セラフィナの独白
村の柵を離れると、川の音は不思議と遠のいた。
堤の上に背の低い樺が一列に並び、枝の間から星が等間隔に覗く。湿り気の少ない風が、剣の柄の革に冷たく触れた。
セラフィナは足を止め、深く息を吸った。
肩の起伏が火の名残を吐き出し、暗闇に溶ける。
少し離れて、俺も立つ。「見張りか?」
「違う」
彼女は否定し、ほんの僅かに口角を動かした。「……独り言の練習だ」
「なら、聞く相手がいたほうが、練習になる」
少しの沈黙。やがて、彼女は頷いた。
「勝手に聞け」
樺の影が風に揺れ、細い枝が指の骨みたいに白く見える。
セラフィナは剣帯に手を添え、言葉をほどく場所を探すみたいに視線を彷徨わせた。
「私は、王都で生まれた。父も母も城下の兵で、剣と鎧の音で育った。十六で近衛の試補になったとき、誇らしかった。……魔王の戦で、すべてが灰になった」
声は淡々としていた。だが、淡々を支える筋肉が震えるのを、暗闇の中で感じた。
「囲まれて、退路が消えた。主は、自ら前に出て、私に下がれと言った。私は――従った。命令に従うことが誇りだったから」
そこまで言って、彼女は息を一度止めた。
「結果、私は生きた。主と、父と、母は、壁の向こうに置いてきた」
柵の向こうで梟が短く啼く。川霧が淡く形を変える。
「“復讐”は、私を立たせた。刃が震える夜は、復讐に寄りかかった。王都の剣を濁らせても、あの夜へ斬り返す理由が欲しかった」
彼女が顔を上げる。星の欠けた夜、暗い瞳の奥で、剣の刃の線だけがはっきり見えた。
「お前のことは、最初、好きではなかった」
「知ってる」
あっさり肯定すると、微かに笑いが零れた。
「軽く見えた。勇者を名乗れない勇者。名前から逃げているように見えた」
俺は反論しない。
「でも、違った。前に立つとき、お前は“名”ではなく“背中”を出した。何も貼っていない背中を。その背中が、戦の場で、一歩ずつ前へ出ていくのを見た。……私は、復讐で足を動かしているときよりも、そっちの方がずっと強いのだと、やっと認められるようになった」
セラフィナは剣を外し、鞘を胸に抱えた。
「復讐は、私の剣を始めた理由だ。けれど、終わらせる理由にはできない。――この旅で、私は、王都の剣に“別の意味”を持たせたい。魔王の残滓を断つために、斬るべきものだけを斬る剣に」
言葉に合わせて、彼女の姿勢がわずかに変わる。理から、祈りへ。誓いを体に“落とす”瞬間の静けさ。
「それで、言っておきたいことがある」
彼女はこちらを見ず、川の方へ顎を向けた。「もしこの先――お前が“名”を使う時が来たら、私は横に立つ。お前のためではない。名を欲しがる者から、守るためにだ。……その代わり」
「代わり?」
「お前は、私に“待て”と言ってくれ」
思わず笑ってしまう。「犬扱いはやめろ」
「そういう意味ではない」
彼女も笑って、すぐ真面目に戻る。「復讐に足を取られそうな時だ。私は、まだ、あの夜に引かれる。呼べ。呼び戻せ。お前の背中で」
「……わかった」
その頼みは、重い。けれど、引き受けたい重さだった。
柵のひさしから、足音が二つ降りてくる。
「やっぱり外だと思った」リリアが肩をすくめる。「冷えるよ」
ミュリエルは毛布を二つ抱えて来て、「お姉ちゃん、はい」と一つを俺の肩に掛け、もう一つをセラフィナの背に押し当てた。
「聞いちゃった」リリアが悪びれずに言う。「でも、たぶん、言葉にしてよかったよね」
「盗み聞きは感心しない」
セラフィナは渋い顔をするが、声は柔らかかった。
四人で柵にもたれて、しばらく黙って夜を見た。
言葉の余韻が、それぞれの胸で場所を探して座る。
やがて、ミュリエルがぽつりと言った。
「セラさんの剣、好きです。怖いけど、ぜんぜん怖くない」
「どっちだ」
「えっと……怖いのは、悪いものだけに向けてるから、私たちは怖くない、です」
セラフィナは目を瞬き、照れ隠しに咳払いをした。「……そうか」
リリアが弓の弦を弾く。短い音が夜に溶けた。
「ね、アレン。明日の行き先、もう決めとこう」
「ああ」
「谷底ルート。霧の上がる前に“墓地の棚”に寄る。碑があるなら拾う。砦の見張りを避けて、北の崖の下から回り込む」
セラフィナがすぐ続ける。「合図は梟。リリアは風と霧。ミュリエルは足の祈り。私は前衛。――お前は」
「前に立つ」
「うん」ミュリエルが強く頷く。「お姉ちゃんは、前に立つ」
「“勇者お姉ちゃん”でも、いいけどね」リリアが茶化す。
「よくない」
だが、笑いは止められない。笑った後の呼吸は、いつも少しだけ深くなる。
柵の上の風向きが変わった。川霧が薄い糸をほどき、空の星目がひとつ増える。
セラフィナが剣を背に戻し、姿勢を整えた。
「戻るか」
「うん。――ね、セラ」リリアが呼ぶ。
「なんだ」
「復讐じゃなくて、誰かを“守るため”に戦うセラの方が、私は好き」
セラフィナは返事をしなかった。代わりに、ほんの一瞬だけ、俺の肩を拳で軽く叩いた。
“待て”の合図を、確かめるみたいに。
広間へ戻る道すがら、ミュリエルが俺の手に自分の手を重ねた。
「お姉ちゃん」
「ん」
「さっきの言葉、覚えておいてくださいね。私も言います。“戻ってきて”って。――もし、お姉ちゃんが、どこかに引かれそうになったら」
「……ああ。頼りにしてる」
彼女の手は小さく、祈りの輪の紐の匂いがした。
広間の灯りが近づく。
人の寝息、火の温度、床板の軋み。漂着の村の夜は、旅人の重さを受け止めるように柔らかい。
毛布に潜る前、俺は掌の小舟をもう一度確かめた。軽い。だが、確かな形。
戻る側。名ではなく、足で。
セラフィナの独白は、彼女だけでなく、俺たち四人の“立ち位置”を、もう一度照らしてくれた。
夜が深まり、川音が遠のいた。
明日の朝、俺たちは出発する。谷底へ、墓地の棚へ、そして砦の影へ。
たとえ“夜”が呼んでも、呼び戻す声を、俺たちはもう持っている。
それでも共に――そう、言えるだけの夜だった。




