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最終決戦、開幕

 夜と朝のあいだ——薄藍の空が雪原を洗い、凍った湖の面がゆっくり息をしていた。氷はきしみ、遠くで低く鳴る。白い平面に、風が一筋の線を引くたび、吐く息が吸いこまれていくような静けさだった。


 俺たちは湖岸の小高い丘に陣を取った。靴底にはミュリエルが徹夜で編んでくれた網を縛り、手には革の手袋。弓弦を確かめるリリアは、風の層の変わり目を目で追い、セラフィナは刃に薄く油を差し、鞘を半分だけ開け閉めして感触を馴染ませている。ミュリエルは《警めのウォード・リング》を地に描きながら、指先で結界の境界を撫でた。


 背後の尾根には、王家の紋章を掲げた騎士団の旗列。副長レオナルトの号令で、槍兵が二列、弓兵がその後ろに広がる。鎧の継ぎ目で霜がきらりと光った。


「風は、北から南。矢は右へ流れる。二つ分、修正して撃つわ」

 リリアが呟くと、セラフィナが短く返す。「氷は薄い箇所がある。踏み抜けば即死だ。足取りは“滑らせて止める”」


 俺は頷き、ミュリエルの肩を軽く叩いた。「網、助かる。お前の手は、本当に強い」

「大丈夫、きっと大丈夫です……」彼女は小さく深呼吸し、笑ってみせた。


 そのとき——凍湖の中央に、黒い点が灯った。


 墨を落としたような、しかし水に滲まない黒。点はわずかに震え、周囲の白を飲み込みながら膨らんでいく。風が止まり、朝の光が黒の縁で歪む。騎士たちの列に、ざわりと緊張が走った。


 黒は霧になった。霧は立ち昇り、巻き、絡みあう。やがて、人の形の縁をなぞり、内側を塗りつぶしていく。肩幅、腕、指先。角のように見える影が頭上に立ち、外套の裾が風もないのにひるがえる。


 俺の心臓が、古い痛みを思い出したように跳ねた。


「……嘘、でしょ」

 リリアの声が細くなる。「まさか、本当に——」


 セラフィナは目を細め、半歩だけ前に出た。「違和感は、ある。だが……見かけだけなら、あの日の“魔王”だ」


 ミュリエルの杖が震えた。「お姉ちゃん……」


 霧で出来た男が、顔を上げる。空洞の中で火がゆらりと灯るように、紅い光が瞳の位置に二つ燃えた。口元は笑っていた。覚えている。喉の奥から兵が崩れるような笑いだ。俺は無意識に剣の柄を握り締める。


 黒い人影の足下に、杖を持った細身の影が寄り添った。灰の瞳、薄い唇——高司祭オルソスだ。彼は氷上に指で紋を描き、声を高くした。


「見よ。——陛下の意志こころは滅びぬ」


 騎士団の列がどよめく。誰かが「復活だ」と叫んだが、オルソスは続ける。「この器こそ、我らが陛下の御業みわざ残滓のこりの息が形を持ち、いま再び——」


 復活、と言わない。彼は言葉を選んでいた。意志、残滓、器。俺の背筋に、小さな違和感がひっかかる。だが黒の圧が、考えの余地を削っていく。息が浅くなる。胸の奥で、乙身封呪の針が冷たく擦れた。


「陣、崩すな」

 レオナルトの号令が尾根に響き、槍の列が膝をわずかに折って耐える姿勢を取る。騎士の誰かの喉がごくりと鳴った音まで、やけに明瞭に聞こえる静けさだった。


 オルソスが腕を広げると、氷の面に黒い線がぱきぱきと走った。裂け目ではない。影の文字——魔紋が刻まれていく。黒い霜のようなものが紋をなぞり、湖面の白がじわじわと黒に染まる。色が塗られているわけではないのに、光そのものが吸い込まれていく。


「結界、広げます!」

 ミュリエルが立ち上がり、杖を高く掲げた。白金の輪が俺たちの周囲に花開く。触れた黒が、ぱちぱちと火花を散らして弾かれた。


「右から回り込む影、三」

 セラフィナが低く告げる。氷上に、黒い獣影が三つ、すべるように滑ってくる。足音はない。爪が氷を掴む感触だけが、空間のどこかで鳴っている。


「——外側は私が払う。リリア、矢で目印を」

「了解!」


 リリアの矢が空気を裂いた。彼女は風の層を読み、横風に矢を乗せるようにして放つ。矢羽根が黒の縁に触れるたび、白い火花が散った。目印の矢羽根が氷に立ち、セラフィナはそこを基準に滑る。氷上の剣は、踏んで止めて、斬って、滑らせて止める。彼女の脚は滑り、上体だけが止まっているように見えた。


 獣影が跳ぶ。セラフィナの刃がそれを裂く。中身は霧だ。だが、斬れば痛む。獣影が細かい破片に砕け、黒い粉が風に巻かれて消える。


 俺も一歩、氷に乗った。網の感触が足裏に食いつき、体重の移動が地面に伝わる。女の身体は重心が低く、氷の上では有利に働く。左足で滑り、右足で止める。剣をあげる。黒の縁が、吸い込もうと手招きしてきた。踏み込み、縁を断つ。手応えは空気よりわずかに重い程度。それでも、切り口に白が戻る。


「お姉ちゃん——!」ミュリエルの声。「囲まれないで!」


 わかっている。俺は黒の縁に沿って移動し、陣から離れすぎない距離で斬り続けた。氷が鳴り、どこかで誰かの叫び声が上がる。振り返ると、尾根の槍列の一角が、味方の影を敵と誤認したのか、突きが味方の盾に滑っていた。黒い霧が視界を歪ませている。錯視だ。混乱がうねり始める。


「レオナルト!」俺は叫ぶ。「列に“音”の合図を——目じゃなく耳で揃えさせろ!」

 副長は即座に頷き、角笛を取った。三度、二度、一度。短く規則的な音が雪原に打たれ、槍兵たちが呼吸を合わせる。音が縫った秩序が、黒の錯視を押し戻した。


 オルソスの口元がわずかに歪む。「賢い。だが——」


 黒の人影が動いた。足音はない。氷も沈まない。影が進むところだけが、夜になっていく。太陽がそこだけ隠れているのではない。光が逃げている。俺は、違和感の芯に触れた気がした。(重みが、ない。氷の上に“立っていない”)だが、その思考に黒の波が水をかける。胸の針がじり、と鳴り、内側から力が削られていく感覚。乙身封呪が、使命の近さに反応している。


「アレン、下がれ!」セラフィナの声。「削られるぞ!」


 反射的に退き、結界の内へ戻る。ミュリエルが杖で俺の胸の前をなぞった。白金の膜が一瞬厚くなり、内側で針の痛みが和らぐ。「ごめんなさい、保てる時間は長くない……!」


「十分だ」俺は息を整え、視線を黒の“魔王”へと戻した。


 人影の顔がこちらを向く。紅い光が、俺だけを見ている。口が開いた。声は、雪原の底から湧くように低かった。


『——勇者』


 耳で聞いたのか、骨で聞いたのか分からない声。俺は唇をきっちり結んだ。返事をしたら、名前を吸われる気がして。


『返せ』


 影の口が、形で語る。何を、とは言わない。だが俺にはわかった。勇者の名。勇者の力。俺の“鍵”。黒い霧の内側で、何かが軋んでいる音がする。オルソスが嬉しそうに首を傾げた。


「陛下の御意志は明白だ。器を割り、鍵を露わに——世界を新しい形に。勇者、定めに抗う術はない」


「定めってやつは、だいたい力のある奴が後から名前をつけるものだ」俺は剣を持ち直した。「俺は——違う名前で呼ぶ。これは“呪い”だ。呪いは、断ち切る」


 オルソスの笑みが薄れていく。灰の瞳が、ほんのわずかに狭まった。「ならば、抗え。君の器が裂ける音を、間近で聴こう」


 黒の人影が、深く息を吸った。空気が後ろへ引かれる。雪が、風下へ細かく滑りだす。光が集められ、凍湖の中央に夜が凝り固まっていく。湖面に刻まれた魔紋が一斉に光り、影がそれを飲む。


「リリア——」

「もう狙ってる!」


 リリアの矢が連射され、影の胸に吸い込まれて消えた。矢が触れた瞬間、周囲の黒がわずかに白み、すぐに塞がる。効いていないわけではない。だが決定打にはならない。


 セラフィナが氷上を駆け、側面から斬撃を入れる。刃が影の外套を裂き、内側の暗がりから灰色の煙が漏れた。影がわずかによろめく。ミュリエルの結界が広がり、騎士たちの前に透明な盾を何枚も立てる。黒の欠片が盾にぶつかり、ぱちぱちと消えた。


 黒の人影が、咆哮した。


 音ではない。影の波が起こる。雪が浮き、氷がうたれ、空の色が落ちる。白が黒に飲まれ、世界の輪郭が一瞬だけ失われた。俺は膝を低く、剣を立てて波を受ける。背中に、仲間の気配。右にセラフィナ、左にリリア。後ろにミュリエル。四人の輪が、影の波にきしみながらも、砕けない。


 波が過ぎても、雪原は白へ戻らなかった。湖の半分が夜になった。朝の光は、境目で押しとどめられている。凍湖の境界に、明暗の線が引かれた。


「アレン——」リリアが息を整えながら言う。「これ、長期戦になる」


「なるだろうな」俺は頷く。「でも、押し負けない。押し切る」


 オルソスが氷上から声を落とす。「勇者。君がその言葉を何度繰り返すうちに、器は削れ、罅が走る。——聴こえるか」


 胸の奥で、針がほんの少しだけ強く鳴った。俺はその痛みを、握りしめるように受けとめた。(聴こえるよ。だからこそ、終わらせる)


 レオナルトの角笛が三度鳴り、騎士団が段階的に前進する。弓兵の矢が黒の縁だけを狙って連射され、槍兵が氷に刺して身体を支えながらじりじりと詰める。錯視がうねるたび、笛が秩序を縫い直す。音で戦う。俺たちは、視界を奪われても倒れない。


 黒の人影が、もう一度息を吸った。さっきより深く、長く。空の色がさらに落ち、白が引いていく。世界が、半分よりも少し多く夜に傾いた。


 俺は剣を握り直し、仲間を見た。リリアが頷き、セラフィナが構えをわずかに下げ、ミュリエルが杖を胸に当てる。恐怖はある。けれど、それを覆うものがある。誓いだ。帰る、と決めた夜の熱が、まだここにある。


「——行くぞ」


 小さく言い、境目に足をかける。足裏の網が、氷を掴んだ。黒と白の境目。昼と夜の境目。そこが俺たちの最初の戦場だ。


 影の波が、もう一度、音もなく押し寄せる。


 決戦は、いま、始まる。

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