第10話~物足りない~
◇◆◇
車のハンドルを握りながら、ジャックは一年前の事を思い出していた。
先程の彼女とブランドンの様子を見ると、この一年間に二人が接触した様子はどうやら無い。自分がいない間に会っていなかったのはせめてもの救いだが、今後の事を考えると彼女にも、そしてブランドンにもしっかりと釘を刺しておかなければと思い悩んだ。
「あの、……ジャック?」
「……あ、うん? 何?」
あまりに深く考えすぎてしまい、叶子が隣にいるのも忘れていた。慌てて助手席に顔を向けると、叶子は浮かない顔をしていた。
「何度呼んでも気付いてくれないんだから」
「ああっ、ごめん。あの、その時差、……そう! 時差のせいでね、頭がボーっとしちゃって」
彼女の機嫌をこれ以上損ねないように必死で言い訳を考えたものの、叶子に笑顔が戻ることはなかった。
「もうここでいいから」
「え? なんで? 家まで送るよ?」
「いいよ、大丈夫」
「もう、ごめんってば。ボーっとしてたの謝るからさ」
「違うから。時間……無いんでしょ?」
そう言われて、彼が車内の時計を見る。「あー……」とこぼした事で、叶子は完全に諦めがついた。
「本当に大丈夫。怒って拗ねて言ってる訳じゃないから、そこの駅で降ろして?」
そう言った叶子は、どこかぎこちない笑顔を浮かべていた。
車が近くの駅のロータリーにゆっくりと侵入し、最も改札口が近い場所で車がとまる。一年ぶりに会ったと言うのに、もう別れなければいけないと思うと名残惜しく、体を助手席に座っている叶子の方に向けるとジャックは今日の事を詫びた。
「あの、今日は本当にごめんね。その、……時間が無い、ってのもだけど、兄の事も――」
そのセリフを聞いた途端、叶子は思い出してしまったのか一気に顔が紅潮し、両手で顔を塞いだ。
「せ、せっかく忘れてたのに、思い出させないで!」
「あああっと、ごめん! 今度、ちゃんとブランドンに紹介するから。それと、今日の埋め合わせはまた次に会う時にさせてね? あと一週間位は日本にいる予定だから」
彼のその言葉を聞き、ハッとした叶子はそろりと顔を上げる。塞いでいた両手で胸元を掴むと、一段と寂しげな表情を見せた。
「――また……、行っちゃうの?」
潤んだ大きな瞳で見詰められると、何処にも行くもんか、ずっと君の側にいるよと、口から出そうになって慌てて飲み込んだ。怒ったり笑ったり、大人ぶったと思えば子供の様な態度をしたり。いつも色んな表情を見せてくれる彼女がいとおしくてたまらない。心から愛する人だからこそ、思わせぶりな事を軽はずみな気持ちで言うもんじゃないと、自分に言い聞かせるのに必死だった。
「うん。でも、しばらくしたらまた戻ってくるよ。実は――、……っと」
バスが後方に迫って来たのが見え、大きな車体がミラー越しで威圧する。
「ああ、ごめん。バスが来たから車どけないと」
「うん、わかった。……またね?」
叶子が急いだ様子で車から降りると、助手席側の窓がスーッと下がった。
「落ち着いたら必ず電話するから」
そう言って、ジャックは申し訳無さそうに眉尻を下げ、急いで車を走らせた。
「……電話だけじゃ、もの足りないよ」
叶子はそうポツリと呟き、車が見えなくなるまでその場で佇んでいた。
◇◆◇
ジャックがやっと帰国したと言うのに、普段と全く変わらない日常に辟易する。“彼が帰ってきたら行きたい所リスト”を作ってみても、未だ何一つ実行出来ていない。会いたいと電話してくれたらすぐに会えるようにと、予約していた美容室すらキャンセルした。
今度はいつ会えるんだろう? 次、会う時はゆっくり過ごせるのかな?
そんな事を考えつつ、彼からの連絡を心待ちにしている。なのに、再会したあの日から三日経った今も、携帯電話が鳴る事は無かった。
「ちょっと出てきます」
「あいよ! いってらっしゃい」
彼と会えないせいで気分が落ち込む。気分転換も兼ねて取引先へ資料を届けようと外へ出ると、春の風は温かく、荒んでいた気分も幾分かは晴れそうだ。
今回に限ってではなく、ジャックは今までだって十分忙しい人だと言うことは頭では理解している。けれど会いたくてどうしようもない感情の波が次々に押し寄せ、それが彼女の心をかき乱していた。
「――」
もしかしたら、このまま会えずに彼はまた旅立ってしまうのかもしれない。でも、いつかきっと迎えに来てくれると、いつの間にかそんな風に考えておいた方が気が楽だと思うようになってしまった。
「わざわざすいませんね、また次回の打ち合わせの時で全然良かったですのに」
「いえ、近くに寄ったものですから。……では」
ものの二、三分で用件は片付き、またトボトボと歩き出す。ふと、空を見上げると、沢山のビル群の向こう側に、彼の会社が聳え立っているのが見えた。
(あそこにいるはずなんだけどなぁ)
会える距離にいるのに会えないもどかしさに、大きく溜息をついた。
「……? ――!」
切ない願いが届いたのか、故障しているのかと思う程鳴る事がなかった携帯電話が突如鳴り響き、自然と顔がほころんで行く。彼からの着信を逃さないようにと、着信音を彼の部屋で良く流れていたクラッシックにしていた。その音が流れ出したと同時にその場で立ち止まると、慌てて携帯電話を取り出した。
「も、もしもし!?」
「あ、もしもし? 僕だけど。今、大丈夫?」
「……うん……」
「ごめんね、電話するの遅くなって」
彼の優しい声、気遣う言葉が嬉しい。例え会えなくても、こうして時折自分の事を気にかけてくれるというだけで、満足してしまいそうになる。
歩道の端に移動し、ゆっくりと瞼を閉じて彼の優しい声に耳を傾けた。
「早く君に会いたいよ」
その言葉を聞くと、彼女は声にならない声で何度も頷いた。




