北方の砦
夜明け前、俺たちは漂着の村を出発した。
冷たい霧が川面を覆い、足元の石が凍りついている。長老エルドの示してくれた“谷底の抜け道”を進む。
「冷たい……!」ミュリエルが靴底を押さえた。
「霜が厚い。転ぶなよ」セラフィナが前に立ち、霧の中を切り開くように進む。
午前を過ぎ、尾根を二つ越えると、視界の先に黒々とした砦の影が現れた。雪に覆われた断崖の上に、石の牙のように突き出している。
「……あれが」リリアが息を呑む。「魔王軍の残党が拠点にしてる砦」
砦の周囲は不気味なほど静かだった。狼の気配も鳥の声もない。風に乗ってくるのは、金属の擦れる微かな音だけ。
「中に相当数いるな」セラフィナの声が低い。
「偵察しよう。正面は無理だ。谷を迂回して影から近づく」俺が言うと、全員頷いた。
谷底は氷柱が連なる迷路のようで、足音を立てるたび反響が返る。慎重に進み、崖の陰から砦の側面を覗いた。
石壁の一部に崩れた跡があり、そこから煤の匂いが漂っている。
「裏門の残骸だな。補修されてない」セラフィナが目を細めた。
「侵入できそう?」リリアが矢を握る。
「……できる。ただし、中に入れば戻れないと思え」
俺たちは息を合わせ、崩れた裏門へと忍び込んだ。
◇
砦の内部は寒気がこもり、石壁には黒い煤が残っていた。
崩れた礼拝堂の跡、壊れた武具庫、床に散らばる古い剣。人の影はない。だが、確かに「何か」がいる気配がした。
「足跡」リリアが囁く。雪混じりの床に、重い靴跡がいくつも重なっていた。
「ここ最近のものだ」セラフィナが跪いて確認する。「数は十、いや二十……」
砦の奥へ進むと、大広間に出た。かつての玉座跡に、黒布で覆われた祭壇のようなものが据えられている。その周囲に兵らしき影が数人。鎧の継ぎ目から漏れる瘴気。
「……魔王軍の残党」俺は息を呑んだ。
その時、広間に低い声が響いた。
「勇者の名が、再びこの地を歩むか」
黒布の奥から姿を現したのは、蛇の尾を噛む輪――ウロボロスの印を刻んだ仮面の男だった。
俺たちは身を潜めたまま息を殺す。
仮面の男は兵らに告げた。
「間もなく“呪い”が目覚める。勇者は己の名に縛られ、再び夜へ堕ちるだろう」
血が凍る。なぜ“勇者の呪い”を知っている……?
「撤退だ」セラフィナが囁いた。
俺たちは足音を殺して後退し、砦の外へと戻った。雪の冷気が皮膚に突き刺さる。
「聞いたな」リリアが顔を青ざめさせる。
「……勇者の呪い。なぜあいつらが知ってる」ミュリエルが震える声で言った。
俺は唇を噛みしめた。
砦の中に潜む残党は、ただの敗残兵じゃない。勇者の呪いにまで通じている。――これは偶然じゃない。
「行こう」
俺は言った。
「このままじゃ終われない。呪いの正体を突き止める。……それでも共に、だ」
雪煙の向こう、砦が不気味に影を伸ばしていた。
次に向かうのは、その正体を暴く旅路だ。




