第11話:白銀の獣と、黒い晩餐会
翌朝。 イリスが目を覚ますと、そこはすでに「独り」だった。 背中を温めていた巨大な熱源――グレンの姿がない。 イグルーの入り口から冷たい風が吹き込み、その隙間から鈍色の空が見えた。
「……あいつ、どこ行った?」
イリスは寝ぼけ眼をこすりながら、這い出すように外へ出た。 吹雪は止んでいる。 視界が開け、一面の銀世界が広がっていた。その静寂を破るように、少し離れた雪原からドスッ、ガシッという重い衝突音が響いてくる。
「――らぁッ!!」
野獣のような咆哮。 イリスが音の方へ走ると、そこには目を疑う光景があった。
グレンが、素手で戦っていた。 相手は体長三メートルはあろうかという巨大な白熊――極北の魔獣『フロストベア』だ。その剛腕は岩をも砕き、鋭い牙は鋼鉄を噛み千切る。 だが、グレンはその熊の首をヘッドロックで締め上げ、雪の中にねじ伏せていたのだ。
「お、おい! 何やってんだ!」 「おう、起きたかイリス!」 グレンは熊の暴れる腕を回避しながら、爽やかに笑いかけた。顔には引っかき傷ができ、血が流れているが、本人は至って楽しそうだ。 「朝飯だ! だがコイツ、思ったより活きが良くてな。剣を使うと肉がミンチになっちまうから、絞め落とそうとしてるんだが……」
グオオオオッ!! 熊が咆哮し、凄まじい力でグレンを振り払った。 グレンの巨体が軽々と宙を舞い、雪山に突っ込む。 熊は血走った目で、今度はイリスの方を向いた。新たな獲物(か弱い少女)を見つけ、涎を垂らす。
「……チッ」 イリスは舌打ちした。 寝起きで、空腹で、低血圧だ。 そこにこの獣臭い息。イライラが頂点に達する。
「グレン! 肉を傷つけなきゃいいんだな?」 「ああ! 内臓と毛皮は高く売れるからな、できるだけ綺麗に頼む!」 雪山から這い出したグレンが叫ぶ。
「注文の多い客だ。……いいぜ、三秒で終わらせる」
イリスは右手を掲げた。 聖女の加護魔法? そんな生温いものは使わない。 イリスが展開したのは、相手の神経系に干渉する、極小かつ凶悪な「呪い」の術式だ。
「――『感覚遮断』」
指先から放たれた黒い閃光が、熊の眉間に吸い込まれる。 外傷はない。 だが次の瞬間、突進してこようとした熊の動きが、糸の切れた人形のようにガクンと停止した。 視覚、聴覚、嗅覚。全ての外部入力を強制的にシャットダウンされたのだ。
「グル……?」 熊は暗闇の中でパニックに陥り、その場で爪を振り回すことしかできない。
「今だ、グレン! 心臓を一突きにしろ!」 「へっ、エグい魔法使いやがる!」
グレンが跳んだ。 雪煙を上げ、黒い流星となって熊の懐に潜り込む。 手にはいつの間にか抜いたナイフ。 大剣ではない。肉を傷めないための、最小限の武器。
「いただきまーすッ!!」
グレンのナイフが、熊の左胸――肋骨の隙間を縫って、心臓へと深々と突き刺さった。 正確無比な一撃。 熊は断末魔を上げることもなく、巨大な体躯をゆっくりと雪原に沈めた。
ズゥゥン……。 地響きと共に、静寂が戻る。
「……ふぅ」 グレンが熊の死体からナイフを抜き、血を振るった。 「上出来だ。毛皮一枚傷つけずに仕留めたぞ」 「俺のサポートのおかげだな。感謝しろ」 イリスが腕組みをして近づくと、グレンはニカっと笑い、血まみれの手でイリスの頭を乱暴に撫でた。
「ああ、助かったぜ相棒。お前のその性格の悪い魔法、狩りには最高だ」 「……髪が汚れる。やめろ」
イリスは嫌そうな顔をしたが、抵抗はしなかった。 目の前にある、山のような「肉」に目を奪われていたからだ。
***
そこからは、解体ショーの時間だった。 グレンの手際は職人のようだった。ナイフ一本で皮を剥ぎ、内臓を分け、食べられる肉を切り出していく。 イリスも、魔法で雪を溶かして水を作り、血を洗い流す作業を手伝う。
そして一時間後。 焚き火の上には、熊肉のステーキがジュウジュウと音を立てていた。 香ばしい脂の匂いが、鼻腔をくすぐる。 ただ焼いただけ。味付けは岩塩のみ。 だが、二日にわたって絶食状態だった二人にとっては、どんな王宮料理よりも芳醇な香りだった。
「……食うぞ」 「……おう」
合図などいらない。 二人は同時に肉に齧り付いた。 溢れ出す肉汁。噛みごたえのある赤身。噛むほどに広がる野生の旨味。
「ん……ッ!」 イリスの口から、吐息のような声が漏れた。 美味い。 涙が出るほど美味い。 脳髄に直接響くような、生命の味だ。
「ははっ、いい食いっぷりだ」 グレンもまた、骨付き肉を豪快に食いちぎりながら笑った。 「生き返るな。やっぱり人間、肉を食わなきゃ力が出ねぇ」 「……否定はしない」
イリスは口の周りを脂で汚しながら、夢中で肉を咀嚼した。 上品なマナーなど知ったことか。今はただ、胃袋を満たすことが最優先だ。
「しかし、お前」 グレンが肉を飲み込み、不意に真面目な顔をした。 「さっきの魔法……『感覚遮断』か? あれは聖女が使うもんじゃねぇな」 「……ああ。本来は、痛みを和らげるための緩和ケア用魔法だ。術式を反転させて、感覚そのものを殺す呪いに書き換えた」
イリスは串に残った肉片を舐めとりながら答えた。 「効率的だろう? 暴れられると厄介だし」 「全くな。敵に回したくねぇタイプだ」
グレンは苦笑したが、その瞳には明確な「信頼」の色が宿っていた。 こいつは使える。 ただ守られるだけの姫様じゃない。背中を預けるに足る、凶悪な牙を持った共犯者だ。
「食ったら出発だ」 イリスは立ち上がり、満腹になった腹をさすった。 「この毛皮と余った肉を、次の村で金に換える。……まともな服と、風呂が欲しい」 「了解だ、ボス。……おっと、その前に」
グレンは剥ぎ取ったばかりの熊の毛皮を、無造作にイリスに放り投げた。 ドサッ。 重い毛皮がイリスを押し潰す。
「なっ……臭い! 重い!」 「我慢しろ。その薄着じゃ、次の村まで持たねぇぞ。……熊の呪い付きコートだ、ありがたく着てろ」 「……チッ」
イリスは悪態をつきながらも、その毛皮を身体に巻き付けた。 血生臭いが、驚くほど暖かい。 野生の熊の生命力を纏っているようだ。
「似合ってるぜ、野蛮人の姫様」 「うるさい。行くぞ」
真っ白な毛皮に埋もれた銀髪の少女と、巨大な剣を背負った男。 奇妙な二人組は、腹を満たし、新たな活力を得て雪原を歩き出した。
その背中を、遠くから見つめる「監視者」の存在には、まだ気づいていなかった。
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