闇へのドライブ
仕事が終わったのは真夜中で、終電はとうに出た後だ。もうずっと前から、そんな日が続いている。
会社を出ると軽く手を上げる。停まったタクシーに乗ると、座席に身体が沈み込んでいきそうだった。軽く目を閉じ明日の予定を頭の中で確認する。頭に靄がかかったようで上手く思い出せない。いずれにしろ早朝から仕事だ。午前中からの外出予定は無かった筈。重い目蓋を持ち上げると、少しまどろんでいた事に気付いた。自宅までは車で三十分ほどだ。今どの辺を走っているのだろう。窓の外を見た。どこか見慣れない町並みに感じたが、目がかすんでよく分からない。また眠ってしまいそうだ。
*
手を上げるとすぐにタクシーが寄ってくる。疲れているので助かる。何かに圧し掛かられているように、全身が重い。夜の帳の中、何処かの道路工事の音がぼやけて聞こえる。前を走るテイルランプの列が現実感を奪っていく。一つ先の信号機が揺れた。
*
仕事が一段落ついたが、明日からも目白押しの業務が待っている。まだ電車は動いているのかも知れないが、習慣で手を上げた。左ウインカーが点滅し、タクシーがすっと停まった。重かった。とにかく何もかもが重かった。頭が背凭れに傾いていく。誰かが話しかけている。誰だ。
「ご自宅でよろしいですか?」
「ええ。お願いします」
やっとそう応えると、意識が薄らいでいった。
*
抱えている仕事が正念場を向かえていた。緊張感でこめかみが疼く。夜になると吐き気を伴った。だがそれでもここを乗り切れば。……誰か呼んでいる。呼ばれていた。
「着きました」
「お世話様です」
よろけるように、タクシーから出た。領収書、貰ったか? 無いと経理がうるさい。ふらつきながら自宅のキィを回す。
*
ミスった。僅かの慢心だった。取り返す為に今度の週末も朝から出ざるを得ない。もうどのくらい連続で出社しているだろう。まったく憶い出せない。深く息を吐いた。
「今日は、まっすぐご自宅でよろしいですか?」
「あ、はい。お願いします」
珍しく眠気が襲って来ない。昼間のしくじりのせいだろうか。
フロントガラス越しに前の景色を見る。
うん? 何だろう。とてつもない違和感に包まれる。この車一体何処を走っているんだ。見当がつかない場所だった。会社から自宅へは極めて単純な道で、分からない訳が無い。どれほどの距離を走ったのか、とメーターを見た。動いていない。運転手がうっかり忘れたのか、それともエントツ?
まてよ。
だいたい「自宅でよろしいですか」なんて変だろう。まるで私の自宅を知っているかのようだ。
「あの、運転手さん」
「はい。何でしょう?」
「私、以前にも乗せて貰った事がありましたか?」
「ええ。ございますよ」
「そうでしたか。それで私の自宅をご存知なのですね」
「はい。ご自宅もお気に入りの場所も、よく存じ上げております」
「お気に入り?」
「はい。あっ着きました」
いつの間にかタクシーは、自宅の玄関の前に停まっていた。
「あの、お幾らですか?」
「結構です。いつもご利用頂いているので、サービスです」
「えっ? ……では、ありがとうございます」
車を降りて門をくぐった。キィを出そうとポケットを探る。いつの間にかタクシーは去っていた。サービスで送ってくれるなんて。狐につままれたような気分だった。自宅まで三割増しで五千円前後の料金だ。それを無料にするというのか。
そう言えば経理担当から、交通費を早く精算しろと催促されていた。しかし最近タクシーの領収書がいつも見つからない。チケットの申請は手続きが面倒で、かなり前からしていない。財布の中身は減っていないので、カードで払っている筈だが控えも無い。知らずにどこかに溜め込んでいるのだろうか。
*
麻痺していた。もう限界か。そう思った。何かでなく、どこかでなく、毀れていた。不思議と休みたいとは思わない。気付くとタクシーの中だった。
「ご自宅でよろしいですか?」
「えっ」
「まっすぐ帰られますか? それとも」
「…………」
「では参りましょうか」
左に大きく曲がると、右手に真っ黒な海が現れた。どこまでも真っ黒だ。ウインドウが少し開く。潮の香り。夏の海の香りだ。
砂に足をとられた。裸足で浜を歩いていた。やがてくるぶしまで水で浸る。飲み込まれるような波。流された。遠くまで、ずっと遠くまで流された。沈む、沈んでいく。深海に。
目を開けると。自宅の中だった。真っ暗な居間に、テレビだけ点いている。妻と娘は?
「おい。どこだ?」
「はい。もうじき着きます」
沢に沿って登って行く。藪の中に気配が。年老いた男。真っ暗なのに分かった。
≪何しに来た?≫
≪あなたこそ何をしているのですか?≫
≪きのこを採っているんだ≫
≪きのこ?≫
≪そうだ貴重なきのこだ。死体の上に生える≫
≪その下に死体が≫
≪ついて来い≫
湿った土と垂れ下がるツタ。その先は崖。
あっ、背中を。転げ落ちていく。頭、腰、廻った。どこまでも落ちていく。一体どこに。
「どこに」
「ご自宅でよろしいのですよね?」
家に着いても誰もいない。妻は娘を連れて出て行った。
≪仕事と家庭、どっちが大事なの?≫
≪田舎のお義父さんが!……≫
何もかも失った。それともまだ間に合うのか?
「急いで」
「はい。もうじき着きますから」
会社には誰もいなかった。何故だ? デスクが見当たらない。私の場所が無い。
≪もういいんだ。ゆっくり休み給え≫
「どうして?」
「事故があったみたいですよ。だから渋滞で」
髪とひげが伸びきっていた。どこかのベンチ。いつから食べていないのか?
警笛。サイレン。ライト。
「まぶしい」
「すみません。事故に巻き込まれて」
雑踏の中、佇んでいた。真夜中なのにこんなに人が。歩いている。歩いている。寝転がると道路はひんやりしていた。
「もういいか」
「お待たせしました。着きました」
自宅の前だった。
やっと身体を持ち上げる。降りようとした時、バックミラーで、目と目が合った。
「運転手さん」
呼びかけた。
運転手がゆっくり振り返る。
――やはり。
◇◇◇
痛みを堪えながら、忘れ物が無いか確認した。着替えと雑誌。
あとはメロンか。そんなものが食べたいなんて、今まで一度も言ったこと無かったのに。途中で買わないと。バックを右手で持つと肋骨のあたりが痛む。左手に持ち変えて、バス停へ歩く。通りまで出ると息が切れた。ねっとりとした汗が顔に滲む。少し休みたい。少しだけ。
ドア。行く手を塞ぐようにドアが開いた。タクシー? 停めたのかしら。
「どうぞ」
車の中から声がした。引き込まれるように座ってしまう。痛い。座った瞬間、凄く痛かった。もう歩くのは辛い。贅沢だけど、タクシーで行こう。
「病院でよろしいですか?」
「はい。お願いします」
走り出した振動で、腰から上、上半身全体が軋んだ。思わず呻きそうになる。この頃手加減をしなくなった。さすがに顔は殴らないが、拳で、足で、まったく容赦しない暴力。苛立ちの全てをぶつけてくる。
私、あの男に本当に必要とされているの。いつもの自問自答を始める。答えは出ない。あの男を愛しているのか。答えは出せない。嘗ては間違いなく愛していた。
「病院へ直行でよろしいですか?」
「えっ? はい」
病院? 行き先を告げたかしら? それにいつも買い物をしてから、病院へ行く事を知っているなんて。
「あの」
「はい」
「病院名を言ったかしら?」
「昨日と同じ病院でよろしいのですよね」
「そうですが……」
昨日? そう昨日も病院へ行った。痛みを堪えて歩いていて、目眩がして、タクシーに乗った。タクシーに乗った気がする。同じ運転手さんが今日も? 思い出そうとしていると、気分が悪くなってきた。視界が狭まってくる。内臓が傷付いているのかも知れない。
「大丈夫ですか? 停めましょうか?」
「…………」
「では参りましょうか」
車がふっと浮いた気がした。窓の外が明るくなり、景色が見えなくなった。
歩いていた。学校。卒業した小学校だ。広い。校庭がこんなにも広い。
≪きゃっ≫
何かが体にぶつかった。ボール? 続いて泥が。
≪ざまあみろ。もう来るな≫
振り返るとクラスの男の子たちが。いつも苛められていた。
走って逃げる。泥がどんどん投げつけられる。校門を飛び出す。泥の塊がどこまでも追いかけてくる。
「痛い」
「ゆっくり走らせますから」
逃げ帰り、アパートの戸を開けた。
いきなり頭から倒れた。見上げるとお父さんが。殴られたんだ。
≪なんだ、その服は。それしかないのに汚して≫
左の頬が火照るように熱かった。急いで泥を落として部屋に入る。仕事にあぶれ、お母さんがいなくなってから、毎日殴られる。優しかったのに。昔は優しかった。涙が溢れてきた。お母さん、どこへ行ってしまったの。
「ねえ、どこにいるの」
「ここを抜ければ、まっすぐですから」
裏山に隠れた。ここにいれば安心。小学校、中学校、放課後は一人で過ごした。どんな時も一人で。空が暗くなり雨が降ってきた。寒くなってくる。でも帰る家は無い。濡れない場所を探す。歩いても歩いても雨は降り注いできた。
「寒い」
「では、窓を閉めますね」
彼に出会った時、幸せを初めて知った。自分のいる場所が出来たと思った。彼さえいれば何も辛くなかった。彼の笑顔とぬくもり、やっと得た安らぎ。なのに、いつから父親と同じになったのだろう。
「いつ?」
「もうじき病院ですよ」
病院には父親がいる。もうずっと寝たきりだ。わがままは治まらない。行くたびに険しい目付きで見られる。
不幸なのかな。今、不幸なのかな? 相談出来る人はいない。働いて、彼と父親を養って、殴られて。メロンだって、節約してやっと。
「そうだ。メロンを買わないと」
「着きました」
突然、視界が開いた。車は病院の前に停まっている。
「あっ、すみません。お幾らですか?」
「結構です。サービスです。それよりメロンを忘れずに」
座席の横にメロンがあった。いつの間に。
気付くとタクシーはいなかった。病室へ行かなくては。父親が待っている。
アパートには彼が待っている。行かなくては。
◇◇◇
暗い道を走っていた。
僕はいつタクシーに乗ったのだろう。さっきまで仲間と飲んでいた。いや、アパートに帰った筈だ。ベッドにもぐりこんで、それから……。いま午前一時。友達と別れたのが九時頃だった。僕はどうして?
「あの、すみません」
「ええ。ちゃんと向っていますよ」
僕は一体どこへ行こうとしているんだ。外の景色。見た事あるような。いつ見たんだ。
そうドライブに来た。彼女と。川の辺で食べたお弁当。彼女の手作りだった。楽しかった。あんな事さえ無ければ。
「まだ今も」
「まだ、ちょっと掛かりますよ」
彼女と知り合ったのは二年前。大学二年のときだった。友達の紹介で会って、すぐ好きになった。ドライブに誘ったら、喜んで来てくれた。そらからひと月もしないで、一緒に暮らすようになった。僕は彼女の気持ちに気付かなかった。
「知らなかったんだ」
「大丈夫です。道は分かります」
紹介してくれた、あいつを好きだったなんて、知らなかった。何故好きでもない僕と。
そして僕を裏切った。隠れてあいつと。だから、だから。
「着きました」
「ここは?」
「あなたが、いらしたかった所ですよ。さあ、参りましょう」
目の前に林が広がっていた。そうか、そういう事か。僕は歩き始めた。湿った枯葉は柔らかかった。少し靴がもぐり込む。緩やかな斜面を慎重に下りる。そう、ここだ。
「どうぞ」
振り向くと、運転手がいた。手に大きなシャベル。
「必要でしょう」
僕は枯葉をかき分けた。間違い無い。シャベルを突き立て、地面を掘る。
≪当て付けだったのよ。あの人に対しての当て付けで、あなたと付き合ったのよ≫
僕が問い詰めた時、そう言って、彼女は笑った。彼女の笑った顔を見た時、目の前が暗くなった。
ドライブでお弁当を食べた後、手を繋いで散歩した。そしてキスをせがまれた。唇を離すと彼女は笑った。その時と同じように笑っていた。
ずっとずっと笑っていたんだ。気付くと彼女はぐったりしていた。首には僕の手が。彼女、笑っていた。僕を馬鹿にするように、笑ったまま死んでいた。だからここに埋めた。初めてキスしたここに。
見えてきた。彼女が見えてきた。変わっていない。僕は彼女を抱き起こした。
「会いたかった。君を失って寂しかった」
僕は近くの木に、彼女を寄りかからせた。
「君も寂しかったろう。もうずっと一緒だよ」
「連れて帰りますか?」
運転手が言った。
「いや」
僕は運転手を押し倒すと、用意していたロープで首を絞めた。そして木の枝に吊るす。
――やっと君のそばに行ける。
僕は木の枝にぶら下がりながら、そう思った。
足元で彼女が笑っている。
――馬鹿ね。私、あなたが大嫌いだった。