第7話~紳士の気遣い~
ジャックに言われたとおり、シティホテルのロビーラウンジでお茶をしながらビルが迎えに来てくれるのを待っていた。わざわざこんな所で優雅にお茶を愉しまなくてもと思いつつ、こういった待ち合わせ場所を指定するのも彼らしいなと顔がほころんだ。お金があるのを誇示していると言う意味ではなく、女性一人でも快適に、そして安全に過ごせる場所を選んでくれたのだろう。待ち合わせ場所一つとっても、大事にされているんだなという気持ちがひしひしと伝わった。
テーブル毎に置かれた小さなキャンドルの炎がゆらゆらと揺れている。ロビーに響き渡るピアノ演奏はパラパラと拍手に包まれながらその音色を奏でるのを終えた。途端、スタッフ達が心なしかパタパタと動き出すのを感じ、ふと手首の時計に視線を落とした。
(十時か……。クローズタイムかな?)
スタッフ達は淡々と後片付けを始めている様子だったが、特に声を掛けてくる様な素振りは無い。一人、二人と他の客は席を立ち、気づけば叶子一人が取り残されていた。流石に気まずくなった叶子は席を立ち、会計を済ませる為にキャッシャーへと向かった。
「失礼ですが、野嶋様でしょうか?」
「え? あ、はい、そうですが……?」
「では、御代は結構です」
「え?」
意味がわからない。何処にもそんなことは書かれていなかったが、今の時間帯はドリンク無料とかでもやっていたのだろうか。それに、何故名前を知っているのかも不思議に思い、納得いかない様子で立ち呆けていた。
「ジャック様から『御代は決して頂かない様に』と言付かっておりますので。お時間の方もどうぞお気になさらずに」
と、どこか自慢気にそう言ったスタッフの笑顔につられて、「……あ、ありがとうございます」と呟きながら軽く頭を下げた。
いつも先手を打ってくる彼の心配りに正直圧倒される。常に先の先まで考えるそんな律儀な性格のせいで、彼は日々仕事に追われているのだろうなと少し心配にもなった。
もう一度、先程まで座っていた席に戻り、中庭が見える外の景色を眺めていた。ふと、絨毯を踏みしめる音が近づいてきたのが聞こえて振り返ると、懐かしい顔に心が安らいだ。
「やあ、久しぶりだね」
「ビルさん! ご無沙汰してます」
叶子は立ち上がると、ペコリと深く頭を下げた。ビルは相変わらず恰幅が良く、人気の無いロビーラウンジの中でよく目立っていた。
「随分待たせてしまって悪いね。あ、待たせついでにもうちょっといいかな?」
「あ、はい」
そう言うやいなや、ビルは先ほど叶子が声を掛けたスタッフを捕まえる。ダダダダーッっと伝票に印字される音が聞こえ、手馴れた様子ですらすらとその伝票にサインをした。スタッフに片手をあげると、受け取った伝票を折り畳みながら叶子の元へと戻って来た。
「お待たせ。じゃあ行こうか」
「はい」
二人並んでエントランスを抜けて車を探すが、いつもの見慣れた車が見当たらない。けれどビルは戸惑うことなく足を進め、一台の黒いSUV車の前で止まった。きょとんとしている叶子にビルは一言、「買い換えたんだよ」とだけ教えてくれた。
大きな門をくぐり、久しぶりに彼の屋敷に到着した。主の居ない屋敷にも関わらず庭は丁寧に手入れされており、電飾も煌々とまだ点いていた。
「わざわざ迎えにまで来てくださって、本当に有難うございました」
玄関前に到着し、車を降りる前にビルにお礼を言った。
「いや、礼を言うのは俺の方だよ」
「どうしてですか?」
「ジャックは仕事に夢中になり過ぎて、俺が待ってるのを良く忘れるんだ。で、散々待たされた挙句、『ああ、もう先に帰ってていいよ』って、しれーっと言うからな」
怒ったような顔をしながら、おもしろおかしくビルが話している。内心では“私にはあんなに気を利かせてくれるのに”と、今日のロビーラウンジでの出来事を思い出していた。
「だから、今日あんたを迎えに行ってくれって言われた時は、天にも昇る気持ちだったよ! お陰で俺はこのまま帰れるんだから」
バチッとウィンクを一つ浴びせると、ビルはいつもの様に隣のスタッフハウスへと車を走らせて行った。
叶子はビルの車を見送ると、玄関の大きな扉に向かう。何度も来たことはあるがここは他人の家であることは間違いない。なんて言って入ればいいのかと思い悩んでいると、その扉がゆっくりとひとりでに開き始めた。
「まぁカナさん、お久しぶりで! ささ、どうぞ中へお入り下さい」
出迎えてくれたのは彼の乳母でもあり、今は彼の三人の子供達の乳母をしているグレースだった。少し白髪が増え、腰も以前より曲がって見える。
「グレースさん、ご無沙汰してます。お元気そうで何よりです」
グレースの手に引かれ、長い廊下を二人で歩き出した。
この家の廊下はとても長く、彼の部屋に辿りつくまでに一通りの挨拶を終えることが出来る程だ。「お食事はいかがなさいますか?」と気遣ってくれたが、懐かしい人達に会って胸が一杯になり、大丈夫だと伝えると、グレースはとても残念そうな顔をしていた。どうやらここでも彼の気遣いは続いていたらしく、「カナさんのお好きなものを用意してましたのに」とグレースが眉尻を下げた。
「あ、じゃあ少しだけ頂いていいですか?」
「ええ、ええ、勿論ですよ」
嬉しそうにニッコリと笑うと、せわしなくリビングルームを出て行った。そしてまた一人きりになり、落ち着いて辺りを見渡してみる。一年前とまったく変わっていないインテリア。勿論埃一つかぶっていない。主が留守にしていても、ちゃんとここを守ってくれている人達が居るのだなぁと改めて感じると共に、自分の入る余地は無いのだなとも思え、少し寂しくもなった。
目を瞑って大きく息を吸い込み、ジャックの匂いを感じると早く彼に逢いたいという気持ちが一層大きくなる。今から何時間待たされるか検討もつかないけれど、何時間後かには必ず逢える。そう思うと、待たされる時間なんて全く気にもならないものなんだなと、叶子は胸を躍らせていた。
グレースが用意してくれたおいしそうな食事の数々。「一人で食べるのは寂しいでしょうから」とグレースも一緒に同席し、この一年間にあった出来事や幼少時代の彼の話などを聞きながら、楽しく時を過ごすことが出来た。
そうこうしている内にすっかり夜も更け、グレースは申し訳なさそうに何度も頭を下げると部屋を出て寝床に向かった。一人きりになった途端、部屋の静けさも手伝ってか一気に心細くなる。
(彼の部屋、勝手に使ってていいってグレースさんも言ってたし、あっちで映画でも見てようかな)
隣の彼の部屋へと移りガランとした室内を見ると、やはりここに彼は存在しないのだとさらに胸が締め付けられる。今となっては、ここは彼の仮の宿なのだと物語っているようだった。
ただ、デスクだけは今まで以上に物で溢れかえっている。デスクの上も床も、明日外国へ旅立つとは思えない程乱雑に物が置かれ、毎日ここで遅くまで仕事をしていたのだろうと言う事が見て取れた。
自分と相反して忙しい彼の事を思うと、自分の甘さに情けない気持ちになった。
「映画、見よう……っと」
ひとりごちるとソファーに体をすっぽりと預けた。テレビをつけると既にDVDが中に入った状態だった様で映像が勝手に始まった。
(あ、これって)
そこに映し出された映像は、叶子がジャックと共に過ごした最後の夜に見た映画だった。あれから一度も再生されることが無かったのを証明するかのように、あの時、途中で止めた所から始まった。少し複雑な気持ちを抱えながら叶子はじっと画面を見つめていた。
時が過ぎ、もう一本別の映画を見始めたが既にそれも終盤になった。気づけばチラチラと気にしていた時計の針も見る事を止めてしまう程、映画にのめりこんでしまっていた。
(――? ……あっ、帰ってきた?)
彼が帰って来た気配にすぐ気付けるようにと音量を絞っていたお陰で隣のリビングに誰かが入ってきた事に気が付くことができ、叶子が扉に目をやると同時にバタンっと勢い良く部屋の扉が開け放たれた。




