第9話~生ビール~
「こ、ここですか?」
叶子の問いかけを又もや無視し、ブランドンはガラガラガラッと立て付けの悪い扉を開けた。
さっさと店の中へ入ってしまったブランドンに置いていかれないようにと、急いで油の染み付いた暖簾をくぐる。とっくに中に入っていったものと思っていたブランドンがまだ入り口にいた事に驚き、その場で立ち止まってしまった。
「――早く中に入れよ。閉めれねーだろ?」
「……。あ! は、はい、すみませんっ」
片方の眉をクッと上げて叶子を睨みつける。慌てて店内に入ると、ガラガラガラッと扉を閉めた。
ジャックといい、ブランドンといい、さらっとさも当然かの様に紳士的な振る舞いをやってのける。ブランドンに至っては口の悪さが少し勿体無いと思う反面、変に気負わなくていいのかもしれないとも思った。
強制的にブランドンに連れ出され、何処へ行くのかと思えば行き着いた所はいわゆるガード下に立ち並ぶ飲み屋横丁。醤油の焦げた香ばしい香りが辺りを漂い、その匂いを嗅ぐだけでも白飯が食べられそうな程、食欲をそそられた。
ブランドンは軽く店内を見回すと、空いている席を見つけてさっさと足を進める。カウンターに座っているリーマンが、店員相手にくだを巻いている。その後ろをぶつからないようバッグを抱きかかえながら、二人はカウンターの席に腰を落ち着かせた。
「生でいいか?」
「あ、はい」
大金持ちのブランドンが小洒落た焼き鳥屋ではなく、ディープな下町の焼き鳥屋をチョイスした事に驚きを隠せない。当の本人はいつもの事だと言わんばかりで、注文一つにしても慣れた様子が感じられた。
「おやっさん、生二つね」
「あいよっ! ――生二丁!」
温かいおしぼりがポンポンッとカウンターに置かれ、叶子はそれを手に取る。汗だくのおじさんが後方に向かってオーダーしたものを叫ぶと、「はいよー」とも「あいよー」とも「ういー」ともとれる返事が奥の方から聞こえた。
「はいよ、お待ちー!」
そして返事が聞こえたと思った瞬間、もう生ビールが運ばれてきた事に目が点になった。
「ん」
「あ、お疲れ様です」
ブランドンが肘をカウンターにつきながら、ジョッキを軽くぶつけてきた。冷たくて全体的に濡れているジョッキは、ジョッキ本来の重みも加わり片手で飲むには持ち辛い。叶子はまるでお茶をすする様にして片手をジョッキの底に添えた。
それでも仕事の後の一杯はやはり格別だ。一口飲んだ後、店員がまた直ぐに新しいジョッキを一つ持ってきた事に叶子は首を捻った。
「え? もう来ましたけど? ……えっ!?」
ダン、と音を立てて置いたブランドンのジョッキは、既に空っぽになっていた。新しいジョッキと交換するが、また直ぐに飲み干してしまいそうになっている。ゴクッゴクッと飲み込む度に喉仏が上下する様をジーッと見つめていると、見られている事に気付いたブランドンが眉間に皺を寄せた。
「ジロジロ見んなよ、酒が不味くなる」
「あ、はい、すみません」
(何でだろう。ブランドンさんの私に対する風当たりが、どんどん厳しくなってきてる様な……?)
こういった扱いに慣れていない叶子は、しゅんと肩を落とすとまたちびりとジョッキに口をつけた。
「はい、お嬢ちゃん、これ突き出しね」
「え? お、お嬢ちゃん、って」
「そんなに若く見えたのかなぁ?」なんて独り言のように照れていると、ブランドンにあっけなく現実を教えられた。
「ここは女に見えるなら何歳でも『お嬢ちゃん』って呼ぶんだよ。ほれ、向こうのカウンター見てみろ」
そう言われ、顎を上げたその先を見てみると、そこには白髪混じりで小太りな女性がいい顔色で座っていて、「はい、お嬢ちゃん、お待ち!」と、確かに言われていた。一瞬でも喜んでしまった事に恥ずかしさを覚えた。
「あ、ブランドンさんの突き出しは? ――あ、すいませーん」
「俺は要らないの」
「え? あ、そうなんですか? ――あ、ごめんなさい、間違えました」
叶子の方へとやって来た店員にそう言うと、「あいよ!」と言いながら元の持ち場に戻っていった。
「黙って座ってりゃ全部出てくるから」
「そうでしたか。随分慣れてるんですね」
ブランドンの言った通り、座ってから五分も経っていないと言うのに、次から次へと色んなものが出てきた。一見流れ作業的にも見えるその仕事っぷりは、ちゃんとお客さんの目線で動いている。時折、冗談を交えつつも、キチンと客の要望を満たしていた。
「凄いなぁ」
興味津々と言った面持ちで、カウンター内のやりとりにしきりに感心していた。
こういう場所に来た事が無かった叶子は、目にするもの全てが新鮮に見える。一見すると、ここの店員の動きは雑なように見えるが、良く見ると的確な動きをしていて無駄が無い。ジャックとのデートでこういった類のお店は来た事が無かったけれど、こういうのも悪くは無い。いや、もしかしたら意外に好きな方かもしれないなと、まんざらでもない様子であった。
そんな事を考えている内に、三杯目のビールがブランドンに運ばれ、ふと我に返った。
「お前、今、俺いるの忘れてただろ?」
「え!?」
なぜこうも言い当てられてしまうのか。ついつい、店員の動きに見入っていたら勝手に自分の世界に入ってしまい、ブランドンが一緒にいる事を忘れてしまっていた。
そもそも、何故ブランドンとここに来る羽目になったのか。アルコールが少し入ったせいか、一段と鈍くなった頭をフル回転させた。
「……俺と健人の会話の意味が知りたかったんじゃないのか?」
「あ! そうです! それです!」
「ったく、世話の焼ける奴だな」
「す、みません」
間が持たないかの様にジョッキを両手で持ち、ちびりと舐めるように飲んだ。
「さっきの様子だとお前は何にも知らない様だな」
「の、でしょうかね?」
呑気な返答に、ブランドンはあからさまにイラつきをみせる。そんな彼に軽く怯え、もう何も聞かない方が良かったのかもと後悔した。
はぁーっとブランドンが大きなため息を吐く。
「ジャックはまだ俺を怨んでるんだ」
「え? それってどういう――?」
その言葉の意味するところは一体何なのだろうか。ブランドンの口から発せられた信じられない内容に、叶子はしばし言葉を失っていた。




