始める。
「……!!」
何の根拠も無いのに彼が来たのだと思い込んだ叶子は、髪の雫もそのままにドタドタドタと廊下を走り抜けると確かめもせずに玄関の扉をガバッと開けた。
「っ!! ――……」
確かにチャイムが鳴っていたはずなのに、ジャックは愚か人の姿すら無い。しかし、だんだん遠ざかっていく革靴の音を叶子が聞き逃すはずはなかった。
歩幅の大きい彼特有の歩き方。同じ音を刻むその人が、叶子がずっと待ち焦がれていた人物なのだと物語っている。
今、追いかけなきゃもう会えないかもしれない。
必然的にそう思うほか無い位追い詰められていた叶子は、部屋着のままで玄関から飛び出し、後先考えずにその靴音の後を追った。
エレベーターに向かう通路に出る角を曲がると、確かな人影を見つける。両手をぎゅっと握り締め、叶子は声を張り上げた。
「ジャック!!」
「……、――」
一瞬ビクっとして振り返ったその人影は、驚きのあまりしばし硬直しているようだった。エレベーターが到着し扉が開き始めると、その中から零れ出た明かりでその人物の顔がくっきりと浮かび上がる。口元をフッと緩めたかと思うと薄い唇が開き、そこから柔らかい声がポロロン、と零れ落ちた。
「カナ」
「――!! ジャック!」
叶子が駆け寄り、彼が両手でそれを受け止める。久し振りに触れる彼の温もりを感じると、もう二度と離れるものかと言わんばかりに、彼女の腕が彼の首元にしっかりと回された。
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「もう、いくらなんでも裸足とかありえないよ。ガラスでも踏んで怪我でもしたらどうするの?」
「だ、だって」
ソファーに座らされた彼女の足を、温かいお湯にくぐらせたタオルでジャックが丁寧に拭いてくれる。時折、弱いところに触れられる度、何度も身体を捩らせた。
「せめて来る前に一本電話してくれれば、私だって呑気にお風呂になんか入らずに待ってたのに」
裸足で飛び出していた自分が何だか気恥ずかしくて、彼に責任転嫁をする。
「したよ? 勿論」
そう言われてから初めてテーブルの上に置いた携帯電話に目を向けると、確かに着信があったのを知らせるランプがチカッチカッと点滅しているのが見えた。
「あ! そうだったんだ。ごめんなさい、いつもより長くお風呂に入ってたから」
彼の事を思って泣き濡れていた事を思い出してしまった叶子は、足元で跪づいて自分を見上げる彼から目を逸らした。
ジャックはタオルを置くと、そのままの姿勢で彼女の手を掬う。その動作にハッとして視線を戻した叶子は、瞬きひとつもしない真っ直ぐな彼の瞳に射抜かれ、言葉を無くしてしまった。
「――今日はカナを抱きに来た」
「――」
どこか思いつめた様な顔をして彼がそう言うと、手の甲にそっと口付けた。
真剣な面持ちのその瞳は、決して冗談で言っているのではないのだと誰にでもわかり得るほどに、熱っぽいものだった。
「……っ、」
二人の重みできしむベッドは、彼が少し動くたびにギシッギシッと音を立てている。彼の部屋にある高価なベッドでは到底出ない様な音は余計に鼓膜を刺激し、簡単に高みに連れて行かれてしまう様だった。
ジャックが帰国してからも、なんだかんだと身体を重ね合わせる事が出来無かった二人は、焦らされた分だけ互いを貪欲に求めてしまう。食む様にして何度も重ね合わせる唇、性急に入ってきた彼の舌が彼女の口腔内を侵し始める。くぐもった声と二人の水音が次第に加速を始め、一体どこまで登りつめてしまうのだろうかと不安になるほどだった。
チュッと音を立てて唇が離れ、ジャックの額と叶子の額が合わさる。頬が紅潮し、蕩けた叶子の目が彼の思考を吹っ飛ばせた。
「ごめん、優しく出来ないかも」
切羽詰った様な言葉に小さくコクンと頷き、叶子はジャックを受け入れた。




