第4話~下準備~
明日はとうとうジャックが日本を発つ日。彼が言ったとおり、このまま会えずにまたさよならをしなければならないのだろうか。一年待ち続けたと言うのに、それではあんまりだ。
マネージャーと言う立場についてからは、部下より早く退社する事がなかった叶子たっだが、今日この日を逃してしまってはならないと定時になった途端席を立った。
「ボス、すみませんが今日はお先に失礼します」
一瞬、ボスの口があんぐりと開いていたが、すぐにいつもの顔に戻る。
「ああ、カナちゃんはいつも遅くまで頑張ってくれてるからね! 今日だけじゃなく、これからも遠慮しないで早く帰りなよ?」
「いえ、流石にそうしょっちゅうは……。あっと、すみませんそれじゃあお先です」
腕時計を見るなり慌てながら頭を下げると、挨拶もそこそこに帰り支度を始めた。
「えぇー? マネージャーもう帰るんですかぁ?」
去年の新卒で入ったユイが、甘ったるい声で話し掛けてくる。毎日欠かさずくるくるに髪を巻き、上下にツケ睫毛を何重にもつけたバッチリメイクの目は大きく見開いている。正直、彼女を見ると、自分が今何の仕事をしているのかさえわからなくなる時があるほど、この職種にはあまりいない異質なタイプだった。
「うん」
「もしかしてデートとかですかぁー?」
急いでいる時に限って話し掛けられ、少しイラついた。
バサバサと音がしそうなほどにまつ毛が大袈裟に瞬き、それによって風が吹いてきそうなユイのその口振りは、いつも仕事ばかりしているマネージャーでもデートをする相手がいるのかと疑っている様にもとれる。「私がデートするのがそんなに珍しい?」と、文句の一つでも言ってやりたかったが、一回りも違う相手に本気になって大人気ないと思われるのも癪だ。
「さあ?」
と、適当にやり過ごす。否定するわけでも、肯定するわけでもない。そもそも、デートどころか会えるという保証すらない今の状態では、あいまいな返事でごまかすのが精一杯だった。
「じ、じゃあ、お疲れ様!」
「お疲れ様でぇ~す」「お疲れ様です!」「お疲れ!」
ユイが何故か安堵の表情を浮かべているのが気になりつつも、さっさと身支度をしてオフィスを飛び出した。
もう一度腕時計を確認する。先ずは美容室に行き、身なりを整えようと歩き始めた。今日は彼と過ごす最後の夜になりそうだから会えた時の為に目一杯おしゃれをしなければと意気込んでから顔を上げた時、見覚えのある視線とぶつかった。
「あれ? カナちゃん今から外出?」
外回りを終えたのか、丁度オフィスへ戻ってきた健人が目を丸くして立ち止まっていた。
(ああ、また面倒なのに見つかっちゃった)
心の中でそう思いつつも、下手にそんな感情を顔に出そうもんなら最後、余計に面倒くさくなる。
「ううん、もう帰るの。お疲れ様」
普段と変わらない態度でなんとかやり過ごしながら、健人がやって来た方向へ歩き始めた。
「……何処行くの?」
ピンときた様な顔をして叶子を覗き込む。健人は今自分が歩いて来た方向を逆戻りし、叶子の後を追ってきた。
「ま、まぁ、色々よ」
「もしかして。デートとか?」
「わかってんなら、いちいち聞かなくてもいいでしょ?」
半ばヤケクソ気味に言い放った。
「あっそ」
「そう!」
面白くなさそうにしてる健人を尻目に、スタスタと変わらぬスピードで歩いていく。今日は絶対彼に会うんだと決めている叶子に、健人とごちゃごちゃもめている時間はこれっぽっちも無い。さっさと諦めてUターンしてくれないだろうかと願うも、その願いは届いていない様だった。
「でも、何で? 今日はお迎えナシ?」
「か、彼は忙しいのよ。だから先に美容室の予約してんの!」
「へぇ。バッチリ決めて行くんだ?」
舐めるようにジロジロと見つめられて、気恥ずかしくなる。高校生の恋愛じゃあるまいし、とか思われてそうで、やはり本当の事を言うべきでは無かったのかもと少し後悔した。
「そうだ、俺が一緒に付き合ってやるよ」
「えぇ!? 何言って――。い、いいよ!」
困っている彼女と対照的に、何故かにこやかな健人がやけに気に掛かる。
(一体、何を考えて……。――もしかして変な格好をさせて、彼に嫌われるように仕向ける作戦?)
ブルブルと何度も頭を振って提案を却下するも、健人は引き下がる気は全く無い様だ。いつもクライアントとのやりとりをするWEBプランナーとしての力をここぞとばかりに発揮し、叶子を必死で説き伏せようと語り始めた。
「こういう時って男の意見って大事だと思うよ? 俺みたいにカナちゃんのいい所を知ってる人間の意見は特に」
横で並んで歩きながら、叶子の顔を覗き込んでニッコリと笑う。まるで、年下の彼女にでも諭すようなやさしい言い方と柔らかく包み込むような笑顔。まだあどけなさが残る健人にそんな風に言われてしまうと、彼の事を良く知らない人なら流されるかも知れない。
「オ、オフィスに帰る所じゃなかったの?」
「そんなの、これ一本でどうとでもなる」
ポケットの中から会社の携帯を取り出して、左右に振って見せた。
(ああ、もう! こっちは困るんだってば!)
どうしたら諦めてくれるのかと頭を悩ませながら歩いていると、とうとうお店の前まで来てしまった。急に立ち止まった彼女に数歩先を歩いていた健人が気付くと、健人も慌てて立ち止まる。
「ん? どしたの? 早く行こうぜ?」
彼女は上目遣いに少し睨みながら、なおも頭を横に振る。
「もう、いいよ。行って?」
「一緒に行くってば。時間無いんだろ? 店どこ? 駅前? 予約は何時?」
矢継ぎ早に質問を投げかける健人に困り果て、何も答えずに黙っていると、勘のするどい健人はすぐにここが今日行く美容室なのだと気付いた。
「ああ、なる。ここね」
スタスタと戻ってきたかと思うと、そのまま店の扉に手を掛けた。
「いらっしゃいませー!」
扉を開けた途端、目がくらむほどの明るい光が降り注ぎ、一瞬健人の姿が霞む。彼女が思わず目を細めていると、
「ほら何やってんの? 行くよ?」
「あっ、ち、ちょっと」
もじもじしている叶子の手を引っ張り、二人で扉の中に入って行った。




