第20話:白銀の悪夢と、地下室の略奪者
深夜二時。 雨音だけが支配する時刻。『白銀の救済会』の裏路地に、二つの影が舞い降りた。
「……風向きよし。湿度よし」 イリスは通気口の前でしゃがみ込み、ポーチから紫色の瓶を取り出した。 小声で詠唱し、瓶の口に微風を送り込む。 ふわりと舞い上がった紫煙は、生き物のように通気口へと吸い込まれ、建物の中へと消えていった。
「――カウント、スリー、ツー、ワン」
イリスが指を折る。 ゼロの瞬間、見張りの兵士がカクリと膝を折った音が、微かに聞こえた。
「開演だ」 イリスが裏口の鍵に触れる。 『解錠』。 カチャリという小さな音と共に、扉が開かれた。
建物の中は、異様なほど静かだった。 廊下には、屈強な警備員や白衣の神官たちが、糸の切れた操り人形のように床に転がっている。全員、幸せそうな顔で熟睡していた。 イリスの調合した「強制睡眠ガス」の効果は絶大だ。
「……へぇ。面白いくらい効いてやがる」 グレンが倒れている男の頬をペチペチと叩くが、男はピクリともしない。 「殺さなくていいのは楽でいいな。死体の片付けもしなくて済む」 「勘違いするな。殺さないのは慈悲じゃない。……明日、目が覚めた時に『全てを奪われた絶望』を味わわせるためだ」
イリスは冷淡に言い放ち、迷わず地下への階段を目指した。 彼女の魔眼は、地下深くに渦巻くどす黒い魔力反応を捉えている。
***
地下への重い鉄扉をくぐると、空気の味が変わった。 地上の清潔な薬品の匂いとは違う。鉄錆と、古い血、そして恐怖の臭い。
「……ここからはガスが届いてねぇな」 グレンが大剣を構え、声のトーンを落とす。 地下通路の先、広いホールのような空間に、数人の男たちが立っていた。 ガスマスクのような防具をつけた兵士たちと、祭壇の前で何やら儀式を行っている太った司祭だ。
「急げ! 上の連中からの連絡が途絶えた! 『荷物』を運び出すぞ!」 司祭が叫ぶ。 その背後には、巨大な鉄格子。中には、ボロ布を纏った痩せた子供たちが、恐怖に震えて身を寄せ合っていた。
「……見つけた」 イリスの瞳が、爬虫類のようにスッと細められた。 子供たちの姿を見た瞬間、胸の奥でどす黒い何かが弾けた。 かつての自分。 訳も分からず連れてこられ、檻に閉じ込められたあの日々の記憶。
「――グレン」 「おう」 「全員、半殺しだ。手足の一本や二本、くれてやれ」 「了解。……虐殺の時間だ!」
グレンが床を蹴った。 轟音。 石床が爆ぜ、黒い弾丸となったグレンが兵士たちの真ん中へ突っ込む。
「なっ、何者だ!?」 「こんばんは、死神代行だッ!!」
グレンの大剣が一閃される。 斬るのではない。 分厚い鉄の塊で「叩き潰す」。 兵士たちの剣や盾ごと、その身体がボールのように吹き飛び、壁に激突して動かなくなった。
「ひぃぃッ! 化け物……!」 司祭が腰を抜かし、懐から魔道具を取り出そうとする。
「させない」
イリスの声は、司祭の耳元で響いた。 いつの間にか背後に立っていたのだ。 冷たいナイフの切っ先が、司祭の首筋に当てられる。
「あ……」 「動くな。指一本でも動かせば、頸動脈を切り裂く」
イリスの美しくも冷酷な声。 司祭は凍りついたように静止した。 その隙に、グレンが残りの兵士たちを片付け終わる。所要時間、わずか三十秒。圧倒的な蹂躙劇だった。
「さて、豚野郎」 イリスは司祭を蹴り飛ばし、床に転がした。 「金庫の鍵と、檻の鍵を出せ」 「こ、断る……! 私は神に仕える身……!」
ドスッ。 イリスは無表情で、司祭の太ももにナイフを突き立てた。
「ぎゃああああああ!!」 「次は指だ。その次は耳。……全部失う前に出した方が、効率的だと思うが?」
イリスの瞳には、一切の躊躇いがなかった。 彼女にとって、子供を食い物にする連中は「人間」のカテゴリに入っていない。ただの処理すべき廃棄物だ。 恐怖に屈した司祭は、震える手で懐から鍵束を取り出し、差し出した。
「よろしい」 イリスは鍵を受け取ると、グレンに投げ渡した。 「グレン、金庫の中身を回収しろ。金貨の一枚も残すな」 「へいよ。……で、ガキ共はどうする?」
グレンが顎で鉄格子を指す。 檻の中の子供たちは、目の前で起きた暴力に怯え、小さくなっていた。自分たちを助けに来たのか、それとも新しい人買いなのか、判断がつかないのだ。
イリスは一度だけため息をつき、フードを少しだけ上げた。 聖女としての演技を入れる。 表情を和らげ、努めて優しげな声音を作る。
「……大丈夫よ。怖がらせてごめんなさい」 イリスは檻の前で膝をつき、鍵を開けた。 「悪い人たちは、このお兄さんがやっつけてくれたわ。……もう、お家へ帰れるわよ」
その声には、微量だが「安らぎ」の魔法が込められていた。 子供たちの強張った肩から力が抜ける。 一人の少女がおずおずと前に出てきた。 「……おねえちゃんは、だあれ?」
「私?」 イリスは少し考えて、ニヤリと――今度は演技ではない、悪戯っぽい笑みを浮かべた。
「ただの通りすがりの『泥棒』よ。……悪い奴らから、あなたたちを盗みに来たの」
***
一時間後。 『白銀の救済会』の裏口から、大量の袋を抱えたグレンが出てきた。 袋の中身は、裏金として貯め込まれていた大量の金貨と宝石。当面の活動資金としては十分すぎる額だ。
「子供たちは?」 イリスが尋ねる。 「路地裏から逃がした。……顔を隠して、それぞれ散らばるように言ったから、そう簡単には捕まらねぇだろうよ」 グレンが肩をすくめる。 「何人かは『連れてってくれ』って泣いてたがな」 「……連れて行けるわけがない。俺たちはこれから、世界を敵に回すんだ」
イリスは冷たく切り捨てたが、その手には一枚の紙片が握られていた。 それは、先ほどの少女が別れ際に押し付けてきた、飴玉の包み紙だった。 (……甘いな、俺も)
雨が上がり、雲間から月が覗く。 イリスは背後の建物を振り返った。 中では、まだ職員たちが眠り続けている。朝になれば、彼らは「子供と金が消えた」という事実に直面し、組織からの粛清に怯えることになるだろう。
「行くぞ、グレン。……夜明けまでには街を出る」 「ああ。懐も温まったし、最高の旅立ちだ」
二人は闇に紛れ、足早に立ち去った。 その背中には、少しだけ「正義の味方」っぽい充実感が漂っていたが、本人たちは「あくまで悪党の所業だ」と言い張るだろう。
だが、イリスは知らなかった。 逃がした子供たちの中に一人だけ、教会の本当の闇――「神の骸」の秘密を知る少年が混じっていたことを。 そして、その少年が、隣国の騎士団に保護され、やがてイリスたちを追う勢力の一端となることを。
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