第5話~感謝~
叶子を抱きかかえた状態でブツブツと文句を言いながらも、ブランドンは暗い廊下をただひたすら歩いていく。最初の方こそ足をじたばたとさせていた叶子も今となっては観念したのか、じっと大人しくブランドンに抱きかかえられていた。
ジャックの部屋に通じるリビングの扉の前に到着したその時、叶子はハッとした表情になり再び身を捩りだした。
「降ろしてください!」
「なんだ、まだ抵抗する気力があったのか」
「あ、ちょっ!」
それでもブランドンはおかまいなしに、器用にリビングの扉を開けて中に入った。そこにジャックが居なかった事にホッと胸を撫で下ろしたのも束の間、ブランドンはあろう事か叶子を抱き抱えた状態でジャックの部屋の扉にずんずんと向かって行く。抱きかかえられているこの状態をジャックに目撃されるより、手が滑って床に落とされた方がましだと、更に全力で体を捩った。
「っ!? だ、駄目っ! 降ろして! ほんっとに!!」
だが、当のブランドンは平然としていて、落とされそうな様子も全く無くサクサクと歩いていた。
以前、健人と二人でゲイバーから出て来た所をジャックに目撃された時の、その後の彼の切れっぷりが走馬灯のように頭を駆け巡る。
(もうおしまいだ!)
ジャックの部屋の扉の前に来た時、叶子はそう思った。
「ああ、そうか」
ブランドンは何処か一人で納得したようにボソッと呟くと、ピタッと進むのを止めた。
急に回れ右をするとリビングのソファーに向かうと、そっと、壊れ物を扱うかのように叶子をソファーに降ろし始めた。普通ならばこんな体勢になると、腕がプルプルと震えてもおかしくないのに全くそんな素振りは見えない。社長室で見たブランドンの肉体美を思い出し、男と言うものを改めて感じた。
「悪かったな、気が利かなくて。そりゃ、こんな状態であいつに会ったら、あいつ何しでかすかわからんもんな」
ジャックの性格を良くわかっているブランドンらしく、どうなるのかあらかた想像がつくと言った物言いで苦笑いをする。叶子も少し口を尖らせながら黙って頷くと、ブランドンは再びジャックの部屋の扉へと向かった。
荒っぽい様子で、コ、コンッ! とノックをしたと同時に扉をガバッと開く。ドアノブと壁に手を置いたまま、上半身を乗り出して部屋の中を覗き込んだ。
「おーい! ジャック! 荷物が届いたぞー?」
(荷物って……)
一瞬ムッとした感情をぐっと抑える。ブランドンのお陰でジャックに会えるのだと自分に言い聞かせる事で、どうにか顔に出さずに済んだ。
「っかしいなぁ、向こうの広間かも知れんな。呼んで来てやるから中入ってて」
親指を立ててジャックのプライベートルームの方を指差しながら、ブランドンはスタスタとリビングの扉へと向かった。
「あ、はい。……あ、あの! ブランドンさん!」
「ん?」
「あ、有難う御座います。その、……色々と」
「――」
リビングの扉から出ようとしていたブランドンが、その言葉に一瞬立ち止まりゆっくりと振り返った。その表情は感謝の言葉を述べられた人がする様な顔ではなく、口を半開きにして驚いている様な、まるで何を言っているのかわからないとでも言いたそうな、そんな表情をしていた。
(え? 私、何か変な事言った??)
そんな顔をされるとは予想もつかなかった叶子は首を傾げた。すると、ハタと気付いた様に半開きになっていたブランドンの口元がきゅっと結ばれる。
「……どういたしまして」
そう言うと、今まで見たことも無い程柔らかい表情でニッコリと微笑み、パタンッとその扉は静かに閉ざされた。
◇◆◇
閉ざされた扉を背にして、ブランドンはジャックを呼びに再び暗い廊下を歩き出した。
「ありがとう、――か」
そう言われて、正直驚いた。
ブランドンの性格上、人に文句を言われる事はあっても感謝の言葉を述べられた事は、今の今までそうそう無かったからだ。どうにもこそばゆい感覚に慣れず、こんな事なら文句を言われている方が気が楽だと思えた。
長い廊下の先に広間の明かりが見え、その中へと入って行く。キョロキョロと辺りを見回すが、ジャックはおろか人の気配すら感じられない。
「――。……?」
ふと、奥のキッチンから水の流れる音が聞こえてきて、ブランドンは足を進めた。
キッチンを覗きこむと、グレースがケトルに水を入れてお茶の支度をしている様だった。
「グレース、ただいま」
「――? おやまぁ。お帰りでしたか」
水を汲み終えたグレースはコックを捻ると、後ろを一度振り返ってブランドンの姿を確認し、そしてそのままケトルを火にかけた。
「ジャックは何処に行った? 部屋にいないんだが」
「坊ちゃんはまだお戻りではありませんよ、じきに戻られる頃だとは思いますが。どうかなさいましたか?」
「ああ、カナコを連れて来てやったんだが。……仕方ない、ジャックが戻ったらそう伝えておいて」
「おや、それはそれは坊ちゃんお喜びになるでしょう。わかりました、その様に伝えておきますよ」
ほんわかした笑顔でにっこりとグレースが微笑むと、ブランドンはキッチンを後にした。
ズボンに手を突っ込み、もう一方の手で口に蓄えている不精髭を撫でる。ジャックはまだ帰っていないと、叶子に伝えるためにまた暗い廊下を逆戻りした。
「……」
歩いていた足が徐々に速度を緩め、ジャックの部屋へ行く途中でピタリと完全に止まる。何かを思い立ったかのように踵を返すと、ブランドンは叶子のいる部屋から離れていった。




