第6話:魔女の朝支度と、傷だらけの地図
翌朝。 王都の一角にある高級宿の最上階で、イリスは目を覚ました。
最高級の羽毛布団の感触。窓から差し込む雪明かり。 それは地下牢獄での三年間に比べれば天国のような環境だったが、イリスの目覚めは最悪だった。 「……くそ、身体が重い」 ベッドから身を起こすと、長い銀髪が肩から滑り落ち、視界を遮る。 毎朝の、この瞬間が一番嫌いだった。 意識が覚醒した直後、自分が「男」ではなく「か弱い少女」であることを、物理的に突きつけられるからだ。
イリスはふらつく足で浴室へと向かった。 湯気で曇った鏡を、手のひらで拭う。 そこに映っているのは、この世のものとは思えない美貌の少女だ。透き通るような白い肌、大きな瞳、華奢な鎖骨。 だが、その身体は、無惨な「履歴書」でもあった。
「……趣味の悪い彫刻だこと」
イリスは自嘲気味に呟き、指先で肌をなぞった。 手首には鎖の痕。背中には鞭の痕。そして鎖骨の下には、魔力を強制的に抽出するための「魔法陣」が、焼きごてのように刻まれている。 聖女として崇められていた肌の下は、継ぎ接ぎだらけのボロ雑巾だ。
(中身がおっさんで良かったよ、本当に。……もし普通の女の子の精神だったら、とっくに壊れて廃人になってる)
熱いシャワーを浴びながら、イリスは壁に手をついて吐息を漏らした。 女の身体は面倒だ。 髪は長いし、肌は弱いし、月ごとの不調もある。男だった頃の、あの無駄に頑丈な肉体が恋しい。 石鹸を泡立てながら、自分の胸や腹を洗う。そこには性的な感情など微塵もなく、ただ「手入れの面倒な道具」をメンテナンスしているような、冷めた感覚しかなかった。
――ガチャリ。
何の前触れもなく、浴室のドアが開いた。 「おい、イリス。いつまで長風呂してやがる」 グレンだ。 湯気の中にぬっと現れた巨漢に、イリスは反射的に身を縮こまらせるどころか、泡だらけのスポンジを投げつけた。
「ノックを知らんのか、野生動物!」 「あ? 鍵がかかってねぇのが悪い」 グレンは顔面に当たったスポンジを無造作に剥がし、裸のイリスを一瞥した。 そこに「欲情」の色はない。まるで肉屋で枝肉を見るような、あまりに即物的な視線だ。
「……ふん。いい傷だ」 「は?」 「背中の傷だ。拷問官の趣味か? 深いな」 「……褒め言葉として受け取っておくよ。出て行け」 「へいへい。さっさと上がれ。面白いモンが見つかった」
グレンは興味なさそうにドアを閉めた。 イリスは湯船に沈み込み、大きくため息をついた。 (あいつ……本当に俺を『女』として見てないな。……まあ、その方が楽だけど) 羞恥心よりも、呆れが勝つ。 それが、二人の奇妙な距離感だった。
***
風呂上がりのイリスは、グレンが調達してきた男物のシャツとズボンに着替えた。 ドレスより遥かに動きやすい。 テーブルの上には、昨夜ギリアムの金庫から奪ってきた書類の束が広げられていた。グレンが、その中の一枚――古ぼけた羊皮紙の地図を指差す。
「これを見ろ。ギリアムが隠し持っていた『極秘資料』だ」 「……エリュシオンの古地図か?」
イリスはまだ濡れている髪をタオルで拭きながら、地図を覗き込んだ。 そこには現在の国境線とは違う、古い時代の地形が描かれている。そして、国の北端、極寒の山脈地帯に、赤い印が付けられていた。
「ここだ。『原初の祭壇』」 イリスが文字を読み上げると、グレンが頷く。 「ああ。お前ら『聖女』が召喚される場所であり……同時に、この国の魔力供給の『水源』らしい」
資料を読み進めるうちに、イリスの表情が険しくなった。 そこには、教会の教義を根底から覆す、とんでもない事実が記されていた。
『聖女ハ、神ノ愛シ子ニアラズ。地下深クニ眠ル "神ノ骸" ヲ封印スルタメノ、生キタ鍵ナリ』
「……ははっ、傑作だ」 イリスは乾いた笑い声を上げた。 「俺たちは、国を守るために祈っていたんじゃない。……地下に埋まっている『何か』が目覚めないように、その生体エネルギーを吸われていただけだったんだ」
世界を守る聖女? 違う。ただの「蓋」だ。 この国は、爆弾の上に住みながら、その爆発を抑えるために異世界から人間をさらってきては、消耗品として使い潰していたのだ。
「どうする、イリス」 グレンがニヤリと笑う。 「このまま国を出て、南の楽園にでも高飛びするか? それとも……」
「決まってる」 イリスは地図上の「北」を、指先で強く叩いた。 その瞳に、冷たく静かな炎が宿る。
「元を断つ。この腐ったシステムの根源――『神の骸』とやらをぶっ壊しに行くぞ」 「ハッ、神殺しか。そいつは大仕事だな」 「怖いか? 元英雄」 「まさか。退屈しなくて済みそうだ」
二人の目的は定まった。 単なる逃亡ではない。世界の秘密を暴き、それを破壊するための旅だ。
――コンコン。
その時、部屋のドアが控えめにノックされた。 ルームサービスではない。二人は瞬時に視線を交わし、グレンが大剣を引き寄せ、イリスが魔力を練る。 「……誰だ」 「失礼します」
返事と共に、ドアノブが回される。 鍵はかけていたはずだ。だが、外から解錠された音がした。 音もなくドアが開き、入ってきたのは――メイド服を着た、見知らぬ老婆だった。 しかし、ただの使用人ではない。その身のこなし、足音のなさ。 そして何より、手にした銀の盆の上に乗っているのが、朝食ではなく二丁の短剣であることからも、それは明白だった。
「『掃除屋』か」 グレンが低い声で唸る。 「お早いお着きだな。教会の飼い犬ども」
「ギリアム様より承っております」 老婆は能面のような無表情で、深々と頭を下げた。 「『不良品』の回収に参りました。……死体でも構わない、とのことですので」
老婆の背後、廊下の影から、同じような気配を持った男たちが数名、音もなく現れる。 異端審問局・実行部隊。 教会の闇を担う、プロの暗殺者たちだ。
「上等だ」 イリスはまだ乾ききっていない銀髪をかき上げ、不敵に笑った。 「朝の運動には丁度いい。……行くぞ、グレン。チェックアウトの時間だ」
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