勝利と別れ
雪原の最奥。
そこは、すでに「白の大地」ではなかった。
黒。
地も、空も、吐く息さえも黒に塗りつぶされ、ただ残滓だけが支配する領域に変貌していた。
風は凍りつき、氷が裂け、遠くの山々は影の幕に覆われて形を失っている。
「っく……!」
俺は剣を振るい、迫る黒の腕を切り裂いた。
しかし切り口はすぐにじゅうじゅうと音を立てて再生し、別の形に変じる。
狼の頭、竜の爪、人の口。刻一刻と姿を変えながら、幾重にも迫ってくる。
「全然……効かない!」
リリアの矢が矢継ぎ早に放たれる。
風を裂く鋭い音が響き、矢は確かに残滓の体を射抜いた。
けれどもそれすらも、黒の霧に飲まれて穴を塞がれる。
「どれだけ削いでも、終わらない……!」
セラフィナが呻く。
剣を閃かせ、炎のような光をまとって斬り裂く。
だがその一撃でさえ、影を完全には断ち切れない。
ミュリエルは震える手で祈りを続けていた。
「……《聖環》!」
眩い光が仲間を包み、辛うじて立ち続ける力を与える。
だが彼女の額からは絶え間なく汗が流れ、膝は小鹿のように震えていた。
◇
圧倒的な再生。
まるで「勝利」という概念そのものを否定するかのような敵。
兵たちの中にも、動揺が広がり始めていた。
「な、なんで倒れない……!」
「こんなの、化け物どころじゃ——」
そのざわめきを切り裂くように、高司祭オルソスの声が響いた。
「——勇者よ! まだ気づかぬか!」
振り返ると、彼は雪原の中央で残滓の影にすがるように立っていた。
灰色の瞳は狂気に濡れ、声は笑いと涙で震えている。
「陛下はとうに死んでいる!」
その言葉は、雪原全体を凍りつかせた。
矢を番えたリリアの手が止まり、セラフィナの剣先が一瞬揺れる。
ミュリエルの祈りの声も途切れ、彼女は絶句して杖を抱きしめた。
「なに……を?」
俺も、言葉を失った。
オルソスは天を仰ぎ、笑いと泣き声をないまぜにして叫ぶ。
「これは死に際に残した怨念と呪いが器をまとっただけ!
血も、肉も、魂すらも残ってはおらぬ!
——だがそれこそ陛下の御業!」
残滓が咆哮した。
それはまるでオルソスの言葉に呼応するかのように、幾千もの声が重なった叫びだった。
空気が震え、雪が宙に舞い、兵たちが耳を塞いで崩れ落ちる。
「我らが陛下は死してなお世界を縛り、勇者を滅ぼす!」
オルソスの声が、影の咆哮を突き抜けて響いた。
「死を超えて、呪いとなりて! 勇者を呑み尽くす!」
◇
仲間たちは愕然としていた。
絶望の重みが、戦意を圧し潰すかのようにのしかかってくる。
「そんな……じゃあ私たちは……ずっと影と戦ってただけなの……?」
リリアが矢を取り落とした。
「本体は……とっくに死んでいる……? なら、私たちの剣は何を斬っていた……?」
セラフィナが唇を噛みしめ、血を滲ませた。
「……こんなの、勝てるはずがない……」
ミュリエルの杖が、雪の上にがくりと落ちた。
兵たちのざわめきが広がり、雪原の光景は完全に呑まれようとしていた。
——だが。
俺はそのとき、不思議と胸の奥に“光”を見た。
(……そうか)
俺は剣を握り直し、一歩前に出た。
仲間たちが驚いて振り返る。
「魔王はもういない」
その言葉は、自分でも驚くほど澄んでいた。
「残っているのは呪いだけだ。なら、それを断ち切ればいい」
リリアがはっと目を見開く。
セラフィナが驚愕から怒りに変わり、剣を強く握った。
ミュリエルの瞳に再び光が宿る。
「勇者じゃなくてもいい。俺はただ……仲間と共に、この呪いを打ち払う!」
◇
「皆——力を貸せ!」
「もちろんだよ!」
リリアが再び弓を構える。
「斬ってみせる!」
セラフィナの声が烈風に轟いた。
「私、信じて祈ります!」
ミュリエルが杖を高く掲げ、光を放った。
祈りの光が雪原を走り、残滓の身体に絡む鎖のような線を浮かび上がらせる。
黒い霧の中に無数の鎖がうごめき、残滓を縛っているのが見えた。
「これが……呪いの鎖!」
ミュリエルが叫ぶ。
「なら、断つのみ!」
セラフィナが剣を振り下ろした。
轟音と共に、鎖が火花を散らして弾け飛ぶ。
「核は——あそこ!」
リリアの矢が光を帯び、狙い澄ました一射が黒の中心を貫いた。
影の身体がよろめき、霧が揺らいだ。
「アレン!」
三人の声が重なった。
「——ああ!」
俺は全身の力を剣に込めた。
胸の勇者の証がまばゆい光を放ち、刃が白銀に輝く。
「終われぇぇぇぇっ!!」
振り下ろした剣が、黒の核を真っ二つに断ち割った。
◇
閃光。
残滓は、抵抗の叫びもなく霧散した。
雪原に重くのしかかっていた黒が一気に剥がれ落ち、空に朝の光が差し込む。
風が戻り、氷が音を立て、雪が白へと還っていく。
「……消えた、のか……?」
リリアが呆然と呟いた。
「終わった……のか……?」
セラフィナも剣を下ろす。
「うう……ううぅ……」
ミュリエルは涙を流し、杖にしがみついていた。
俺は静かに剣を下ろし、深く息を吐いた。
呪いの重圧が、胸からすべて取り払われていた。
「……魔王は、すでに死んでいた」
雪原を見渡しながら、俺は呟く。
「だがその影を打ち破るのは……俺たち自身だった」
仲間たちが、涙の笑みで頷いた。
兵たちも次々と歓声を上げ、空へ剣を掲げた。
雪原に、ようやく静けさと光が戻ったのだった。




