第15話~胸騒ぎ~
彼のセーターを着ていたせいか、ほのかに香る甘い匂いがまるで彼に包まれているようだった。自然と心が満たされ、いつの間にか叶子は眠りに落ちていた。
叶子の目を覚まさせたのは、聞き覚えのあるクラッシック。寝起きの頭では今自分が何処にいるのかもはっきりわからず、ヘッドボードの上に置いてあるはずの自分の携帯電話を探す。しかし、どれだけ探ってみてもその手に感触がなく、仕方なく、うつぶせに寝ていた頭をムクリと上げた。
「……」
途端、音楽が止まる。先程聞こえてきた音は自分の携帯電話の着信音では無かったのだとそこで気付いた。彼からの着信を知らせるその曲の出所は、彼の部屋で目覚まし代わりに使われているステレオから流れ出ていたものであった。
すぐ側で衣擦れの音がし薄明かりの中で目を凝らすと、ステレオのリモコンを持ったジャックがベッドルームからソファーに向かって歩いている所だった。
まだ寝ていた叶子を気遣ってか、部屋の明かりは最小限に抑えられている。ジャックはソファーの上にリモコンを放り投げると、既に片腕が通されていたジャケットにもう一方の腕を通し、襟元を正した。
「――?」
薄明かりの中、目を細めてベッドルームをじっと見つめる。叶子が目覚めているのがわかると、ジャックは目を丸くした。
「あ、おはよ?」
「お、……はよう」
昨日の夜、あんな終わり方をしたものだから、どんな顔をして彼と接していいのかわからない。勝手に溢れて来る涙を抑えようと枕に顔を埋めて寝てしまったせいで、顔はむくんで瞼も重く、きっと酷い顔をしているのだろう。そんな顔を見られたくなくて、叶子は顔を逸らした。
「あ、朝食貰ってくるからここで待ってて」
「ううん、いいの。いらない」
既に歩き出そうとしていた彼が慌てて立ち止まった。
「調子悪いの?」
「ううん。寝不足だから、胃が気持ち悪くて」
「じゃあ、軽いもの持ってくるよ」
そういい残すと、さっさと部屋を出て行ってしまった。
「全然気にしてないんだ……昨日の事」
いつもと変わらぬ様子の彼を見て、悩んでいたのは自分だけだったのだろうかと、落胆したと同時に少し救われた気持ちになった。
昨夜、あんな言葉を吐き出してしまったと言うのに、ジャックは何も言わずに離れていったのがずっと気掛かりだった。朝、目を覚ませば彼は既にいなくなっていた――。そんな最悪な結末が訪れるのではないかと怯えていた。
「……」
寝ていたベッドの中に手を潜り込ませ、隣にあったはずのぬくもりを探す。しかし、その温もりを見つける事は出来ず、特別シーツが乱れている様子も無かった。その事から、昨夜、彼はここでは寝ていないのだと知る。
「気に、してないよね?」
そう、思いたかった。
両足をそろりと床につけてベッドから抜け出し、ソファーへと向かう。視線をずらして彼のデスクを見れば、昨夜あれだけ散らかっていたのが嘘の様に綺麗に片付けられ、大きなトランクだけがポツンと佇んでいた。
「いつの間に……」
もしかして、彼は寝ずにここを片付けていたのだろうか。辺りを見回しながら近づいていくと、デスクの上に置いてある一枚の封筒が目に入った。勝手に見てはいけないと思いつつも、それだけがそこにあることが気になり、つい手にとってしまう。封筒の中をそっと開けると、そこには今日の日付が記されたアメリカ行きの片道チケットが入っていた。
昨夜、あんな事を言っても何も返してくれなかったのは、やはり自分より仕事が大事だと言う事なんだと証明された様で、胸がぎゅっと痛んだ。
「……?」
不意に、扉が開く音が聞こえて後ろを振り返ると、四角いシルバートレーを持ち、両手が塞がったままでドアを押し開けながらジャックが部屋の中に入ってきた。デスクでチケットを持って佇んでいる彼女を見て、彼は一瞬固まっているようにも見える。だが、ジャックはすぐに何も無かったかのように振る舞った。
「フルーツを少し貰ってきたよ。あと、温かいミルクも」
視線を合わさずにそう言うと、トレーをソファーの前のローテーブルに置いた。
「あ、うん。……ありがと」
握り締めていたチケットをデスクの上に置き、ソファーに座る。てっきり彼も横に座るものだと思い、少しスペースを空けて座った叶子の予想は外れ、ジャックは踵を返すとデスクに向かった。
(やっぱり、……いつもと違う)
また、嫌な胸騒ぎがして落ち着かない。ドクンドクンと心臓の音が耳元で聞こえるくらい大きく波打つのを決して悟られてはいけないと、叶子は平静を装った。
「いただきます……」
まだ熱さの残るマグを両手で包み込むようにして持ちあげたその時、それは何の前触れも無く突然にやって来た。




