第15話~月と太陽~
深夜のマンションの廊下にコツンコツンと革靴が踏み鳴らす音が響き渡る。叶子の部屋から飛び出したブランドンの顔にいつものポーカフェイスは跡形も無く、酷く動揺している様に見えた。
エレベーターホールで下に降りるボタンを忙しなく何度も押す。扉越しに動き始めた太いワイヤーが何本も上下するのを、ブランドンはただ黙ってボーっと眺めていた。
叶子を抱き締めながら言った台詞。それは、彼女に対してと言うよりも、まるで自分に言い聞かせているようだった。
(どうかしちまったのか、俺は)
「――くそっ!!」
壁にドンッと手を打ち付けると、頭をだらりと落とした。
◇◆◇
「……っ、」
目の前にある長い睫毛にジャックの面影を重ね、見開いていた目は次第にゆっくりと閉じられていった。
ジャケットに縋るようにして掴んでいた筈が、反対に手首を捕らえられてしまった。バランスを崩したこの体勢では、予想外に起こったこの出来事に素早く反応する事が出来ない。後頭部に手を差し入れられ、ブランドンに対する感謝の言葉は彼自身の唇によって塞がれた。
話をしている最中だったせいで、半開きになっていた唇を完全に塞ぐように重なったブランドンの唇。だが、決してそこから先に進むわけでもなく、道ならぬ恋を愉しもうとしている様には感じられなかった。
「――」
元彼に首を絞められ、生と死の間を行き交ったと思ったら最愛の人が他の女性と婚約したと言う話を聞かされた。流石に色んな事が一気にあったせいか、本来、はねつけるべきだと言うのにそんな事も思いつかず、何故か重ねられているだけの唇がもどかしいとさえ思ってしまっていた。
「――っ!」
「――」
突然、唇が解放され互いの額が合わさる。苦しそうに顔を歪ませながら目を伏せているブランドンは歯を食いしばり、まるで何かに耐え忍んでいるかのようにだった。
「な、ぜ?」
「……?」
「何故、拒まない?」
「……もう、どうでもいいかな、って」
「っ、」
そう言うと、息が止まりそうなほどギュッと抱き締められた。
ブランドンの胸の音が早く刻んでいるのに対し自分の鼓動はいつも通りで、二人の間に温度差が感じられた。
今自分の身に起こっている事だというのに、まるで他人事の様だった。
「どうでもいいとか言うなっ! お前は……、ジャックにはお前が、あいつはお前がいないとダメなんだよ! ……これ以上、あいつに辛い思いをさせるわけにはいかないんだ」
「……」
そう言い切ると、抱き締める腕の力がふっと緩んだ。ブランドンは叶子の肩を掴むと、腕をピンと伸ばして距離を取った。
「頼むから、人の事ばかり考えてないで自分をもっと大事にしろ。ジャックを、――あいつを信じてやってくれ」
無気力になっている叶子にそう言うと、ブランドンは逃げるように部屋から飛び出していった。
「ブランドンさん、言ってる事とやってる事が……。――?」
そう呟きながらテーブルに置かれた名刺を手にし、“小田桐 聖夜”と書かれたブランドンの日本語名に目が留まる。ジャックにしろブランドンにしろ、誰も日本語名で呼ぶ者はいないのだなと思うと、笑みが零れ落ちた。
「聖人と聖夜かぁ」
まるで燦々と大地に降り注ぎ、誰をも元気付ける明るい“太陽”の様な弟ジャックと、漆黒の夜空にポツリと輝きながら夜道を照らし、自ら発する光で道標を記す“月”の様なブランドン。
月は太陽がいなければ自身を輝かせる事は出来ず、太陽は月がいるからこそ昼も夜も関係なく、地面を照りつける様な真似をせずに済む。二つは正反対の特性を持っているが、実は片方が欠けるともう片方は成り立たない。ブランドンがこうしてジャックの為に陰で走り回っていること、そして、ジャックがしっかりしているお陰でブランドンは長男だと言うのに、未だ独身で世継ぎの心配をせずとも勝手気ままな人生を送る事が出来るのだと言う事を考えると、まさに二人は“太陽”と“月”の様だ。
「仲が悪いのかと思ってたら、……そうじゃないのね」
「ジャックの事も、ブランドンさんの事も、私はまるで何もわかってないんだなぁ」と、ひとりごちると、テーブルに顔を突っ伏した。
◇◆◇
「カナちゃん、俺、会場内の最終チェックしてくるから、受付フォローして。そろそろ来賓が来るはず」
「あ、うん。わかった」
そう言うと、健人は大きな扉を開け、会場の中へと消えていった。
その時チラッと見えた会場に、大勢の記者に囲まれたジャックとカレンが婚約発表をしている光景が目に浮かんだ。
(もう、忘れなきゃ――)
そう思いながらも手にした来賓出席名簿を見て、彼の会社だけがノーマークになっている事に溜息を吐いた。
JJエンターテイメントの為に、わざわざこんな豪華な会場を用意したと言うのに、来るとも来ないとも何の音沙汰も無い。
――勿論、彼から個人的に連絡が来る事も無かった。
あんな事があったから、ブランドンには後日、お礼も兼ねて自分の携帯番号を伝えようと一度だけ電話を掛けてみた。叶子がお礼を言うと相も変わらず、『うるさい』だの『黙れ』などと詰られたが、二言目には『あの野郎はあれから来ていないだろうな?』『あんなオートロックも無いようなマンション、すぐに引っ越せ』『何かあったらすぐに連絡しろ』『ジャックの事を信じて待ってやれ』と、全て命令口調で声のトーンも一本調子だったが、それでもブランドンの優しさが詰まった言葉を沢山貰い幾分心が救われた。
――とにかく、彼を信じてみよう
自分とは別世界に住む彼との付き合いに段々慣れてしまったのか、思っていたよりかはさほど引き摺る事も無く、――ただ、淡々と毎日が過ぎていった。




