第23話:黒き石板と、血文字の遺言
馬車は荒野を駆ける。 車輪が凍土を噛み、小石を弾く乾いた音だけが、荷台の中の重苦しい沈黙を際立たせていた。
イリスの膝の上には、少年アルが「神の鍵」だと言って持ち出した、一枚の黒い板が置かれている。 材質は黒曜石に似ているが、もっと硬質で、光を一切反射しない底知れない漆黒。ずっしりとした重量感は、ただの物質ではなく、何らかの強大な念が圧縮された塊のように感じられた。
「……なぁ、姉ちゃん」 荷台の隅で膝を抱えていたアルが、怯えたように口を開いた。 「それ、やっぱりヤバいもんなのか? 持ってるだけで、肌がピリピリするんだけど……」
「ああ。尋常じゃない魔力が封じ込められている。素人が触れば発狂しかねない代物だ」 イリスは手袋を外し、素手でその冷たい表面をなぞった。 指先に触れる感触は氷のように冷たいのに、その奥底で、ドクン、ドクンと脈打つような熱を感じる。 この板から漂う波長。それは、この世界のエリュシオン語でも、古代語でもない。もっと根本的に質の違う、異質な魔力。 そしてそれは、イリス自身の魂の形と、恐ろしいほど似通っていた。
(……間違いない。これは『同類』が遺したものだ)
イリスは意を決し、体内の魔力回路を開いた。 聖女として調整された、高純度の魔力。それを鍵として、石板の内部へ流し込む。
――ズゥゥゥン。
低い共鳴音が骨に響いた。 石板がイリスの魔力を飲み込み、飢えた獣のように吸い上げ始める。 視界が明滅し、耳鳴りが響く。
『……あ……ぁ……』
頭の中に、直接響く声があった。 それは音声ではない。残留思念だ。無念と絶望、そして僅かな希望を込めて焼き付けられた、魂の叫び。
石板の表面が、内側から滲み出すように赤く発光し始めた。 まるで、血管が浮き出るように。あるいは、血文字が刻まれるように。 そこに浮かび上がったのは、この世界に存在するはずのない文字だった。
「……嘘だろ」
イリスの口から、乾いた吐息が漏れた。 そこに並んでいたのは、見慣れた、けれどこの過酷な異世界ですっかり忘れていた、故郷の文字。
『これを読んでいる同胞へ』
漢字と、ひらがな。 日本語だった。 その文字を見た瞬間、イリスの脳裏に、かつての記憶がフラッシュバックした。 コンクリートのビル群。コンビニの電子音。満員電車。平和で、退屈で、けれど安全だった日本の風景。それが奔流となって押し寄せ、イリスの胸を締め付けた。
『私は三代目の聖女。名前はユカ』 『もしあなたが日本から来た人なら、聞いてほしい。この世界は狂っている』
文字は次々と浮かんで消え、新たな文章を紡いでいく。 それは、先代の聖女が命を削って遺した、絶望的な真実の告発だった。
『北の祭壇に神はいない。あそこにあるのは、世界と世界が衝突してできた「傷跡」だ』
イリスは息を呑んだ。 神の奇跡? 召喚? そんな綺麗なものではなかった。 次元と次元が衝突事故を起こし、そこに物理的な「大穴」が開いているというのだ。
『教会は、その傷跡から漏れ出すエネルギーを「神の恵み」と偽って吸い上げている。そして、傷跡を塞ぐために、私たち異世界人の魂を「人柱」として投げ込んでいる』
「……人柱」 イリスが掠れた声で呟く。 今まで「電池」だと思っていた扱いは、もっと呪術的で、物理的な「生贄」だったのだ。 傷口を塞ぐためのパテ。 それが、歴代の聖女たちが背負わされた運命の正体。 消費され、摩耗し、最後は魂ごと穴に溶けて消える。
『でも、帰る方法はあるかもしれない。傷跡は、あちら側の世界とも物理的に繋がっているから』
その一文が表示された時、イリスの時が止まった。 帰れる? この地獄から? あの日々へ?
『私はもう動けない。魔力を吸い尽くされ、手足も壊死してしまった。……だから、せめてこの真実だけを石板に焼き付けて遺す』
文字が揺らめく。 それは、死の間際のユカが絞り出した、魂の咆哮だった。
『北へ行って。そして、この死の連鎖を終わらせてほしい』 『私を……私たちを、家に帰して……』
フッ、と光が消えた。 メッセージはそこで途切れていた。 石板は再び冷たい黒い塊に戻ったが、イリスの手には確かな熱が残っていた。 それは先代聖女の無念の熱であり、イリス自身の激情の熱でもあった。
イリスは、しばらく動けなかった。 石板を抱きしめるように屈み込み、震えていた。 胸の奥から湧き上がるのは、教会へのどす黒い殺意か。先代への哀悼か。 それとも――強烈な「望郷」の念か。
「……イリス?」
異変を感じたのだろう。馬車が停止した。 御者台からグレンが顔を覗かせ、荷台に入ってくる。 蒼白な顔をしてうずくまるイリスを見て、グレンの表情が厳しくなった。 「どうした。……何が書いてあった。呪いか?」
「……似たようなもんだ」 イリスは顔を上げ、震える声を押さえ込んで告げた。 その瞳は、深淵のように暗く沈んでいた。
「これは、俺の故郷の文字だ。……俺の前に連れてこられ、殺された『先代聖女』の遺書だよ」
「故郷……?」 グレンが目を見開く。 イリスが「異世界から来た」と言っていたのは知っている。だが、それはどこかお伽話のような、遠い概念だったはずだ。 それが今、物理的な証拠として目の前に現れた。
「グレン。……北の祭壇には、『穴』があるらしい」 イリスは石板を懐に大切にしまった。 それは、ただの遺品ではない。教会を破滅させるための、決定的な証拠だ。
「俺たちの世界と繋がっている、次元の穴だ。……教会はそれを隠すために、聖女を食わせている」 そこまで言って、イリスはグレンの目を真っ直ぐに見据えた。 その言葉を口にするのが怖かった。けれど、言わなければならない。
「俺は、そこへ行く。……もしかしたら、元の世界に帰れるかもしれない」
――帰還。 その言葉が落ちた瞬間、馬車の中の空気が凍りついたようだった。 風の音さえ消えたような静寂。 グレンの表情から、いつもの不敵な笑みが消える。 その瞳が揺れ、そしてすぐに光を失ったように暗く沈んだ。
「……帰る、か」 グレンは低く呟き、視線を逸らした。 その声には、微かだが明確な「寂寥」が含まれていた。
グレンには帰る場所がない。 守るべき村も、仲間も、名誉も、すべて失った。この世界を呪い、道連れにすることだけが、彼を支える唯一の柱だ。 二人は「世界に見捨てられた共犯者」だったはずだ。 だが、イリスには「逃げ道」が生まれた。 「ここではないどこか」へ帰るという、グレンには絶対に選べない選択肢が。
二人の間に、目に見えない、けれど決定的な溝が走った瞬間だった。 グレンが握りしめた拳が、白く変色している。
「よかったじゃねぇか」 グレンは投げやりに言った。顔は背けたままだ。 「こんなクソみてぇな世界、おさらばできるならそれに越したことはねぇ。……せいぜい、切符を手に入れられるといいな」
突き放すような言葉。 だが、イリスには聞こえてしまった。その言葉の裏にある、「俺を置いていくのか」という子供のような悲痛な響きが。
胸が痛んだ。 帰りたい。温かい風呂と、ネット環境と、平和な日本へ。 でも、一人ぼっちの怪物を、この雪原に置き去りにして? そんなことをして、俺は平気で生きていけるのか? しかも元の体ではなく、異世界の少女、イリスとして?
(……馬鹿か、俺は) イリスは自分の頬を、パチンと音が鳴るほど強く叩いた。
「……勘違いするな」 イリスは強く言った。自分自身に言い聞かせるように、そしてグレンの背中に叩きつけるように。 「帰れる保証なんてない。それに、俺一人でさっさと帰るつもりもない」
「あ?」 グレンが驚いてこちらを見る。
「あの穴をどうにかしないと、この世界も終わるんだろ? ……だったら、まずはそこに行って、教会連中をぶっ飛ばしてから考える」 イリスはわざと悪態をつき、ニヤリと笑ってみせた。 「それに、俺たちの当初の目的を忘れたか? 『復讐』だ。俺たちを部品扱いした連中に、きっちりツケを払わせるまでは、どこにも行かないさ」
帰還はゴールではない。 それは、教会を脅迫し、絶望させるための「切り札」だ。 そして何より、この不器用な相棒を置いていくなんて、寝覚めが悪すぎる。
「……へっ」 グレンの口元が、ようやく僅かに緩んだ。 安堵と、自嘲が混じった笑い。 彼は大きな手で、イリスの頭を乱暴に撫でた。
「欲張りなこった。……いいぜ。地獄の底だろうが、世界の穴だろうが、付き合ってやるよ」
グレンは再び御者台に戻り、手綱を握った。 「行くぞ」という短い掛け声とともに、馬車が動き出す。
イリスは荷台の奥で、再び石板を強く握りしめた。 帰還の希望。 それは同時に、この世界で築き上げた絆を引き裂く刃でもある。 いつか来る「選択」の時まで、この残酷な真実は、二人の間で揺れ続けるだろう。
だが、今はまだ、その時ではない。 イリスの背筋に、冷たい殺気が走った。 後方の雪原。 地平線の彼方から、砂塵を上げて迫る白い影が見えた。
「……来たな」 イリスは低く呟いた。 石板の魔力に引き寄せられた、教会の猟犬たち。 真実を知り、復讐の炎を新たにしたイリスにとって、彼らは格好の「最初の生贄」だった。
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