第16話:鉄鎖の関所と、誓いの口づけ
国境の関所、『鉄鎖の門』。 黒鉄の巨大な門扉の前には、殺気立った空気が漂っていた。
「次! 荷台の中身を開けろ!」 「顔を見せろ。フードを取れ!」
異端審問官たちの怒号が響く。彼らは教会の「影」の実行部隊であり、その目は獲物を狙う鷹のように鋭い。 彼らが手にしているのは、不気味に赤く光る水晶玉――『魔力探知機』だ。
イリスたちの乗る馬車が、検問の列の先頭に来た。 御者台のグレンが、愛想笑いを浮かべて通行証(村長から貰ったもの)を差し出す。
「へへっ、お役目ご苦労様です。商人のグレイと、妻のマリアです」 「……商人?」
検問を担当していた審問官の隊長らしき男が、鉄仮面の奥から疑わしげな視線を向けた。 この男、ただ者ではない。グレンの鍛え上げられた肉体と、荷台から漂う微かな違和感を見逃していない。
「商人の護衛にしては、随分と血の臭いがするな」 「雪山で熊に襲われましてね。必死で撃退したんですよ」 「ほう。……中を改める」
隊長が顎でしゃくると、部下たちが荷台の幌を荒々しく捲り上げた。 そこには、毛布にくるまって震えているイリスの姿があった。 イリスは『認識阻害の香水』を撒いていたが、隊長クラスの魔力を持つ相手には、完全には効かない可能性がある。
「……女か」 隊長がイリスに近づく。 手にした赤い水晶玉が、ボンヤリと明滅した。 イリスは体内の魔力を極限まで抑え込んでいるが、聖女としての「器」の質までは消せない。
「顔を上げろ」 隊長の冷徹な声。 イリスは内心で舌打ちをしながら、おそるおそる顔を上げた。 演技プランB。『病弱で怯える妻』だ。
「……あ、あの……何か……?」 「銀髪か。……珍しいな」 隊長の目が細められた。 手配書にある「聖女イリス」の特徴は、銀髪に紫紺の瞳。イリスは瞳の色を魔術で少し茶色に変えているが、髪色は隠しきれていない。
「……おい、この女。手配書の特徴に似ているぞ」 隊長が部下に囁く。 周囲の審問官たちが、一斉に武器に手をかけた。 空気が凍りつく。
(……バレたか? いや、まだ確証はないはずだ) イリスは冷や汗を流しながら、袖の下に隠したナイフを握り込んだ。 ここで暴れるか? だが、こんな狭い場所で囲まれたら勝ち目はない。
「奥さん。……失礼だが、少し降りてきてもらおうか」 隊長がイリスの腕を掴もうとした、その時だ。
「おいおい、旦那方!」 グレンが御者台から飛び降り、イリスと隊長の間に割り込んだ。 「困りますよ! 俺の嫁は恥ずかしがり屋でね、男の人に免疫がねぇんだ。そんな寄ってたかって囲まれたら、怖がっちまう」
「退け。これは公務だ」 隊長は冷たく言い放つ。 「貴様の妻には、逃亡中の大罪人『聖女イリス』の容疑がかかっている。潔白だと言うなら、教会本部まで同行してもらう」
詰んだ。 同行されれば、詳細な身体検査で一発アウトだ。 イリスが「強行突破しかない」と覚悟を決めた瞬間。
「聖女? ……ハッ、馬鹿言っちゃいけねぇ!」 グレンが腹を抱えて笑い出したのだ。
「何がおかしい」 「いやいや、俺のマリアが『聖女』だって? あの清廉潔白で、男の手も知らねぇ聖女様と、こいつが?」 グレンはニヤリと笑うと、イリスの肩を乱暴に抱き寄せた。 「俺のマリアはなぁ、そんな高尚なタマじゃねぇよ。……夜になれば、俺に泣いてすがりついてくる、ただの可愛いメスだぜ?」
「なっ……!?」 イリスは驚愕してグレンを見上げた。 何を言い出すんだ、この筋肉ダルマは。
隊長もまた、不快そうに眉をひそめた。 「……下品な。言葉だけでなら何とでも言える」 「証拠が欲しいってか?」 グレンの瞳が、ギラリと怪しく光った。
「いいぜ。……おいマリア、見せつけてやれ」
言うが早いか、グレンの手がイリスの顎を掴み、強引に上を向かせた。 え? と思った時には、視界が塞がれていた。
――チュッ。
生ぬるい感触。 グレンの唇が、イリスの唇に重なっていた。 フリではない。ガッツリと、深く、押し付けられている。
「んぐっ!? ……んぁっ!?」 イリスの喉から、間の抜けた声が漏れる。 ファーストキスだった。 前世も含めて、三十年近い人生で初めてのキスが、まさか雪原の関所で、むさい男相手だなんて。
(ふざけ……離せ……ッ!) イリスはグレンの胸を叩くが、グレンは離さない。 それどころか、わざとらしく音を立てて唇を吸い、舌先でイリスの唇を割り開こうとしてくる。
「……ん、ぁ……ちゅ……」
衆人環視の中での、濃厚なディープキス。 審問官たちが、あっけに取られて口を開けている。 教会の教義において、聖女とは「純潔の象徴」だ。公衆の面前で、しかもこんな野卑な男と唾液を交換するなど、天地がひっくり返ってもあり得ない。 これ以上ない、「私は聖女ではありません」という証明。
「ぷはっ!」 数秒とも数分ともつかない時間の後、ようやくグレンが唇を離した。 銀の糸が、二人の間でツーと引かれる。 イリスは顔を真っ赤にして、酸素を求めて喘いでいた。演技ではない。酸欠と、あまりの恥ずかしさで頭が沸騰しているのだ。
「……どうです、旦那」 グレンは親指で唇を拭い、挑発的に隊長を見た。 「聖女様が、こんな尻軽な真似しますかね?」
隊長は、まるで汚いものを見るような目で二人を見た。 そして、吐き捨てるように言った。
「……失せろ。不浄な」
審問官たちは道を開けた。 聖女の疑いは晴れた。いや、「あんな恥知らずな女が聖女であるはずがない」という生理的な嫌悪感が勝ったのだ。
「へいへい、感謝しますよ!」
グレンは呆然とするイリスを荷台に放り込み、手綱を振るった。 馬車が関所を駆け抜ける。 背後で、重い鉄の扉が閉まる音がした。
***
関所を抜けてしばらく経った頃。 馬車の中は、お通夜のような静けさに包まれていた。
「……おい、イリス。怒ってんのか?」 御者台から、グレンが恐る恐る声をかける。
ドゴォッ!!
返事は言葉ではなく、荷台からの蹴りだった。 グレンの背中に強烈な一撃が入る。
「いってぇ! ……仕方なかっただろ! あれが一番手っ取り早かったんだよ!」 「……殺す」
荷台の奥から、地を這うような怨嗟の声が聞こえた。 イリスは顔を両手で覆い、膝を抱えて震えていた。 唇には、まだグレンの感触が残っている。 最悪だ。 髭が痛かったし、タバコの匂いがしたし、何より上手かったのが腹立たしい。
「ファーストキスだったんだぞ……!」 「あ? 男だろお前」 「身体は女なんだよ! ……この身体の記憶に、あんたの味が刻まれたんだぞ! 責任取れ!」
「はいはい。隣の国に着いたら、美味い飯でも奢ってやるよ」 「食い物で釣るな!」
イリスは袖で唇をゴシゴシと拭った。 だが、拭えば拭うほど、胸の鼓動がうるさくなる。 吊り橋効果か、それとも聖女としての本能か。 危機を脱した安堵と共に、イリスの中には「共犯者」以上の、名状しがたい感情が芽生え始めていた。
雪原の向こうに、隣国の平原が見えてきた。 地獄のような聖教国を、ついに脱出したのだ。 唇の熱さを雪風で冷ましながら、イリスは新たな大地を見据えた。
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