第4話:聖なる夜の強盗劇(前編)
夜の帳が下りると、聖都エリュシオンはその二面性を露わにする。 貧民たちが凍えるスラム街は漆黒の闇に沈むが、貴族や高位聖職者が住む「上層区」は、魔石灯の暖かな光に満ちていた。
雪を踏む音が、不自然なほど静かに響く。 上層区の屋根の上。二つの影が、降りしきる雪に紛れて疾走していた。
「はぁ、はぁ……ッ! おい、速すぎるぞ、筋肉ダルマ!」 イリスは呼吸を荒らげながら、前を行くグレンの背中を睨みつけた。 ドレスの裾を縛り、盗んだ外套を羽織っているとはいえ、深雪の中の移動は少女の体力には過酷すぎる。肺が凍りつきそうだ。元・成人男性の精神力がなければ、とっくにへたり込んでいる。
「遅ぇぞ、元聖女」 グレンが煙突の上に軽りと着地し、呆れたように振り返る。 「口は回るのに足は回らねぇのか。置いてくぞ」 「誰のせいで、魔力欠乏(ガス欠)なんだと思ってる……」
イリスは屋根の縁に手をかけ、グレンに引き上げられながら毒づいた。 グレンの手は相変わらず雑だが、引き上げるタイミングだけは妙に絶妙だ。この男、口調の割に「連携」というものを心得すぎている。
二人が見下ろす先には、一際豪奢な屋敷が鎮座していた。 高い塀に囲まれ、庭には季節外れの温室まである。大神官ギリアムの私邸だ。 イリスにとって、ギリアムは忘れもしない怨敵の一人だ。「聖女の清め」と称して、執拗に身体を触り、耳元で粘着質な説教を繰り返した豚野郎。
「……あいつの屋敷だけ、雪が積もってないな」 グレンが眼下を睨み、低く呟く。 「ああ。屋敷全体に高出力の融雪結界を張ってるんだ。市民が凍死している横で、庭の薔薇を枯らさないために魔石を浪費してる」 イリスの瞳に、冷たい侮蔑の色が宿る。 「俺が命を削って供給した魔力が、こんな下らない道楽に使われていたわけだ」
「ハッ、胸糞悪い話だ」 グレンは獰猛に笑い、背負った黒剣の柄に手をかけた。 「で? 正面からカチ込むか?」 「馬鹿言え。隠密行動だと言っただろう。……警備の兵士は殺すなよ。騒ぎになると面倒だ」 「善人ぶるなよ」 「違う。あくまで『泥棒』として振る舞うんだ。翌朝、金庫が空になって初めて、奴らは恐怖する。……自分たちの聖域が、誰にも気づかれずに踏み躙られたとなれば、疑心暗鬼で勝手に自滅してくれる」
イリスはニヤリと笑った。その笑顔は、可憐な唇から紡がれたとは思えないほど陰湿だった。 グレンは「性格の悪いこった」と肩をすくめ、屋敷の庭へと音もなく飛び降りた。
庭園に着地した二人の前に、見えない壁が立ちはだかる。 防犯用の魔術結界だ。触れれば警報が鳴り、侵入者は雷撃に打たれる。
「さて、聖女様。この透明な壁をどうにかできるのか?」 「見てろ」
イリスは結界の前に歩み寄り、白く細い指をかざした。 本来、聖女の力とは「浄化」と「加護」。結界を張ることはできても、他人の結界を解除する技術など教わっていない。 だが、今のイリスにあるのは、世界への呪詛で変質した黒い魔力だ。 イリスは、結界を構成する魔術式を視覚的に捉えた。
(……穴だらけだ。セキュリティ意識が低すぎる)
かつてシステムエンジニアとして働いていた前世の知識が、魔術解析に奇妙な親和性を見せていた。 論理的な綻びを見つけ、そこに自分の魔力を流し込む。 破壊するのではない。「汚染」するのだ。 清廉な結界の術式に、ノイズのような呪いを混ぜ込み、識別信号を書き換える。
「――『アクセス権限取得』。開け」
イリスが呟くと同時に、結界の一部が黒く変色し、そこだけぽっかりと穴が開いた。 警報は鳴らない。雷撃も落ちない。 ただ、イリスの指先から滴る黒いモヤが、結界を侵食しているだけだ。
「……おいおい」 それを見ていたグレンが、珍しく引きつった顔をした。 「お前、本当に聖女か? やってることが邪教の呪術師そのものだぞ」 「聖女だよ。……ただ、ちょっとばかり『グレた』だけさ」
イリスは澄ました顔で、結界の穴をくぐり抜けた。 屋敷への侵入は、拍子抜けするほど簡単だった。 見回りの衛兵たちは、グレンが背後から忍び寄り、首筋に手刀を一閃させるだけで、音もなく崩れ落ちていく。 その手際は、戦士というより暗殺者のそれだ。
「意外だな。元英雄様は、もっと派手な戦いしかできないと思ってた」 「戦場じゃあな。だが、俺は英雄になる前は、路地裏のドブネズミだったんだよ」
グレンは気絶した衛兵を植え込みに隠しながら、自嘲気味に言った。 その横顔に、イリスはふと親近感を覚えた。 こいつもまた、綺麗なだけの経歴じゃない。清濁併せ呑んで、それでも世界に裏切られた同類だ。
二人は裏口から屋敷内へ侵入し、迷うことなく最奥の執務室を目指した。 廊下に飾られた絵画、高価な絨毯。その全てが、民衆の血税と寄付金で買われたものだと思うと、イリスの靴底が汚れることすら厭わしく感じる。
「ここだ」
重厚なマホガニーの扉の前で、イリスは足を止めた。 鍵がかかっているが、関係ない。イリスが指先で鍵穴に触れ、魔力を流すと、カチャリと小気味よい音がして解錠された。 中に入ると、そこは趣味の悪い調度品で埋め尽くされた部屋だった。 壁一面の本棚。その裏に隠された金庫の存在を、イリスの魔眼は見逃さない。
「ビンゴだ。……グレン、あの本棚をどかせ」 「人使いの荒い姫様だ」
グレンが片手で巨大な本棚をずらすと、壁に埋め込まれた鉄の扉が現れた。 再びイリスの「ハッキング」作業。 数分後、重い金属音と共に扉が開く。
中から溢れ出したのは、金貨の輝き――ではなかった。 いや、金貨の山もある。宝石も、権利書のような書類の束もある。 だが、イリスの目を釘付けにしたのは、金庫の最奥に鎮座していた「それ」だった。
「……なんだ、これ?」
グレンが眉をひそめる。 そこに並んでいたのは、いくつものガラス瓶。 その中には、液体に浸された、人間の「眼球」や「臓器」のようなものが浮いていた。そしてそれらは全て、淡い魔力の光を帯びている。
「……聖遺物の原材料だ」 イリスの声が震えた。恐怖ではない。煮えたぎるような怒りでだ。 「魔力の高い子供をさらって……生きたまま部品にする、禁忌の術式。……ギリアムの野郎、裏でこんな商売に手を染めてやがったのか」
ただの横領ではない。 この国は、腐っているどころの話ではなかった。根幹から、ウジが湧いている。
「……おい、イリス」 グレンの声色が、一段低くなった。 「計画変更だ」 「奇遇だな。俺も同じことを考えていた」
イリスは金庫の中の金貨袋を鷲掴みにし、グレンに投げ渡した。 そして、残りの書類と、忌まわしいガラス瓶を見据える。
「金はいただく。だが、こっそり帰るのは中止だ」 イリスの掌に、どす黒い炎が灯る。 「派手に燃やそう。……この屋敷ごと、奴の悪徳を夜空に晒してやる」
聖なる夜の強盗劇は、ここから放火劇へと変わる。 それは、二人の復讐者が、この国に突きつける最初の「狼煙」だった。
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