第31話:魔石のデバッグと、美しき狂信者
スラムのボロ小屋。 重苦しい空気の中、イリスはベッドに横たわる少女リナの胸元に手をかざしていた。
「……構造解析完了。予想通りだ」 イリスは淡々と告げた。 「過剰な魔力素が血管内で結晶化し、血流を阻害している。……プログラムで言えば、ゴミデータがメモリを圧迫してフリーズ寸前ってところだ」
イリスは指先に聖女の魔力を集中させる。 「浄化」ではない。もっと繊細な「書き換え」だ。 結晶化した魔力を分解し、体外へ排出可能な液体へと変換する。
「――『術式修正』」
イリスの指が光ると、リナの苦しげな呼吸がふっと和らいだ。 胸元を覆っていた灰色の石化部分が、見る見るうちに薄くなり、健康的な肌色を取り戻していく。
「あ……」 見ていたエルフィが息を呑む。 どんな高価な薬でも止まらなかった進行が、わずか数分で逆転したのだ。
「応急処置は終わった。これで当分は痛みもないし、進行もしない」 イリスは額の汗を拭い、エルフィに向き直った。 「完治させるには、もっと清潔な環境と時間が必要だ。……だから、ここを出るぞ」
エルフィは震える手で妹の頬に触れ、温かさが戻っていることを確認すると、その場に深く膝をついた。
「……信じられない。あなたは……一体」 エルフィは濡れた瞳で、目の前の小柄な人物を見上げた。 「妹を救ってくれたお方の名前を、教えていただけませんか」
イリスは一瞬ためらった。 自分の名は、今や隣国にまで轟く「指名手配犯」の名だ。 だが、これから背中を預ける相手に偽名を使う趣味はなかった。
「……イリスだ」 フードを少し上げ、紫紺の瞳を見せる。 「聖教国を追われた『魔女イリス』。……世界中がお尋ね者にしている大悪党だ。それでも付いてくるか?」
試すような問いかけ。 だが、エルフィの表情に恐怖は微塵も浮かばなかった。 浮かんだのは、熱狂的なまでの崇拝と、歓喜の色だった。
「魔女……? いいえ、違います」 エルフィは首を振り、祈るように両手を組んだ。 「世界が何と呼ぼうと、私にとってあなたは、唯一無二の救い主です。……我が主、イリス様」
「……その『様』付けはやめろ」 イリスは眉をひそめた。 かつて聖女として祭り上げられ、散々利用された記憶が蘇る。崇拝されるのはもうこりごりだ。 「私は神でも聖女でもない。ただの復讐者だ。……『イリス』でいい」
「いいえ、それはできません」 エルフィは頑として譲らなかった。その瞳には、揺るぎない忠誠の炎が灯っている。 「私の命も、魂も、全て捧げると誓いました。……あなたは私の絶対君主です。イリス様」
「……チッ、頑固なエルフだ」 イリスは頭をかいた。 まあいい。恐怖で縛るより、崇拝で縛る方が裏切りは少ない。少し重いが、それも彼女の強さの源泉だろう。
「好きにしろ。……行くぞ、グレン、エルフィ。リナを安全な場所に移す前に、片付けなきゃいけない『ゴミ』がある」
エルフィは涙を拭い、立ち上がった。 その顔つきは、妹を案じる姉のそれから、敵を屠る冷徹な「凶刃」へと切り替わっていた。 「はい、イリス様。……案内します。『黒鉄興業』の本部へ」
***
帝都中層区。 賭博場と闘技場を併設した巨大なビル。そこがマフィア『黒鉄興業』の本拠地だった。 深夜だというのに、建物の前には屈強な用心棒たちが立っている。
「正面から行くのか?」 路地裏で、グレンが大剣を肩に担ぎながら問う。 「ああ。コソコソ隠れる必要はない」 イリスはフードを外し、堂々と正面通りを歩き出した。 「これからここを乗っ取るんだ。……新しい支配者の顔見せだ」
イリスたちが入り口に近づくと、用心棒たちが立ち塞がった。
「あぁ? 何だガキども。ここは会員制だ、帰んな!」 「おやおや、見覚えのあるエルフじゃねぇか。逃げ出した奴隷がノコノコ戻ってくるとはな!」
用心棒たちが下卑た笑い声を上げる。 だが、エルフィは無言で一歩前に出た。 その瞳は、ゴミを見るように冷ややかだった。
「……汚らわしい口を閉じてください」 エルフィの声は静かだが、殺気が滲み出ている。 「イリス様がお通りです」
「はぁ? イリスだぁ? 何言ってんだこいつ――」
シュッ。
風切音。 男が言葉を終えるより早く、エルフィの短剣が閃いた。 男たちのベルトが切れ、ズボンがずり落ちるのと同時に、持っていた武器の柄が切断される。
「なっ……!?」 「次は首を飛ばしますよ?」
エルフィの氷のような視線に、男たちが悲鳴を上げ、腰を押さえて逃げ惑う。 イリスは満足げに頷いた。
「上出来だ。……グレン、ドアをノックしてやれ」 「あいよッ!」
ドゴォォォォン!!
グレンの蹴りが、分厚いオーク材の扉を蝶番ごと粉砕した。 爆音と共にロビーへ躍り出る三人。 中には、数十人の構成員と、賭博を楽しんでいた客たちがいたが、突然の襲撃に凍りついている。
「な、何者だ!」 「侵入者だ! 殺せ!」
構成員たちが武器を抜き、殺到してくる。 イリスは広間の中央で立ち止まり、指を鳴らした。
「――『視覚ジャック(ブラック・ハック)』」
バチバチッ! 室内の魔導照明が一斉に明滅し、破裂した。 ロビーが完全な闇に包まれる。
「うわっ、何も見えねぇ!」 「明かりをつけろ!」
混乱する闇の中で、イリスの声だけが冷徹に響く。 「エルフィ、やれ。……殺しはするな。これから私の『財布』になる連中だ。再起不能にするだけでいい」 「御意、イリス様」
闇の中を、風が駆ける。 エルフ特有の夜目が、暗闇で無防備な敵を的確に捉える。 腱を斬る音。骨を砕く音。悲鳴。 エルフィは、イリスへの忠誠を示すように、舞うように敵を狩っていく。
「こっちはパワー担当だな!」 グレンもまた、闇などお構いなしに大剣を振るう。 彼の場合は技術などいらない。適当に振り回せば、敵が勝手に吹き飛んでいくからだ。
数分後。 予備電源が作動し、薄明かりが戻った時、立っているのはイリスたち三人だけだった。 床には、呻き声を上げる男たちが山のように転がっている。
「……ふん。口ほどにもない」 イリスは倒れている男の一人を踏みつけ、奥のエレベーターを見据えた。
「行くぞ。最上階の執務室だ。……この組織の金と権利書、そしてリナを苦しめた代償を払わせに行く」
血と破壊の痕跡を残し、三人は上階へと向かう。 それは単なる暴力ではない。 帝都の裏社会に、「イリス様」という新たな絶対者の誕生を告げる狼煙だった。
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