勇者の真実
白い世界の真ん中に、黒が歩いてきた。
たった一人。だが、背後に連なる兵を連れているより重い圧が、雪面に沈んでいく足跡から伝わる。黒衣の下で痩せた骨格が不気味なほど静かに整っていて、肩には蛇が尾を噛む輪——ウロボロスの印の刺繍。
男は距離を測るように数歩立ち止まり、顔を上げた。骨ばった顔に、灰色の瞳。唇はやけに赤く、その形が冷笑の弧を描く。
「勇者」
呼んだのは、俺の名ではなかった。肩書きだけを、冬の空に投げた。
「自己紹介ぐらい、したらどうだ」
俺の声は驚くほど平坦だった。腹の痛みは鈍く、意識は澄んでいる。
「——魔王軍残の高司祭、オルソス」
男は自ら名乗り、微笑した。「かつて魔王陛下に仕え、いまは残滓を集める者だ」
セラフィナが半歩前に出る。「用件は」
「簡単な確認と、通告だ」
オルソスは指を一本、空に立てる。「確認——お前たちは、黒鉄の砦の禁書庫で羊皮紙を見た。〈女の器は勇者を滅ぼす〉。その意味を正しく掴んだか?」
心臓が、小さく跳ねた。ミュリエルの指が、俺の袖を摘んでくる。
「通告——その呪いは、魔王陛下が滅びの際に刻み残した“乙身封呪”。勇者の名を女に縫い、力と引き換えに器を削る。使命が近づくほど、削れは速くなる。やがて器は割れ、中にある“鍵”が露わになる」
彼は言葉を楽しむように、舌の上で転がした。「鍵が何か、教えてやってもいいが……その前に、選べ」
リリアが弓を半ばまで引き、「選ぶ?」と唸る。
オルソスは、氷の上に線でも引くみたいに静かな声で言った。
「勇者として死ぬか、人として逃げるか——だ」
「……ふざけるな」
俺は一歩、前に出た。雪が鳴る。「その二択しか、ないと?」
「そう定めたのは、我ではない。運命と、ありがちな“勇者譚”。お前は、英雄として道半ばで散るのがお似合いだ」
オルソスの灰色の瞳が笑う。「だが人でありたいなら、いま即刻この地を捨て、名を捨てろ。逃げ延びてどこかで子を抱き、夕餉の温い椀をすすればいい。お前の器は、そうすれば——少しだけ、長持ちする」
「長持ち、ね」
俺は笑った。思っていたより、穏やかな声だった。
「それで、お前たちは誰を喰う。誰の村を焼き、誰の子を泣かせる?」
「それは“世界のかたち”だ」
オルソスは乾いた唇を歪める。「勝者と敗者。強者と弱者。勇者と人。等号は結ばれない」
セラフィナが低く唸る。「言葉遊びはそこまでだ」
彼女は一歩、踏み込む。「アレン、私たちは——」
「待って」
ミュリエルが掠れた声で遮った。彼女は杖を胸に抱きしめ、まっすぐオルソスを見た。「……鍵って、何ですか」
「好奇心は美徳だが、時に刃だ。——鍵とは、魔王陛下がその身に残した“門”を開ける合言葉。勇者の器が割れれば、門は開く。残滓は還り、世界は再び書き換えられる」
リリアが息を呑む。「じゃあ、アレンが壊れれば——」
「扉が開く」
オルソスは穏やかに結ぶ。「だから、選べと言っている」
雪が、細かく舞った。白い世界に、誰かの息が白く溶ける音がする。
俺は腹の傷に手を当てた。痛みは、そこに生きている証だ。
(勇者として死ぬか、人として逃げるか——二択を迫るのが、こいつらの狙いだ)
決めさせるな。俺たちが選ぶ道は、もっと広いはずだ。……そうだろ、アレン。そうだ、俺。
「答えは——」
言いかけて、風の向こうから蹄の音が響いた。雪を蹴立て、幾つもの影が現れる。紺の外套、王家の紋章——騎士団だ。先頭に立つのは、固い顎とまっすぐな目を持つ男。
「第一騎士団副長、レオナルト……!」
リリアが目を見開く。セラフィナが僅かに顎を引いた。
レオナルトは馬を降り、俺たちとオルソスの間に視線を走らせる。
「ここで何が起きている」
「茶番だ」オルソスが応える。「勇者の最期の舞台を整えている」
レオナルトは一瞬だけ眉根を寄せ、それから俺を見た。
「アレン」
短い呼び名に、騎士の重さが宿る。「お前は……どうする」
問いは厳しいが、刃ではない。俺はわずかに笑い、肩をすくめた。
「俺は、俺で決める」
オルソスが叩くように笑った。「ならば見せよ。口ではなく、選びで」
彼は両手を広げ、雪上に薄い黒の紋を描く。空気が凍り、音が遠のく。
「乙身封呪は進行する。次に大きく力を振るえば、器はさらに削れる。いまここで戦えば、勇者として死に近づく。逃げれば、人として少しだけ長らえる。——さあ」
雪が、舞った。
ミュリエルが小さく息を吸い、俺の袖を、強く、強く握る。
リリアの弓が、微かに軋む。
セラフィナは剣を半ば抜き、俺の背に合わせて足を置く。
レオナルトの手が、柄にかかる。
オルソスの灰の瞳が、笑う。
喉が渇く。だが、迷いはもう薄い。
(「勇者」か「人」かじゃない。——俺は、俺の意思で選ぶ)
口を開きかけた俺より早く、澄んだ声が雪原に跳ねた。
「——お姉ちゃんは、私の勇者です!」
ミュリエルの声だった。涙が頬を伝い、でも、目は真っ直ぐだ。
彼女の声は、細いのに、雪の世界の隅々まで届く強さがあった。
オルソスの口角がわずかに上がる。「選ぶのは、勇者自身だ」
俺は頷く。
そして、足を一歩、前へ。




