第12話:国境の宿場町と、偽りの新婚旅行
雪山を下りること二日。 吹雪の晴れ間に、ようやくその「灯り」は見えた。
国境近くの宿場町、ラッカ。 交易の中継地点として栄えるその村は、高い木の柵に囲まれ、煙突からは温かな煙が立ち上っていた。文明の光だ。 だが、二人の逃亡者にとっては、そこは安息の地ではなく「敵地」の入り口でもあった。
「……さて、どうする」
村を見下ろす丘の上で、グレンが顎をさすった。 熊の毛皮を羽織ったイリスと、大剣を背負ったグレン。どう見ても堅気ではない。 「俺たちの顔は、そろそろ手配書が出回ってる頃だぞ。正面から入れば、衛兵が飛んでくる」
「分かっている」 イリスは毛皮のフードを深く被り直し、溜息をついた。 「強行突破は避けたい。無駄な体力を使うし、何より『温かい食事とベッド』という目的が遠のく」 「で? 名案はあるのか、元聖女様」
イリスは少しの間沈黙し、やがて苦渋に満ちた表情で口を開いた。 「……変装する。そして、設定を作るぞ」 「設定?」 「ああ。俺たちは『雪山で遭難しかけた、訳ありの夫婦』だ」
ブフォッ、とグレンが吹き出した。 「ぶ……ふ、夫婦? 俺とお前がか? 美女と野獣にも程があるだろ」 「うるさい。兄妹にしては似てないし、主従だと怪しまれる。夫婦なら、多少の不自然さは『愛』で誤魔化せる」
イリスは真顔で力説したが、その耳は少し赤かった。 中身が三十路手前の男にとって、大男の「妻」を演じるなど、拷問以外の何物でもない。だが、背に腹は代えられないのだ。
「俺は足を挫いて弱っている『妻』を演じる。あんたは、そんな妻を心配する『旦那』だ。……いいか、絶対にボロを出すなよ」 「へいへい。腕の見せ所だな、ハニー?」 「……その呼び方、一回につき金貨一枚取るぞ」
***
村の入り口には、予想通り二名の衛兵が立っていた。 彼らは雪山から現れた不審な二人組に気づき、槍を構える。
「止まれ! 何者だ!」 「……頼む、助けてくれ!」
グレンが切羽詰まった声を上げた。 その背中には、ぐったりとした小柄な影――イリスが背負われている。
「商隊とはぐれちまったんだ! 嫁が、嫁が熱を出してて……このままじゃ死んじまう!」 グレンの迫真の演技。 普段の粗暴さはどこへやら、そこには妻の身を案じる必死な夫の姿があった。 イリスは顔を伏せたまま、震える声で囁いた。
「あぁ……あなた……ごめんなさい……私が、足手まといなばかりに……」 (……死にたい。なんだこの茶番は)
内心で毒づきながらも、イリスは「幻惑魔術」を微量だけ発動させていた。 衛兵たちの認識を少しだけずらす。 『怪しい二人組』から、『可哀想な夫婦』へと印象を操作するのだ。
「うぅ……寒い……」 「おい、しっかりしろ! すぐに医者に診せるからな!」
衛兵たちは顔を見合わせた。 熊の毛皮に包まれた少女の、チラリと見えた白く儚げな横顔。そして男の必死な形相。 彼らの警戒心が、哀れみへと変わる。
「……なんだ、遭難者か。今年は多いな」 「通行証は?」 「荷物ごと雪崩に持ってかれちまった! 金ならある、頼む、通してくれ!」
グレンが熊狩りで得た金貨を一枚、衛兵の手に握らせる。 衛兵は周囲を確認してから、咳払いをして門を開けた。
「……行っていいぞ。宿なら『赤鹿亭』が空いてるはずだ」 「恩に着る! 行くぞ、マリア!」 「はい……あなた……」
(マリアって誰だよ、その安直な偽名は) イリスはグレンの背中でツッコミを入れつつ、無事に村の中へと足を踏み入れた。
***
宿屋『赤鹿亭』。 暖炉の火が燃えるロビーは、地元の客たちで賑わっていた。 グレンとイリスは、一番奥のテーブルに陣取り、ようやく人心地ついた。 出されたのは熱々のシチューと黒パン。 雪山での熊肉も悪くなかったが、やはり文明の味は格別だった。
「……ふぅ。寿命が延びた」 イリスはスプーンを置き、温かいミルクティーを啜った。 フードは被ったままだが、店内が薄暗いため、銀髪や美貌が目立ちすぎることはない。
「名演技だったぜ、奥様」 グレンがエール(麦酒)の大ジョッキを干しながら、ニヤニヤと笑う。 「あの震え方、本物の病人みたいだったぞ」 「半分は演技じゃない。……本当に寒かったんだ」
イリスは不機嫌そうに答えたが、その視線は店内の「ある一点」に釘付けになっていた。 壁に貼られた、一枚の張り紙だ。
『祝! 二代目聖女アリア様、ご着任』 『神の奇跡! アリア様の祈りで、枯れた井戸から水が!』
極彩色のインクで刷られたそのポスターには、ピンク色の髪をした、愛らしい少女の似顔絵が描かれている。 キラキラとした瞳。フリル満載の聖衣。 かつてのイリスのような「神秘性」や「儚さ」はない。あるのは、底抜けに明るい「アイドル性」だ。
「……なんだありゃ」 グレンも気づき、顔をしかめる。 「お前の後釜か? 随分と安っぽい見た目だな」
「アリア……か」 イリスは呟いた。 胸の奥で、ドロリとした感情が渦巻く。 自分が命を削って維持していたこの国の平和を、あんなお花畑のような小娘が、我が物顔で享受している。 その事実に、強烈な嫉妬と、そして「哀れみ」を感じた。
(……笑ってられるのも今のうちだぞ、お嬢ちゃん)
その時、隣の席の男たちが話している声が聞こえてきた。
「いやぁ、今度の聖女様はすごいぞ。村に来てくれた時なんて、全員に手作りクッキーを配ってくれたんだ」 「気さくな方だよなぁ。前の聖女イリスは、なんだか近寄りがたくて陰気だったもんな」 「違げぇねぇ! やっぱり魔女だったんだよ、あいつは!」
ガシャン。 イリスの手の中で、カップが音を立ててソーサーにぶつかった。
「……おい、落ち着け」 グレンがテーブルの下で、イリスの足を軽く蹴る。 イリスは深呼吸をして、湧き上がる殺意を抑え込んだ。
「……分かっている。ここで暴れたら元の木阿弥だ」 「そうだ。それに、いい情報じゃねぇか」 グレンは声を潜め、ポスターを指差した。 「『二代目』はこの近くを巡行中ってことだ。……会えるかもしれねぇな?」
イリスの瞳が、剣呑な光を帯びた。 遭遇のチャンス。 もし会えば、どうする? 殺すか? それとも……。
「お客様、お部屋の準備ができましたよ」
宿の女主人が声をかけてきた。 イリスは思考を中断し、立ち上がる。 「ありがとうございます。……部屋は?」 「もちろん、一番景色のいいダブルルームをご用意しましたよ。新婚さんだもの、熱い夜を過ごしたいでしょう?」
女主人がウインクをする。 イリスとグレンは顔を見合わせ、同時に凍りついた。
(……ダブルルーム) (……ベッドは一つ)
夫婦と偽った代償は、予想以上に高かった。 イリスは引きつった笑顔で「あ、ありがとうございます」と答えるのが精一杯だった。
宿場町の夜。 二代目聖女の影と、一つ屋根の下の気まずさが、二人の逃亡者を待ち受けていた。
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