第17話:異国の風と、甘くないディナー
国境を越え、隣国である軍事帝国ガルディアに入ると、空気の味が変わった。 聖教国特有の湿った重苦しさがない。雪はまだ残っているが、風はどこか乾いていて、活気に満ちている。
城塞都市バルド。 巨大な石壁に囲まれたこの街は、多くの商人と傭兵が行き交う熱気あふれる場所だった。
「……すげぇ人混みだな」 イリスはフードを目深に被りながら、雑踏の中を歩いていた。 隣を歩くグレンは、周囲の視線を集めている。背負った大剣と、隠しきれない強者のオーラ。そして何より、隣にいる「小柄な美女」との不釣り合いな組み合わせが目立つのだ。
「はぐれるなよ、イリス」 グレンが自然な動作で手を差し出してきた。
「……子供扱いするな」 イリスは憎まれ口を叩きつつも、その手を無視できなかった。人波に流されそうになっていたのは事実だ。 躊躇った末に、そっと手を伸ばす。 グレンの大きな掌が、イリスの手を包み込むように握った。
――ドクリ。
心臓が不快な音を立てた。 あの関所でのキス以来、グレンに触れられるたびに、身体の芯が粟立つような感覚に襲われる。 硬いタコのある手のひら。伝わってくる体温。力強さ。 そのすべてが、「お前は守られる側の存在だ」と身体に分からせてくるようで、イリスは無性に腹が立った。
(……なんだこれ。気持ち悪い) 男としてのプライドが傷つくのと同時に、胸の奥がキュッと締め付けられるような焦燥感。 イリスは握られた手から視線を逸らし、赤くなりそうな頬を隠した。
***
グレンが連れてきたのは、裏通りにある活気のある酒場だった。 肉の焼ける煙と、エールの香り。怒号と笑い声。 小綺麗なレストランではないが、今の二人にはこの喧騒が心地よかった。
「ここの串焼きは絶品なんだとよ。好きなだけ食え、俺の奢りだ」 グレンが上機嫌でメニューを指差す。 関所突破の「報酬」だ。
「……じゃあ、一番高いやつ全部」 「ハッ、遠慮がなくていいな!」
運ばれてきたのは、山盛りの羊肉の串焼きと、煮込み料理、そして焼き立てのパン。 二人は無言で食らいついた。 美味い。 雪山での熊肉も悪くなかったが、スパイスの効いた味付けは、生きる活力を呼び覚ます味だ。
「……ん」 イリスがパンをシチューに浸して食べていると、口の端にソースがついた。 自分では気づかずに食べていると、不意にグレンの手が伸びてきた。
「ついてるぞ」 グレンの親指が、イリスの唇の端を無造作に拭う。
「ッ……!?」 イリスは弾かれたように顔を上げた。 唇に触れた指の感触。 それが、昨日のキスの記憶を鮮烈にフラッシュバックさせた。髭のチクチクした感触、強引に塞がれた息苦しさ、熱い舌の動き。
「……な、何すんだよ」 イリスの声が上擦る。 動揺を隠そうと睨みつけるが、今の彼女の瞳は潤んでいて、威嚇になっていない。
「あ? 汚れてたから取っただけだろ」 グレンはキョトンとして、自分の指についたソースをぺろりと舐めた。 「……勿体ねぇしな」
その何気ない仕草が、決定打だった。 カアァッ……と、イリスの顔が一気に沸騰する。 無神経。デリカシー欠如。野蛮人。 罵倒の言葉はいくらでも浮かぶのに、喉が熱くて声が出ない。
(こいつ……俺を何だと思ってるんだ) ただの相棒? 弟分? それとも、昨日のあれで少しは「女」として見ているのか? いや、そもそも俺は男だ。グレンに男として見られたいわけじゃない。でも、女として扱われないのも腹が立つ。 矛盾した感情がぐるぐると渦巻き、イリスは混乱した。
「……おい、どうした? 顔が赤いぞ。酒回ったか?」 グレンが心配そうに顔を覗き込んでくる。 その距離が近い。男臭い匂いがする。
「……ち、違う!」 イリスはガタンと椅子を鳴らして立ち上がった。 「トイレだ! ……ちょっと冷やしてくる!」
「お、おう。迷子になるなよ」
イリスは逃げるように席を立ち、店の裏口へと向かった。 夜風に当たりたかった。 冷たい風で、このわけのわからない熱を冷まさないと、どうにかなりそうだった。
路地裏に出る。 石壁に背を預け、イリスは深く深呼吸を繰り返した。 心臓がまだ早鐘を打っている。
「……しっかりしろよ、俺」 自分の胸を拳で叩く。 「中身は三十路の男だぞ。あんな筋肉ダルマにドキドキしてどうする。……これは吊り橋効果だ。極限状態の錯覚だ」
そう言い聞かせる。 だが、唇に触れられた感触だけは、どうしても消えてくれなかった。 悔しいけれど、嫌じゃなかった。 むしろ、もっと触れられたいと思ってしまった自分が、確かにそこにいた。
「……最悪だ」
イリスが膝を抱えてしゃがみ込んだ、その時だった。
「おや、こんな所に可愛らしいお嬢さんが一人?」
不意に、軽薄な声が降ってきた。 顔を上げると、路地の入り口に数人の男たちが立っていた。 酒に酔った地元のチンピラか、あるいは傭兵崩れか。下卑た笑みを浮かべて、イリスを値踏みしている。
「連れとはぐれたのかい? よかったら俺たちが――」
「……失せろ」 イリスは低く冷たい声で遮った。 今は虫の居所が最悪だ。これ以上、男という生き物に関わりたくない。
「あぁ? 生意気な女だなぁ」 男の一人がイリスの腕を掴もうとした。
イリスの目つきが変わる。 魔法で吹き飛ばすか? いや、指を一本へし折れば十分か。 殺意を練り上げた瞬間。
ドガッ!!
鈍い音がして、男がゴミ袋のように吹き飛んだ。 路地の壁に激突し、白目を剥いて崩れ落ちる。
「……俺の連れに、気安く触ってんじゃねぇよ」
路地の入り口に、巨大な影が立っていた。 グレンだ。 手には食べかけの串焼きを持ったまま、けれどその瞳は、獲物を前にした猛獣のようにギラついている。
「グ、グレン……」 「トイレがなげぇから見に来てみれば……ハエがたかってやがったか」
グレンはイリスの前に立つと、残りの男たちを見下ろした。 殺気だけで、空気が重くなる。
「ひ、ひぃッ! す、すんません!」 男たちは仲間を引きずり、悲鳴を上げて逃げ去っていった。
再び訪れる静寂。 グレンは「ったく」と息を吐き、イリスに手を差し出した。
「大丈夫か? 怪我はねぇな」 「……助けなんて呼んでない。あんな雑魚、自分でやれた」 イリスはそっぽを向いて言った。 まただ。また守られた。 それが悔しくて、情けなくて、でもどうしようもなく嬉しくて。
「分かってるよ。お前なら殺してたもんな」 グレンは笑って、強引にイリスの手を取って立たせた。 「だが、俺の飯が不味くなる。……戻るぞ、冷めちまう」
握られた手。 その温もりに、イリスはもう抵抗できなかった。 ただ黙って、その大きな背中についていく。
(……いつか絶対、借りは返すからな) そう心の中で悪態をつきながら、イリスは指先を少しだけ強く握り返した。
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