第5話:聖なる夜の強盗劇(後編)
イリスの掌から放たれたのは、かつて人々を癒やした聖なる光ではない。 重く、粘りつくような漆黒の炎――『呪炎』だった。
それは金庫の中の書類に引火すると、まるで乾いた薪のように瞬く間に燃え上がった。だが、この炎は熱を発しない。ただ物質を侵食し、魔力を食らい尽くして灰へと変える、飢えた獣のような炎だ。
「……おい、やりすぎだろ」 グレンが呆れたように呟くが、その口元は面白そうに歪んでいる。 「この部屋ごと燃やす気か?」 「部屋だけじゃない。この屋敷にある『嘘』も『罪』も、全部灰にするんだよ。……手伝ってくれ、グレン。壁をぶち抜いて風穴を開ける」 「へいへい」
グレンが大剣を構え、壁に向かって踏み込んだ、その時だ。
「き、貴様らぁぁぁ!! 私の『聖域』で何をしているぅぅ!!」
執務室の扉が蹴破られ、悲鳴のような怒号が響いた。 現れたのは、贅肉を揺らした巨漢――大神官ギリアムだ。 就寝中だったのだろう、豪奢な寝間着姿で、後ろには武装した私兵たちを引き連れている。ギリアムは燃え上がる金庫の中身を見て、顔色を土気色に変えた。
「あ、ああっ! 私の金が! 私の研究資料があぁぁ!!」 「……おや。お早いお着きで、大神官様」
イリスは燃え盛る炎を背に、ゆっくりと振り返った。 フードを少しだけ持ち上げ、その「聖女の顔」を晒す。 ギリアムの動きが凍りついた。
「な……ば、馬鹿な……!」 ギリアムは目を剥き、後ずさる。 「イリス……!? 処刑されたはずの魔女が、なぜここに! 亡霊か!?」 「亡霊? いいえ。あんたたちが作り出した『怪物』ですよ」
イリスは可憐に微笑んだ。 だが、その瞳孔は爬虫類のように鋭く収縮し、殺意だけを純粋培養した光を放っていた。 「ギリアム様。私の身体を触りながら、よく仰っていましたよね。『聖女の魔力は、全てを清める』と。……だから、清めに参りました。あなたの汚れた欲望も、血塗られた金も、すべて」
「ひ、ひぃっ……!」 イリスが一歩近づくと、ギリアムは腰を抜かさんばかりに怯えた。だが、すぐに腐った権力者の本能を取り戻し、私兵たちに叫んだ。 「や、やれ! 殺せ! こいつは脱獄囚だ! ここで殺せば賞金は望みのままだぞ!!」
私兵たちが一斉に剣を抜き、殺到する。 狭い執務室。多勢に無勢。 しかし、イリスは指一本動かさなかった。 動く必要がなかったからだ。
「――邪魔だと言ってるだろうが、雑魚ども」
暴風が吹いた。 グレンだ。黒い旋風と化した大剣が、横薙ぎに一閃される。 ただの剣撃ではない。圧倒的な質量と速度が生み出す衝撃波が、私兵たちの剣をへし折り、鎧ごと壁まで吹き飛ばしたのだ。 ドガガガガッ! 部屋中の調度品が砕け散り、私兵たちは悲鳴を上げる暇もなく意識を失って積み重なる。
「ば、化け物……! 『聖女殺し』のグレンか……!」 ギリアムは震える手で、懐から一本の短杖を取り出した。 先端に赤い魔石が埋め込まれた、攻撃用の魔導具だ。 「こ、来い! 近づけばこの高火力魔法で黒焦げに……」
「遅い」
ギリアムが詠唱を始めるより早く、グレンの間合いはゼロになっていた。 鈍い音がして、短杖を握ったギリアムの手首が、あらぬ方向へねじ曲げられた。 「ぎゃああああああ!!」 「俺の前でオモチャを振り回すな。目障りだ」 グレンは無慈悲にギリアムの襟首を掴み上げ、イリスの足元へと放り投げた。
ドサリ。 肉塊のように転がった大神官を見下ろし、イリスは冷たい目で言った。 「さて、ギリアム。命乞いの時間だ。……と言いたいところだが、あんたの話を聞く気はない」
イリスは金庫の中から、燃え残った数枚の書類――人身売買の証拠と、裏帳簿――を拾い上げた。 そして、窓の方を指差す。
「グレン、あそこだ。派手にやってくれ」 「了解」 グレンが大剣を振るう。 ズドンッ!! 爆音と共に、執務室の壁一面が崩落した。 外気と共に猛吹雪が舞い込んでくるが、室内の黒い炎は消えるどころか、酸素を得て爆発的に勢いを増した。
「な、何を……」 ギリアムが呆然と呟く中、イリスは崩れた壁の縁に立った。 眼下には、火事の騒ぎを聞きつけて集まり始めた野次馬たちの姿が見える。
「プレゼントだ、エリュシオンの愚民ども」
イリスは手にした書類を、宙に放った。 同時に風魔法を発動させる。 証拠書類は千切れ飛び、無数の紙吹雪となって、雪と共に街中へと散らばっていった。 さらに、金庫から奪わなかった宝石や金貨も、鷲掴みにしてばら撒く。
「ひっ、人の金があぁぁ!」 「くれてやるよ。これがあんたの命の値段だ」
イリスは背後のギリアムを一瞥し、最後の仕上げにかかった。 指先をギリアムの額に向ける。 「死んで楽になれると思うなよ。……『呪刻』」 黒い光がギリアムの額に吸い込まれる。 「あんたの魔力回路を暴走させておいた。これから一生、魔法を使うたびに激痛が走る。そして、その醜い顔には『罪人』の痣が浮かび上がるようにしておいたから」
「あ、ああ……あぁぁ……」 「せいぜい、民衆に言い訳して生き延びるんだな。……じゃあな、豚野郎」
炎が部屋全体を飲み込む寸前、イリスはグレンの手を取り、夜空へと身を躍らせた。
***
上層区の夜空が、赤く染まっていた。 大神官の屋敷が、巨大な篝火となって燃え盛っている。 屋敷の庭には、空から降ってきた「証拠書類」を拾い読み、怒りに震える市民たちの姿があった。 さらわれた子供たちのリスト。横領の証拠。 聖職者の皮を被った悪魔の所業が、白日の下に晒されたのだ。
その光景を、遠く離れた時計塔の上から見下ろす二つの影があった。
「……派手にやりすぎたか?」 グレンが、奪った金貨の袋をジャラジャラと鳴らしながら笑う。 「いいや、これくらいで丁度いい。これで俺たちは、国にとって明確な『脅威』になった」
イリスは、吹きすさぶ風の中で銀髪をなびかせ、燃える屋敷を見つめていた。 その瞳には、達成感と、深い暗闇が同居している。
「言っておくが、これは始まりだ。俺たちの復讐劇の、まだプロローグに過ぎない」 「違げぇねぇ」 グレンはイリスの肩に腕を回し、乱暴にポンと叩いた。 「次はどこだ? 騎士団長の別荘か? それとも国王の寝室か?」 「……ふふ。まずは、温かいスープと柔らかいベッドを確保してからだ」
イリスは初めて、年相応の少女のような――しかし中身のふてぶてしさが滲み出る、悪戯な笑みを浮かべた。 「金はある。今夜は最高級の宿で、泥のように眠ろう」
世界を敵に回した共犯者たちは、雪の闇へと消えていく。 聖なる夜を焦がす黒煙だけが、彼らがこの世界に残した最初の爪痕だった。
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