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TS聖女の皮を被った怪物は、処刑台で愛を嘲笑う。~俺を殺そうとした世界だから、救う義理など微塵もない~  作者: かげるい


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第1話:断頭台の雪解け(前編)

石造りの独房は、季節を忘れるほどに冷え切っていた。  僅かな隙間風が運んでくるのは、かびと錆の臭い、そして遠くから響く、獣の咆哮のような群衆の声だ。


 イリスは、鎖に繋がれた両手を見つめた。  暗がりの中でも白磁のように浮かび上がる、細く華奢な手首。かつては万年筆を握り、キーボードを叩いていたはずの武骨な指は、今はもう見る影もない。折れそうなほど繊細な指先は、爪の先まで磨き上げられているが、その薄い皮膚の下にはどす黒い鬱屈が脈打っていた。


(……ああ、寒い。寒くてたまらない)


 身体の芯から震えが来る。それは気温のせいだけではない。この「聖女」というからだに無理やり押し込められた魂が、異物としての拒絶反応を上げているのだ。  イリス――それが今の名前だ。  元は日本のどこにでもいる、三十路手前の会社員だった男。それが今や、銀髪に紫紺の瞳を持つ、齢十七の美少女である。


 壁に背を預け、イリスは乾いた唇を歪めた。  嘲笑わらおうとしたのだが、喉から漏れたのは鈴を転がすような、愛らしい吐息だけだった。その事実がまた、イリスの神経を逆撫でする。


「……おい、魔女。出番だぞ」


 重厚な鉄扉が軋んだ音を立てて開き、衛兵たちが姿を現した。  彼らの目は、かつてイリスに向けられていた崇拝の色を失っていた。あるのは侮蔑と、得体の知れないモノを見るような恐怖、そして加虐的な愉悦だけだ。  一人の衛兵が、イリスの銀髪を乱暴に掴み上げる。  頭皮が引きつる痛みに、イリスは小さく呻いた。


「立て。今日がお前の最期だ。ありがたく思えよ、国中の人間が貴様の死を見送ってくれるんだからな」 「……ふふ」 「あ? 何がおかしい」 「いいえ……。光栄ですわ、とお礼を言おうとしただけですの」


 イリスは完璧な「聖女」の声音で囁いた。その響きは、汚れた牢獄にはあまりに不似合いなほど清らかで、衛兵たちは一瞬だけ毒気を抜かれたようにたじろいだ。  だが、すぐに忌々しげに鼻を鳴らし、イリスの背中を蹴り飛ばした。  石床に膝をつく。ドレスの膝小僧が擦り切れ、白い肌に血が滲む。


(痛いな。……だが、それもあと数時間の辛抱だ)


 イリスは心の中で毒づきながら、よろめくように立ち上がった。  この国、聖教国エリュシオンにおいて、「聖女」とは崇拝の対象であり、同時に「生体部品」でもあった。  異世界から召喚された魂を、魔術的に調整された肉体に定着させ、その強大な魔力を吸い上げることで、極寒の地に結界を維持する。それがこの国の生存戦略だ。  イリスは三年間、その役割を全うした。  自由を奪われ、尊厳を踏みにじられ、男としての自我を否定され続けながら、それでも「生きるため」に従順なふりをしてきた。  だが、限界は来る。魂の摩耗により魔力供給量が低下した瞬間、聖教会はイリスを「偽の聖女」「国を欺いた魔女」として断罪することを決めた。  使い潰した電池を廃棄するのと、何ら変わらない。


 ――ガチャリ、ガチャリ。  足枷を引きずりながら、イリスは長い回廊を歩かされる。  螺旋階段を上るにつれ、外の光が強くなり、それに比例して「音」の圧力が強まっていく。


「殺せ! 聖女を殺せ!」 「俺たちの冬を返せ! 魔女め!」 「神の裁きを!」


 扉が開かれた瞬間、イリスの鼓膜を叩いたのは、殺意の暴風だった。  空は鉛色に閉ざされ、灰のような雪が吹き荒れている。  中央広場を埋め尽くすのは、数万の群衆だった。老人も、子供も、女も男も、誰もが目を血走らせ、口角から泡を飛ばして叫んでいる。彼らが握りしめているのは、かつてイリスを称えるために振られた手旗ではなく、石ころや腐った野菜だった。


(……壮観だな、こりゃ)


 イリスは眩しさに目を細めた。  真っ白な雪景色と、黒々とした群衆のコントラスト。その中心にある処刑台へと続く道は、まるで悪夢の中の花道のようだ。  飛んできた石が、イリスの額に当たった。  鈍い衝撃と共に、熱い液体が頬を伝う。銀の髪が赤く染まるのを見て、群衆の興奮は最高潮に達した。


「見ろ! 魔女の血だ!」 「汚らわしい!」


 汚らわしい? ふざけるな。  お前たちが毎日安穏と暮らせていたのは、誰が血を啜られるような思いで結界を張っていたからだと思っている。  暖炉の火も、食卓のパンも、子供たちの笑顔も。  すべて、俺という「生贄」の上で成り立っていた砂上の楼閣だというのに。


 イリスの胸の奥底で、冷たく重い塊がとぷりと沈んだ。  それは悲しみではなかった。  もっと黒く、もっと粘着質な、純粋培養された憎悪だった。


(なぁ、神様とやら。もしあんたが本当にいるなら、教えてくれよ)  イリスは処刑台への階段を一歩ずつ、踏みしめるように上っていく。  その一歩ごとに、かつて抱いた希望が、良心が、人間性が剥がれ落ちていくのを感じた。


(俺が何をした? 真面目に生きてきただけだ。誰かを傷つけたこともない。税金だって払ってたし、席だって譲ったさ。それなのに、なんでこんな、訳の分からない世界で、女の身体に押し込められて、石を投げられなきゃならないんだ?)


 理不尽。  その一言で片づけるには、あまりにも受けた傷が深すぎた。  だから、イリスは決めたのだ。  処刑台の頂上、断頭台の前で足を止めたイリスは、眼下に広がる群衆を見下ろした。  風が吹き抜け、銀髪がふわりと舞い上がる。額から流れる血すらも、その美貌を引き立てる化粧のように見えたことだろう。一瞬、広場の喧騒が凪いだ。その「美しさ」という暴力的なまでの説得力に、人々が息を呑んだからだ。


 イリスは、微笑んだ。  聖女としての慈愛の仮面を被ったまま、その内側で、男の魂が醜悪に舌なめずりをする。


(全員、道連れだ)


 イリスの身体には、三年間溜め込まれた「呪い」が圧縮されている。  聖女の魔力とは、本来、負の感情を濾過して生み出されるものだ。教会はその濾過装置フィルターとしての役割をイリスに強いたが、彼らは一つ誤算をしていた。  イリスは、フィルターに詰まった「穢れ」を、一度も外に排出していなかったのだ。  首が落ち、生命活動が停止した瞬間、イリスの肉体は魔力崩壊メルトダウンを起こす。  計算上、この王都エリュシオンは地図から消滅するはずだ。


「さあ、跪け」


 処刑執行人が、巨大な戦斧を担いでイリスの背後に立った。  黒いフードを被った巨漢だ。その目もまた、仕事としての無機質さの中に、嗜虐的な光を宿している。  イリスは従順に、断頭台のくぼみに首を差し出した。  冷たい木と鉄の感触が、首筋に触れる。視界が反転し、雪の降る空と、それをあざ笑うような教会の尖塔が見えた。


 雪が、降り積もる。  音のない世界。  心臓の鼓動だけが、うるさいほどに耳元で鳴り響いている。  これで終わる。やっと、この悪夢から覚めることができる。  死ぬことは怖くない。むしろ、この世界に一矢報いることができるなら、それは最高のエンターテインメントだ。


「魔女イリス。最期に言い残すことはあるか」  執行人の事務的な問いかけに、イリスは口を開きかけた。  『地獄で待ってる』と、そう吐き捨てようとした時だ。


 ――ドォン!!


 腹に響くような重低音が、広場の空気を震わせた。  遠雷ではない。何かが、物理的に破壊された音だ。  群衆がざわめき始める。 「なんだ?」 「爆発か?」


 ――ズガガガガガッ!  続いて、何かが石畳を削りながら、猛烈な勢いでこちらへ接近してくる音が響く。  悲鳴が上がった。  群衆が波のように割れる。いや、弾き飛ばされている。  処刑台の上から、イリスはその「黒い凶弾」を見た。


 それは、人だった。  巨大な鉄塊のような剣を軽々と振り回し、武装した騎士たちを紙屑のように吹き飛ばしながら、一直線に処刑台へと突き進んでくる、一人の男。


「……は?」


 イリスの口から、聖女らしからぬ間抜けな声が漏れた。  予定にない。あんな乱入者は、私の完璧な復讐計画シナリオには存在しないはずだ。


 男は、全身を黒い拘束衣のようなボロ布で包んでいた。  だが、その隙間から覗く瞳だけは、この雪の中で燃える熾火おきびのように、ぎらぎらと赤く輝いている。  処刑台を取り囲む衛兵たちが、槍を構えて立ちはだかる。 「止まれ! 何奴だ!」 「そこを退け、雑魚ども。……俺は今、猛烈に機嫌が悪いんだよ」


 男の声は低く、地を這うようだった。  次の瞬間、横なぎに振られた大剣が、衛兵たちの槍を、鎧ごと粉砕した。  血飛沫ではなく、衝撃波が雪を吹き飛ばす。


(……嘘だろ)  イリスは目を丸くした。  あれは、人間ではない。少なくとも、常人の身体能力ではない。  男は処刑台の階段を一段飛ばしで駆け上がり、呆気にとられる執行人の前に躍り出た。  そして、イリスの首を落とすはずだった戦斧を、素手で――鋼鉄の篭手ガントレットを嵌めた左手で、ガシィッと受け止めたのだ。


「よォ、処刑人。その刃毀はこぼれした斧じゃ、薪も割れねぇぞ」


 ニヤリと。  男が獰猛に笑った瞬間、執行人の巨体がボールのように蹴り飛ばされた。

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