第8話:王都脱出、あるいは雪原へのダイブ(後編)
城壁の上に立つ騎士団長ゼクスの背後で、雪が渦を巻いていた。 白銀の鎧は、薄暗い空の下でも聖なる輝きを放っている。かつてイリスが「兄様」と呼び、淡い憧れすら抱いていた、正義の象徴。 だが今のイリスには、その輝きがただただ白々しく、吐き気を催すだけだった。
「……退けと言ったのが聞こえなかったか、ゼクス」 イリスは屋根の雪を踏みしめ、低い声で告げた。 ゼクスは悲痛な面持ちで首を横に振った。
「退くわけにはいかない。イリス、君は騙されているんだ。その男――大罪人グレンの魔術で、精神を汚染されているのだろう?」 ゼクスは本気でそう信じているようだった。 彼の瞳には、迷える妹を救おうとする「慈愛」が浮かんでいる。それが、イリスを処刑台に送り込んだ男と同じ目をしていることに、彼自身は気づいていない。
(ああ、そうか。こいつは『善人』なんだ)
イリスは理解し、そして冷めた。 ゼクスは国や教会が説く「正義」を疑わない。だから、イリスを殺すことも「世界のための尊い犠牲」だと信じ、今こうしてイリスを連れ戻そうとするのも「救済」だと信じている。 悪意がない分、タチが悪い。 話が通じる相手ではないのだ。
「……グレン」 「あ?」 「手出し無用だ。こいつは、俺がやる」
イリスが一歩前に出る。 ゼクスが眉をひそめた。 「君が戦うというのか? か弱い君に何ができる。……目を覚ますんだ!」
ゼクスが地面を蹴った。 速い。騎士団長の称号は伊達ではない。瞬きの間に間合いを詰め、峰打ちでイリスを気絶させようと長槍を振り下ろす。 だが。
「か弱い? ……誰を見て言っている」
イリスは避ける素振りすら見せなかった。 ただ、右手をかざし、ボソリと呟く。
「――『聖域反転』」
キィィン!! 甲高い音が響き、ゼクスの長槍が、イリスの鼻先数センチで静止した。 見えない壁に阻まれたのではない。 長槍そのものが、黒い錆に覆われ、ボロボロに腐食して砕け散ったのだ。
「な……っ!?」 ゼクスが驚愕に目を見開き、柄だけになった槍を取り落とす。 「馬鹿な……ミスリルの槍が一瞬で……! それに、その禍々しい魔力は……!」
「驚くことかよ」 イリスは冷淡に言い放つ。 「俺の中に溜め込まれた『穢れ』だ。あんたたちが三年間、見て見ぬふりをして押し付けてきたゴミの山だぞ。……受け取れよ」
イリスが掌を突き出す。 黒い衝撃波が放たれた。 ゼクスは咄嗟に腕をクロスさせて防御するが、鎧ごと吹き飛ばされ、城壁の石塔に激突する。 ドガァッ! 白銀の鎧がひしゃげ、ゼクスは血を吐いて膝をついた。
「が、はっ……イリス、なぜ……」 「勘違いするな。俺は洗脳なんてされていない」
イリスは倒れたゼクスを見下ろした。 その瞳は、かつての可憐な聖女のものではない。数多の理不尽を噛み砕き、飲み込んできた、一人の「男」の目だった。
「俺は俺の意思で、この国を敵に回したんだ。……さようならだ、兄様。その正義ごっこ、死ぬまで続けてろ」
トドメは刺さない。 殺す価値すらないと判断したのか、それともかつての情が僅かに残っていたのか。 イリスは背を向け、北門の縁に立った。
「行くぞ、グレン」 「……へぇ。随分と冷たい振り方だな」 一部始終を見ていたグレンが、ニヤニヤと笑いながら近づいてくる。 「元婚約者候補なんだろ? もう少し未練たらしく泣いてやれば喜んだだろうに」 「気持ち悪いことを言うな。反吐が出る」
イリスは吐き捨て、眼下に広がる雪原を見据えた。 高さ三十メートル。城壁の下には、見渡す限りの白い荒野が広がっている。 吹雪が吹き荒れる、死の世界。 だが今のイリスには、その過酷さが「自由」の色に見えた。
「準備はいいか、相棒」 グレンがイリスの隣に並ぶ。 「いつでも。……この最悪な国におさらばだ」
二人は同時に地面を蹴った。 王都の空へ、身を投げる。 重力が内臓を浮き上がらせる感覚。 落下しながら、イリスは一度だけ振り返った。 燃え盛る大神官の屋敷の煙。混乱する王都の街並み。 ざまあみろ。 心の中でそう中指を立て、イリスは風魔法を展開した。
強風がクッションとなり、二人は雪原へと滑り込むように着地した。 深い雪が衝撃を吸収する。
「ッ……つめてぇ!」 雪まみれになりながら、イリスが起き上がる。 王都の外気は、内側よりも数段冷たかった。肌を刺すような極寒の風。
「ようこそ、地獄の一丁目へ」 グレンが雪を払いながら立ち上がる。 「これからは、追っ手だけじゃねぇ。寒さと飢え、魔獣とも戦わなきゃならねぇぞ」 「望むところだ。……あの温室の中で腐っていくよりは、百倍マシだ」
イリスは立ち上がり、北の方角を睨んだ。 視界の先は白一色。道などない。 だが、二人の足跡だけが、確かにそこへ刻まれていく。
王都の城壁が遠ざかっていく。 こうして、稀代の悪女(中身は男)と、大罪人の英雄による、世界を敵に回した逃避行が幕を開けた。
目指すは北の最果て、『原初の祭壇』。 世界の嘘を暴くための、長く過酷な旅が始まる。
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