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闇へのドライブ

作者: 角生

 仕事が終わったのは真夜中で、終電はとうに出た後だ。もうずっと前から、そんな日が続いている。

 会社を出ると軽く手を上げる。停まったタクシーに乗ると、座席に身体が沈み込んでいきそうだった。軽く目を閉じ明日の予定を頭の中で確認する。頭に靄がかかったようで上手く思い出せない。いずれにしろ早朝から仕事だ。午前中からの外出予定は無かった筈。重い目蓋を持ち上げると、少しまどろんでいた事に気付いた。自宅までは車で三十分ほどだ。今どの辺を走っているのだろう。窓の外を見た。どこか見慣れない町並みに感じたが、目がかすんでよく分からない。また眠ってしまいそうだ。



 手を上げるとすぐにタクシーが寄ってくる。疲れているので助かる。何かに圧し掛かられているように、全身が重い。夜の帳の中、何処かの道路工事の音がぼやけて聞こえる。前を走るテイルランプの列が現実感を奪っていく。一つ先の信号機が揺れた。



 仕事が一段落ついたが、明日からも目白押しの業務が待っている。まだ電車は動いているのかも知れないが、習慣で手を上げた。左ウインカーが点滅し、タクシーがすっと停まった。重かった。とにかく何もかもが重かった。頭が背凭れに傾いていく。誰かが話しかけている。誰だ。

「ご自宅でよろしいですか?」

「ええ。お願いします」

 やっとそう応えると、意識が薄らいでいった。



 抱えている仕事が正念場を向かえていた。緊張感でこめかみが疼く。夜になると吐き気を伴った。だがそれでもここを乗り切れば。……誰か呼んでいる。呼ばれていた。

「着きました」

「お世話様です」

 よろけるように、タクシーから出た。領収書、貰ったか? 無いと経理がうるさい。ふらつきながら自宅のキィを回す。



 ミスった。僅かの慢心だった。取り返す為に今度の週末も朝から出ざるを得ない。もうどのくらい連続で出社しているだろう。まったく憶い出せない。深く息を吐いた。

「今日は、まっすぐご自宅でよろしいですか?」

「あ、はい。お願いします」

 珍しく眠気が襲って来ない。昼間のしくじりのせいだろうか。

 フロントガラス越しに前の景色を見る。

 うん? 何だろう。とてつもない違和感に包まれる。この車一体何処を走っているんだ。見当がつかない場所だった。会社から自宅へは極めて単純な道で、分からない訳が無い。どれほどの距離を走ったのか、とメーターを見た。動いていない。運転手がうっかり忘れたのか、それともエントツ?

 まてよ。

 だいたい「自宅でよろしいですか」なんて変だろう。まるで私の自宅を知っているかのようだ。

「あの、運転手さん」

「はい。何でしょう?」

「私、以前にも乗せて貰った事がありましたか?」

「ええ。ございますよ」

「そうでしたか。それで私の自宅をご存知なのですね」

「はい。ご自宅もお気に入りの場所も、よく存じ上げております」

「お気に入り?」

「はい。あっ着きました」

 いつの間にかタクシーは、自宅の玄関の前に停まっていた。

「あの、お幾らですか?」

「結構です。いつもご利用頂いているので、サービスです」

「えっ? ……では、ありがとうございます」

 車を降りて門をくぐった。キィを出そうとポケットを探る。いつの間にかタクシーは去っていた。サービスで送ってくれるなんて。狐につままれたような気分だった。自宅まで三割増しで五千円前後の料金だ。それを無料にするというのか。

 そう言えば経理担当から、交通費を早く精算しろと催促されていた。しかし最近タクシーの領収書がいつも見つからない。チケットの申請は手続きが面倒で、かなり前からしていない。財布の中身は減っていないので、カードで払っている筈だが控えも無い。知らずにどこかに溜め込んでいるのだろうか。



 麻痺していた。もう限界か。そう思った。何かでなく、どこかでなく、毀れていた。不思議と休みたいとは思わない。気付くとタクシーの中だった。

「ご自宅でよろしいですか?」

「えっ」

「まっすぐ帰られますか? それとも」

「…………」

「では参りましょうか」

 左に大きく曲がると、右手に真っ黒な海が現れた。どこまでも真っ黒だ。ウインドウが少し開く。潮の香り。夏の海の香りだ。

 砂に足をとられた。裸足で浜を歩いていた。やがてくるぶしまで水で浸る。飲み込まれるような波。流された。遠くまで、ずっと遠くまで流された。沈む、沈んでいく。深海に。

 目を開けると。自宅の中だった。真っ暗な居間に、テレビだけ点いている。妻と娘は?

「おい。どこだ?」


「はい。もうじき着きます」

 沢に沿って登って行く。藪の中に気配が。年老いた男。真っ暗なのに分かった。

≪何しに来た?≫

≪あなたこそ何をしているのですか?≫

≪きのこを採っているんだ≫

≪きのこ?≫

≪そうだ貴重なきのこだ。死体の上に生える≫

≪その下に死体が≫

≪ついて来い≫

 湿った土と垂れ下がるツタ。その先は崖。

 あっ、背中を。転げ落ちていく。頭、腰、廻った。どこまでも落ちていく。一体どこに。

「どこに」


「ご自宅でよろしいのですよね?」

 家に着いても誰もいない。妻は娘を連れて出て行った。

≪仕事と家庭、どっちが大事なの?≫

≪田舎のお義父さんが!……≫

 何もかも失った。それともまだ間に合うのか?

「急いで」


「はい。もうじき着きますから」

 会社には誰もいなかった。何故だ? デスクが見当たらない。私の場所が無い。

≪もういいんだ。ゆっくり休み給え≫

「どうして?」


「事故があったみたいですよ。だから渋滞で」

 髪とひげが伸びきっていた。どこかのベンチ。いつから食べていないのか?

 警笛。サイレン。ライト。

「まぶしい」


「すみません。事故に巻き込まれて」

 雑踏の中、佇んでいた。真夜中なのにこんなに人が。歩いている。歩いている。寝転がると道路はひんやりしていた。

「もういいか」


「お待たせしました。着きました」

 自宅の前だった。

 やっと身体を持ち上げる。降りようとした時、バックミラーで、目と目が合った。

「運転手さん」

 呼びかけた。

 運転手がゆっくり振り返る。

 ――やはり。




◇◇◇




 痛みを堪えながら、忘れ物が無いか確認した。着替えと雑誌。

 あとはメロンか。そんなものが食べたいなんて、今まで一度も言ったこと無かったのに。途中で買わないと。バックを右手で持つと肋骨のあたりが痛む。左手に持ち変えて、バス停へ歩く。通りまで出ると息が切れた。ねっとりとした汗が顔に滲む。少し休みたい。少しだけ。

 ドア。行く手を塞ぐようにドアが開いた。タクシー? 停めたのかしら。

「どうぞ」

 車の中から声がした。引き込まれるように座ってしまう。痛い。座った瞬間、凄く痛かった。もう歩くのは辛い。贅沢だけど、タクシーで行こう。

「病院でよろしいですか?」

「はい。お願いします」

 走り出した振動で、腰から上、上半身全体が軋んだ。思わず呻きそうになる。この頃手加減をしなくなった。さすがに顔は殴らないが、拳で、足で、まったく容赦しない暴力。苛立ちの全てをぶつけてくる。

 私、あの男に本当に必要とされているの。いつもの自問自答を始める。答えは出ない。あの男を愛しているのか。答えは出せない。嘗ては間違いなく愛していた。

「病院へ直行でよろしいですか?」

「えっ? はい」

 病院? 行き先を告げたかしら? それにいつも買い物をしてから、病院へ行く事を知っているなんて。

「あの」

「はい」

「病院名を言ったかしら?」

「昨日と同じ病院でよろしいのですよね」

「そうですが……」

 昨日? そう昨日も病院へ行った。痛みを堪えて歩いていて、目眩がして、タクシーに乗った。タクシーに乗った気がする。同じ運転手さんが今日も? 思い出そうとしていると、気分が悪くなってきた。視界が狭まってくる。内臓が傷付いているのかも知れない。

「大丈夫ですか? 停めましょうか?」

「…………」

「では参りましょうか」

 車がふっと浮いた気がした。窓の外が明るくなり、景色が見えなくなった。

 歩いていた。学校。卒業した小学校だ。広い。校庭がこんなにも広い。

≪きゃっ≫

 何かが体にぶつかった。ボール? 続いて泥が。

≪ざまあみろ。もう来るな≫

 振り返るとクラスの男の子たちが。いつも苛められていた。

 走って逃げる。泥がどんどん投げつけられる。校門を飛び出す。泥の塊がどこまでも追いかけてくる。

「痛い」


「ゆっくり走らせますから」

 逃げ帰り、アパートの戸を開けた。

 いきなり頭から倒れた。見上げるとお父さんが。殴られたんだ。

≪なんだ、その服は。それしかないのに汚して≫

 左の頬が火照るように熱かった。急いで泥を落として部屋に入る。仕事にあぶれ、お母さんがいなくなってから、毎日殴られる。優しかったのに。昔は優しかった。涙が溢れてきた。お母さん、どこへ行ってしまったの。

「ねえ、どこにいるの」


「ここを抜ければ、まっすぐですから」

 裏山に隠れた。ここにいれば安心。小学校、中学校、放課後は一人で過ごした。どんな時も一人で。空が暗くなり雨が降ってきた。寒くなってくる。でも帰る家は無い。濡れない場所を探す。歩いても歩いても雨は降り注いできた。

「寒い」


「では、窓を閉めますね」

 彼に出会った時、幸せを初めて知った。自分のいる場所が出来たと思った。彼さえいれば何も辛くなかった。彼の笑顔とぬくもり、やっと得た安らぎ。なのに、いつから父親と同じになったのだろう。

「いつ?」


「もうじき病院ですよ」

 病院には父親がいる。もうずっと寝たきりだ。わがままは治まらない。行くたびに険しい目付きで見られる。

 不幸なのかな。今、不幸なのかな? 相談出来る人はいない。働いて、彼と父親を養って、殴られて。メロンだって、節約してやっと。

「そうだ。メロンを買わないと」


「着きました」

 突然、視界が開いた。車は病院の前に停まっている。

「あっ、すみません。お幾らですか?」

「結構です。サービスです。それよりメロンを忘れずに」

 座席の横にメロンがあった。いつの間に。


 気付くとタクシーはいなかった。病室へ行かなくては。父親が待っている。

 アパートには彼が待っている。行かなくては。




◇◇◇




 暗い道を走っていた。

 僕はいつタクシーに乗ったのだろう。さっきまで仲間と飲んでいた。いや、アパートに帰った筈だ。ベッドにもぐりこんで、それから……。いま午前一時。友達と別れたのが九時頃だった。僕はどうして?

「あの、すみません」

「ええ。ちゃんと向っていますよ」

 僕は一体どこへ行こうとしているんだ。外の景色。見た事あるような。いつ見たんだ。

 そうドライブに来た。彼女と。川の辺で食べたお弁当。彼女の手作りだった。楽しかった。あんな事さえ無ければ。

「まだ今も」


「まだ、ちょっと掛かりますよ」

 彼女と知り合ったのは二年前。大学二年のときだった。友達の紹介で会って、すぐ好きになった。ドライブに誘ったら、喜んで来てくれた。そらからひと月もしないで、一緒に暮らすようになった。僕は彼女の気持ちに気付かなかった。

「知らなかったんだ」


「大丈夫です。道は分かります」

 紹介してくれた、あいつを好きだったなんて、知らなかった。何故好きでもない僕と。

 そして僕を裏切った。隠れてあいつと。だから、だから。


「着きました」

「ここは?」

「あなたが、いらしたかった所ですよ。さあ、参りましょう」

 目の前に林が広がっていた。そうか、そういう事か。僕は歩き始めた。湿った枯葉は柔らかかった。少し靴がもぐり込む。緩やかな斜面を慎重に下りる。そう、ここだ。

「どうぞ」

 振り向くと、運転手がいた。手に大きなシャベル。

「必要でしょう」

 僕は枯葉をかき分けた。間違い無い。シャベルを突き立て、地面を掘る。

≪当て付けだったのよ。あの人に対しての当て付けで、あなたと付き合ったのよ≫

 僕が問い詰めた時、そう言って、彼女は笑った。彼女の笑った顔を見た時、目の前が暗くなった。

 ドライブでお弁当を食べた後、手を繋いで散歩した。そしてキスをせがまれた。唇を離すと彼女は笑った。その時と同じように笑っていた。

 ずっとずっと笑っていたんだ。気付くと彼女はぐったりしていた。首には僕の手が。彼女、笑っていた。僕を馬鹿にするように、笑ったまま死んでいた。だからここに埋めた。初めてキスしたここに。

 見えてきた。彼女が見えてきた。変わっていない。僕は彼女を抱き起こした。

「会いたかった。君を失って寂しかった」

 僕は近くの木に、彼女を寄りかからせた。

「君も寂しかったろう。もうずっと一緒だよ」


「連れて帰りますか?」

 運転手が言った。

「いや」

 僕は運転手を押し倒すと、用意していたロープで首を絞めた。そして木の枝に吊るす。


 ――やっと君のそばに行ける。

 僕は木の枝にぶら下がりながら、そう思った。


 足元で彼女が笑っている。

 ――馬鹿ね。私、あなたが大嫌いだった。

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― 新着の感想 ―
[良い点] 毎日のタクシー乗車の描写が幾度も続くのですが、毎度の始まりと終わりの切り貼りが逸脱に感じました。 基本的には同じ事をしているのだけれど、少しずつ狂っていく感じに飽きずに自然と入り込めました…
[良い点] 登場人物達がタクシーに乗るに連れて思考や現実が混沌としていく様に不思議な怖さを抱きました。 [気になる点] やはり難しかったです。境が曖昧になる一人称の構成で全体で一つの短編ではなく三人の…
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