お姉ちゃんの誓い
雪が、静かに鳴った。
「——お姉ちゃんは、私の勇者です!」
ミュリエルの声が、冬の空に跳ねて遠くまで届く。白い風にちぎれていくはずの言葉が、なぜか形を持って胸に刺さった。俺は反射的に彼女の方を見る。杖を胸に抱いた小さな肩が震えているくせに、眼差しだけが真っ直ぐで、揺らがない。
灰色の瞳の男——高司祭オルソスの唇が弧を描く。「選ぶのは、勇者自身だ」
選ぶ。勇者として死ぬか、人として逃げるか。そうやって二択に押し込めて、呪いの方角へ誘導する。きっとそれが奴らのやり口だ。(都合のいい選択肢しか、並べてこないわけだ)
馬の蹄音が雪を叩き、紺の外套が俺たちの側に並んだ。王家の紋章。第一騎士団副長レオナルトが馬を下り、目だけで状況を素早く測る。
「ここで何が起きている」彼は短く問う。それは刃ではなく、秤だった。
「茶番だ」と、オルソスは肩をすくめる。「勇者が、自分の行き先を選べるという幻想を楽しんでいる」
俺は一歩、前へ。雪がわずかに沈む。「じゃあ俺の番だな。——俺は、俺たちの行き先を“作る”。お前が机に並べた駒のどれでもない道を、だ」
オルソスの眉が薄く動く。「第三の道、というやつか」
「そう呼びたいなら、好きに呼べ。俺は“勇者の名”にしがみつかない。けれど“人として逃げる”つもりもない。俺は俺の意思で立つ。仲間の前で。守りたいものの前で」胸の奥の火を言葉にして、吐き出す。「お姉ちゃんだの勇者失格だの、呼び名は好きにしろ。——約束する。俺は、みんなを家まで連れて帰る」
ミュリエルの指が、そっと俺の袖を握った。リリアが小さく笑い、セラフィナは無言で背中を預けられるように半歩移動する。レオナルトはわずかに顎を引いた。承認の角度だ。
「選択の言い換えには慣れている」とオルソスは楽しげに囁く。「だが告げておこう。次にお前が大きく力を振るえば、器は確かに削れる。“滅びの際に刻み残された”乙身封呪は、そういう仕組みだ。使命に近づくほど、削れは速い。やがて器は割れ、“鍵”が露わになる」
「覚悟の値踏みなら、もう済んだ」とセラフィナが低く応じる。「これ以上、口で揺さぶるな」
オルソスは肩を竦め、雪の上に細い指で印を描いた。黒い霜がひび割れのように広がる。「では手続きを整えよう。——今宵は退こう。明日、凍湖の上で再会する。そこで“器”の価値を、確かめるとしよう」
ふっと、彼の輪郭から黒い霧が立ちのぼる。背後の残党たちが方陣を組み、影が雪の向こうへと引いていく。最後にオルソスが振り返り、灰の瞳で俺を刺した。「勇者。君が“人”のままでいられる夜は、長くない」
応える代わりに、俺は剣の柄を握り直した。氷の冷たさが指へ移る。指先は、もう震えてはいない。
風が一段落し、王家の軍旗がぱさりと鳴る。レオナルトが俺たちを見る。「王命は、辺境の民の保護だ。しかし——」続いた声には硬さより温度があった。「お前たちの選択を尊重する。今夜、我々は北側斜面に野営陣を敷く。食糧と油、替え弦と包帯を回そう」
「助かる」リリアが深く頭を下げる。セラフィナも礼を整えた。ミュリエルは「ありがとうございます」と息を弾ませる。
騎士たちが手際よく動き出すのを横目に、俺はミュリエルの手を取った。「さっきは……ありがとう」
「ううん」ミュリエルは小さく首を振る。「私のわがままです。お姉ちゃんを“勇者”だと思ってるのは、私の勝手……でも、勝手でも、言いたかった」
「勝手でいい。——俺も勝手を言う。絶対に、お前たちを帰す。それが俺の、わがままの形だ」
「うん!」弾けるように頷いて、ミュリエルは袖をぎゅっと握った。
その横でリリアが肘で俺を小突く。「“お姉ちゃんの誓い”、いただきました」
「言わせるな」頬の内側をかいて誤魔化す。「……でもまあ、悪くない」
「悪くないどころじゃない」とセラフィナが淡々と言う。「誓いは剣を鋭くする。夜のうちに磨けるだけ磨いておけ」
俺たちはレオナルトに従い、小高い丘へ移動した。騎士たちが囲む焚き火の列が風を裂き、布幕で風下を作った即席の野営地に温度が宿る。油に塗れた松明が夜を押し返し、ちいさな黄金の輪が点々と雪上に浮かび上がった。
貰った補給袋の口を開けると、干し肉、乾パン、塩、油、替えの弦、針と糸、そして小さな革の守符が入っていた。王都の騎士団はこういうところが抜かりない。レオナルトがこちらへ歩み寄り、短く言う。「彼らは明日の夜明けまでに態勢を整え、凍湖に陣を敷くだろう。湖上は足場が悪い。——滑る」
セラフィナが頷く。「氷の上での剣戟は、僅かな滑りが生死を分ける」
「矢も、風に流されやすい」とリリア。「吹きっさらしだからね」
ミュリエルが袖から糸を取り出した。「すべり止め、あるといいですね。明日までに……えっと、靴底に巻ける網みたいなもの、編んでみます」
「お前、そんなのもできるのか」
「家庭の知恵です!」胸を張る姿に、思わず笑いがこみ上げた。重たい空気の上に、小さな火種のように灯る笑い。
レオナルトが俺を見つめる視線に、騎士の測量眼が宿る。「アレン。お前の腹の傷——」
「浅い。ヒーラーが上手くやってくれた」
ミュリエルが照れて目を伏せる。「あの、まだ動かないでくださいね。明日までは、血を早く巡らせない方が……」
「了解」俺は素直に座り、包帯を締め直す。冷えと熱の境目に、自分の呼吸を合わせていく。(“器”が削れる? 上等じゃないか。削れた分だけ、明日を削り返す)
やがて、騎士たちが持ってきた大鍋でスープが煮えた。塩気のある湯気が野営地に流れ込み、全身が緩む。レオナルトは椀を手渡しながら、ぽつりと言った。「明朝、凍湖までの先導は我々が務める。だが、最後に氷上へ上がるのは——お前たちだ」
「わかってる」椀を受け取り、口に含む。熱い。けれど、生きてる実感はこういう熱さの中にある気がする。
空は暗く、星が多すぎて、逆にどこが夜の底なのか分からないほどだった。遠い方角で、黒い光が微かに瞬いた。雪雲の裏で、何かがゆっくり動いている。オルソスの置き土産——明日の舞台装置だ。
俺は仲間の顔を順に見た。弓弦を指で弾きながら風を読むリリア、刃を布で磨き直すセラフィナ、ひたすら編み紐を手早く織るミュリエル。火の明かりが、それぞれの横顔を等しく照らす。
「——約束する」もう一度、口にした。「明日を越えて、みんなで帰る。俺は、俺の身体も取り戻す。その上で、笑う」
リリアが笑みを浮かべ、「帰ったら、丘でまた寝転がる?」と軽く言う。
「今度は殴り合いじゃなく、温かい飲み物で暖を取ろう」とセラフィナが応じる。
「私、甘いの作ります!」ミュリエルが手を挙げる。「お姉ちゃんの好きなの、覚えてます!」
「……なんだっけ?」
「えへへ、内緒」
笑いが重なって、夜が少しだけ後ろに下がった。
それは誓いの夜だった。名にしがみつく誓いではなく、いまここにいる四人のための誓い。俺はそれを“お姉ちゃんの誓い”と心の中で雑に名付け、胸の奥に置いた。
やがて、風の向こうで角笛の残響が消える。騎士たちの守備交代の靴音が遠ざかり、野営地は寝息の層を重ね始めた。俺は最後に火へ油を差し、剣を枕元に置く。
(明日、凍湖。そこで俺は——)
言葉にしないまま、瞼を下ろした。
夜は、まだ硬く冷たい。
けれど、それより強く、俺たちは温かい。




