第29話:鉄屑の街の姉妹と、届かない処方箋
帝都の夜は、上層と下層で全く違う顔を持つ。 上層がガス灯の光に包まれている頃、下層区は工場の排水と黒煙に沈み、腐ったような湿気に満ちていた。
イリスとグレンは、闇に紛れてそのスラムの一角を歩いていた。 目的は、あの地下闘技場の剣奴――エルフの少女、エルフィの追跡だ。
「……酷い場所だな」 グレンが鼻をつまむ。 路地には汚水が流れ、咳き込む浮浪者たちがうずくまっている。 帝国の繁栄は、この底辺の犠牲の上に成り立っている。それは聖教国の人柱システムと構造的には変わらない。
「あそこだ」 イリスが指差した先。 廃材とトタン板で継ぎ接ぎされた、今にも崩れそうなボロ小屋があった。 隙間から、頼りないランプの灯りが漏れている。
二人は気配を殺し、小屋の窓(ガラスなどなく、布が垂れ下がっているだけだ)から中を覗き込んだ。
***
狭い小屋の中には、粗末なベッドが一つだけ置かれていた。 そこに横たわっているのは、エルフィによく似た、さらに幼いエルフの少女だった。 だが、その身体は異様だった。 左腕から胸元にかけて、皮膚が灰色に変色し、所々が**「岩石」のように結晶化**しているのだ。
「……『魔石病』か」 イリスが小声で呟く。 工場の排煙に含まれる高濃度の魔力毒素を吸い続けることで発症する、帝国特有の公害病だ。身体が徐々に魔石へと置換され、最終的には全身が石となって死に至る。
「ただいま、リナ」
入り口の扉が開き、エルフィが入ってきた。 闘技場での殺気立った姿はそこにはない。 彼女は急いで血のついた鎧を脱ぎ捨て、顔の泥を拭ってから、妹――リナの枕元に駆け寄った。
「お姉……ちゃん?」 リナが薄目を開ける。その声は枯れ木のようにか細い。 「遅くなってごめんね。……痛む?」 「ううん……平気……。お姉ちゃんこそ、また怪我……」
リナの石化した手が、震えながらエルフィの頬の傷に触れようとする。 エルフィはその手を優しく握りしめ、自分の頬に押し当てた。 その目から、ポロポロと涙がこぼれ落ちる。
「ごめんね……ごめんね、リナ。私が不甲斐ないばかりに……」 「泣かないで……。お姉ちゃんが悪いんじゃないよ……悪いのは、森を焼いた人たちだよ……」
――森を焼いた人たち。 その言葉に、イリスの眉が動いた。
エルフィは涙を拭い、懐から小瓶を取り出した。 闘技場のオーナーから、報酬の代わりに投げ渡された「薬」だ。 ドロリとした紫色の液体。
「さあ、薬だよ。これを飲めば楽になるから」 エルフィがスプーンで妹の口に液体を流し込む。 リナは苦しげに顔を歪めたが、飲み下すとすぐに呼吸が安らかになり、眠りに落ちていった。
妹の寝顔を見つめるエルフィの背中は、あまりに小さく、そして孤独だった。 彼女は妹の額に口づけを落とし、呟いた。
「必ず治すから。……どんな汚いことをしてでも、リナだけは守るから……」 それは祈りというより、自分自身への呪いのような誓いだった。
***
「……事情は見えてきたな」 小屋を離れた路地裏で、グレンが重い口を開いた。 「典型的な弱みだ。妹の薬代のために、マフィアの言いなりになって戦わされてるってわけか」
「ああ。……だが、それだけじゃない」 イリスは冷徹に分析を始めた。 「二人の会話に出てきた『森』の話。……数年前、帝国が北部の森林地帯を開発のために焼き払った事件があった。彼女たちはそこの生き残りだろう」
故郷を追われ、難民として帝都に流れ着き、そこで妹が公害病に倒れた。 金も身寄りもない姉妹に、マフィアが「治療薬がある」と囁いたのだろう。 完璧な搾取の構図だ。
「で? どうする。助けて恩を売るか?」 グレンが問う。
「……そのつもりだが、一つ気になることがある」 イリスは、小屋の方を振り返った。 その魔眼は、先ほどエルフィが飲ませていた「薬」の成分を解析していた。
「あの薬……『治療薬』じゃないぞ」 「あ?」 「あれは強力な鎮痛剤と、幻覚作用のある麻薬を混ぜたものだ。……一時的に痛みは消えるが、病気の進行は止まらない。それどころか、中毒性があって依存させるように作られている」
イリスの声温度が、氷点下まで下がった。 妹を治すために戦っているはずが、マフィアが渡していたのは、妹をゆっくりと殺し、姉を永久に縛り付けるための「毒」だったのだ。
「……クソ野郎どもだな」 グレンの拳が、壁を殴りつける。 イリスもまた、静かな殺意を燃やしていた。 彼女はエンジニアだ(前世では)。 理不尽なシステムエラーや、悪意あるバグを何よりも嫌う。 そして何より、エルフィのあの「姉としての自己犠牲」の姿が、かつて国のために身を削った自分と重なって見えた。
「グレン。……計画を立てるぞ」 イリスはフードを目深に被り直した。
「あのマフィアは、ただ潰すだけじゃ足りない。……姉妹の絶望を食い物にした代償を、骨の髄まで支払わせてやる」
闇の中で、イリスの瞳が怪しく光った。 調査は終わった。 次は接触。 エルフィに絶望的な真実を突きつけ、そして「魔王」としての契約を持ちかける時だ。
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