第1話~それぞれの想い(ブランドン)~
自身の上にのし掛かる影を、ぼんやりとした目で見上げる。そこには情火に身を焦がした一人の男がまるで試すような言葉を吐き、そして彼女自身が行動にするのを息を飲んで見下ろしていた。
唇が触れたとしても、なんらおかしくない互いの距離。試すような言葉とは裏腹に、その男の手は少しづつ彼女の衣服を寛げていった。
不覚にも、水と勘違いして大量に口に含んでしまったアルコール。すぐに気付いたものの、大勢の人がいる中でそれを吐き出すことが出来ず、仕方なく一気に喉に流し込んだ。
よりによって叶子が一番苦手とする日本酒は、あっと言う間に疲労困憊の体の血の巡りを活性化させたと共に、それについていけなくなった身体は彼女を暴徒化させる。今真上で自分を見下ろしている男が誰なのか全く理解出来なければ、自分が何を言っているのかもわからない状況だった。
衣擦れの音がし、火照った体がひんやりとした空気に晒される。それが妙に心地良くてゆっくりと目を瞑ると、もう一度夢の中へと堕ちそうになっていた。
「――、……」
と、その時、聞き覚えのある電子音が聞こえ、眠りの淵から徐々に這い上がり始める。真上で、「チッ」と舌打ちをする音が聞こえた事でゆっくりと瞼を開けていくと、見覚えのある顔が次第に輪郭をあらわし、その事実が彼女を愕然とさせた。
「……あ」
はっきりと覚醒した意識の中。いつまでも鳴り止まぬその音は、足元がおぼついてまともに歩く事すら出来なかった叶子を難なく動かせた。
「――? おい」
頭上から聞こえる男の声に聞く耳も持たずソファーから床へと転がるように降りると、床を這いながら音の鳴る方へと向かった。
床に転がっているバッグの中から急いで携帯電話を取り出し、まるで今の現実に目を背けるようにしてソファーにいる男に背を向け、携帯電話をギュッと耳へ押し当てた。
「――もしもし? カナ?」
「ジャ、ック」
「……」
彼の声を聞くのは一体いつ振りだろうか。もう、とうの昔の記憶は彼女自身で封印してしまっていたせいで、考えてみた所で何も浮んでこない。懐かしい彼の柔らかい声を聞きながら肘に溜まった衣服を肩に掛けなおすと、その場でぺたりと座り込んだ。
彼の父が築き上げた会社を守る為、――そして愛する恋人を守る為にジャックはカレンとの婚約を選んだのだとブランドンに聞かされた。途端、頭の中が真っ白になり、その時から彼女の脳は考える事を放棄してしまっていた。
どんなに足掻いた所で自分にはどうする事も出来ないのだと、半ば諦めに近いものもあった。だが、やはり彼の声を聞いてしまえば、もっと、もっとと欲張ってしまう。彼からの愛情を感じることが出来なかった期間が長いせいか、叶子は普段は絶対言うことのない願いを口にし、ジャックを困らせた。
「ジャック、今すぐ逢いたい」
「カナ?」
「お願い、今すぐ来て」
「……」
そんな願いも虚しく、「逢いたい」と何度も繰り返す彼女への返事を貰うどころか、ジャックはグッと胸を突き刺すような言葉を吐き出した。
「カナ? ――そこに……ブランドン、いるんでしょ? 話をしたいからちょっと代わって?」
「え? な、に――」
片膝を立て、ソファーに座り込みながらじっと叶子の様子を伺うブランドンの気配を背中に感じる。チラリと横目で見てすぐに視線を外すと、反射的にジャックの言葉を慌てて否定した。
「な、何言ってるの? いるわけ無いじゃない」
「カナ?」
「え?」
「ブランドンに代わって?」
「――」
決して声を荒げる事も無く、終始穏やかな彼の口調。何もかもお見通しだと言うようなその口ぶりに、叶子は観念したのか携帯電話を握り締めた手を後ろに伸ばした。
「……」
「あ、の、代わってくれって」
ピクンッとブランドンの片方の眉が上がる。のっそりと立ち上がると、叶子の手から携帯電話を受け取った。
◇◆◇
まるで、さかりのついた雌猫のように甘ったるい声で男を誘う。髪を指で梳いてやると、うっとりと目を潤ませ熱い吐息を吐いた。
きっと、コイツなら今までのジャックの女達とは違い、自分が慰め役を買って出る様な偽善行為をしなくて済むだろう。ブランドンは初めて叶子に会った時、彼女に対するジャックの態度を見てそう感じていた。なのに、今、自分の下でゴロゴロと喉を鳴らしているその雌猫によって、ブランドンの心は掻き乱されてしまっていた。
(お前も他の女達と一緒なのか? 俺を、ジャックの代わりにするのか……?)
ブランドン本人ですら気付かぬ内に芽生えてしまった叶子に対する特別な感情。すぐにでも思いっきり抱いて何度も啼かせてやりたい気持ちと、弟の身代わりにさせられようとしているこの現実に激しく狼狽し、そして、ジャックへの気持ちはブレないだろうと彼女の事を信用していたのを裏切られた様な複雑な思いが入り乱れる。混乱した頭の中とは裏腹に彼女を欲する欲望が顔を出し、いつも沈着冷静なブランドンですら己の理性を保つ事が難しくなっていた。
そんな中、携帯電話の音が室内に鳴り響いた。
その音によって意識を取り戻した叶子が、床を這いながら音の鳴る方へと向かっていく。そんな彼女の様子から、電話の主はジャックなのだろうとすぐに察することとなった。
二言三言、言葉を交わしたと思ったら何故だか電話を渡される。その時に見えた彼女の横顔からして尋常ではない事が起こるのではないかと怯えているのが手に取るようにわかり、ブランドンは覚悟を決めた。
「――何だ」
「……、はぁーっ」
電話の向こうでジャックの大きな溜息が零れた。
その溜息の意味するところは、電話口でブランドンの声を聞くまでは彼女の事を信じていたかったのだろうという事を物語っていた。まんまとジャックに嵌められてしまったブランドンは、自分の至らなさに奥歯をギリッと噛み締めた。
しばし無言の時が流れ、痺れを切らしたブランドンが結論を急いだ。
「用が無いならもう切るぞ」
「――ブランドン、わかってるだろうけど」
「何だ? また俺のせいにするつもりか? ――なら、」
ジャックの言葉を遮ったブランドンに、ジャックが更に言葉を被せる。
「カナは、歩じゃないんだぞ?」
「――っ!」
すっかり忘れていた懐かしいその名前に、心の奥に仕舞い込んでいた何かが蓋を突き破り、一気に流れ出てきた。
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ブランドンに言われたとおり、エンジンを切りマンションの下で停車していた車に乗り込むと、ルームミラー越しにビルの視線を感じた。
「……。――何?」
さも、何か言いたそうにしているビルに対し、ブランドンは一切表情を変えなかった。
「遅かったな」
「――やっぱりお前か、ビル」
「……」
ビルはブランドンの問いかけに応じないまま、ゆっくりと車を走らせた。
明けましておめでとうございます。
本年も宜しくお願い致します。
今年一発目の更新です。
そして、又正月休みに戻ります。。。
と言っても、さほど間は空けませんので、又のお越しをお待ちしております。
今後とも『運命の人』を宜しくお願い致します。




