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漂着の村

 雨脚が細くなった午前、俺たちは「渡し場の村」を後にした。親方がくれた古い草鞋と乾いた毛布を荷に足し、ヴァロと男衆が川岸まで見送ってくれる。

「北へ半日。森を抜けた先が“漂着の村”だ。流れに揉まれた人と物が辿り着く場所さ」

 ヴァロは手を上げ、笑った。「お前らは“戻る側”だ。ちゃんと戻ってこい」


 森路はぬかるみが残り、足跡がやわらかく刻まれた。鳥の声が戻り、木肌の匂いが濃い。ミュリエルが小走りで前に出て、折れ枝へ祈りの輪を結んでいく。

「道しるべです。ほら、帰り道にも光が残るように」

「迷わないけどな」セラフィナが小さく言う。

「うん、でも“戻る側”の合図は多いほうがいいから」

 その無邪気な理屈に、俺はつい頷いた。戻ると決めて歩く――それだけで、足の裏の重さが少し変わる。


 昼過ぎ、木立が途切れ、川沿いの広い河原に出た。風に草の穂が波打つ。その向こう、低い屋根が寄り集まる村が見える。岸に流木が積み上げられ、網を繕う女たち、杭を打つ男たち。竿の先に小舟を引く子どもたち。

「噂どおりだな」リリアが口笛を鳴らした。「人も物も、流れ着いたものは全部“生かす”んだ」

 村の入り口には簡素な祈り柱。布切れや貝殻、割れた器の破片が風に揺れている。どれも、それを手放せなかった誰かの“名残”だ。


 門番代わりの青年が俺たちを見るなり声を上げた。「おお、渡し場からの客人だな! 親方から話は来てる。こっちへ」

 通された共同の広間は梁が太く、壁に流木で作った聖像が掛かっていた。暖炉の火がやわらかく、湿った服の匂いが少し甘い煙に変わる。

 長老は背の曲がった小柄な老人で、右の耳に古い傷跡があった。名をエルドと言い、昔は北の砦で兵だった、と自己紹介した。

「遠目はまだ利く。お前たちが来るのも、川霧の向こうで見えたさ」

「エルドさん。砦のことを――」セラフィナが一歩進む。

 老人の瞳が、ふっと鋭くなった。「黒外套が出入りする“音”がする。夜更け、川霧が濃くなると、ふくろうの声に紛れて、合図が渡る。ああいう連中は昔もいた。今は、輪を噛む蛇の印まで露骨に付けておる」

 ミュリエルが小さく息を呑む。「ウロボロス……」

「砦へは、尾根を二つ越え、凍った谷を渡る。まっすぐ行けば楽だが、見張りに出会う。谷の底を使え。音が上へ抜けるから、犬に嗅がれにくい。――昔の“逃げ道”だ」

 老人は羊皮紙に手早く線を引き、要所に印を付けた。

「助かる」

「助け合いだ」老人は笑い皺を刻む。「ここに来る者は、皆“途中”だからな。お前さんらも、途中で迷う顔だ」


 午後は村の仕事を手伝った。

 リリアは見張り台に登り、風と雲の向きを読んで合図旗を振る。「次に大きな流木が来るよー!」

 セラフィナは杭打ちを率い、腰の落とし方を村の男衆に体で教える。「肩で打つな、足で打て」

 ミュリエルは戸口ごとに祈りの輪を配り、子どもたちと一緒に紐を撚る。「ここで指を交差させると、ほどけにくいよ」

「……お姉ちゃん勇者は?」

 いつの間にか背後にいた子どもが、俺の上着の裾を引いた。

「俺は鍋担当だ。すぐ偉いぞ」

「すごい!」

 すごいの基準がゆるい。だが、笑う顔が欲しかったのは、むしろ俺の方だ。

 流木と一緒に流れ着いた古い鉄鍋を磨き、干し肉と麦、根菜を入れて煮る。最後に草の実をひとつまみ。湯気の匂いに人が寄ってくる。

「うまい」

 セラフィナが短く言って、ふいと鍋を見ない。「……少し塩が強い」

「素直じゃないの! でもおいしい!」リリアが笑う。

 ミュリエルは匙を口に入れ、目を細めた。「帰ってくる味がします」

「帰ってくる?」

「はい。どこから漂着しても、ここに来れば“温かい味”があるって、そういう味です」


 夕暮れ。

 河原の端で小舟を押していた少年が、俺に木片を差し出した。丸く削られた、小舟の形だ。帆に“しるし”として鹿の角の絵が彫ってある。

「これ、姉ちゃんにやる」

「……姉ちゃん、はやめろ」

「え?」

「いや、ありがとう」

 小舟は掌に収まるほど軽かった。削り口が新しい。まっすぐには進めない。きっと流れに揉まれて、岸に戻ってくる。――戻る側。


 夜の広間は人と声でいっぱいになった。

 漂着者同士の噂が飛び交い、北の話もいくつも出た。「砦から夜に灯が三つ上がった」「狼の群れが人の気配を避けて動く」「瘴気の薄い日がある」――断片だが、いずれも“何かが動いている”ことを示している。

 エルド老人は焚き火のそばで、古い歌を口ずさんだ。冬を越える船の歌、戻り火の歌、旅人の名を呼ぶ歌。ミュリエルが追いかけるように小さくハミングし、リリアは膝で拍を取る。セラフィナは静かに目を閉じ、呼吸だけで拍を刻んでいた。


 やがて人の輪が薄くなると、老人が俺を手招きした。

「勇者ではない、と言ったな」

「ああ」

「それで、よい。名に寄りかかると、足を取られる。――ただし」

 老人は火に手をかざし、指を一本だけ立てた。

「名を欲しがる者の前では、名を“使え”。守るためにな」

 言葉が、焚き火の熱と一緒に胸の奥へ潜った。

「ありがとう」

「礼はいらん。……それから」

 老人は声を落とした。「砦の近くに“墓地の棚”がある。積んだ石が階になって、昔の兵たちの骨が眠っている。そこに、古いいしぶみが1枚だけ残った。お前さんの旅に要るかもしれん」

 碑――礼拝堂でセラフィナが言っていた道標。勇者伝承の残り火。

「場所は?」

「谷の霧が薄まる朝を狙え。石は冷たい。だが、歌を覚えている」


 広間に戻ると、ミュリエルが毛布を抱いて待っていた。

「お姉ちゃん、外で星がきれいです。少しだけ、焚き火しませんか」

 外は川音が遠く、風が乾いていた。俺たちは村の柵の外、短い焚き火を起こし、輪になって腰を下ろす。

 炎が木肌を舐め、影が延び縮みする。リリアが弓を膝に置き、ミュリエルは両手を火にかざす。セラフィナは背を柵に預け、空を見た。

「明日、出る」

 俺が言うと、誰も驚かなかった。

「うん。行こう」リリア。

「はい。行きましょう」ミュリエル。

「夜明けの出立。谷底を使う」セラフィナ。


 火が小さく弾け、星がひとつ流れた。

 ここは“途中”の村。流れ着くばかりじゃない。ここからまた、流れを選べる。

 掌の小舟を見下ろし、俺はそっとポケットに収めた。

(戻る側でいよう。名より、足で)

 火が静かに沈み、夜が厚くなる。俺たちの輪は、夜の縁で小さく、しかしはっきりと、明日へ向いていた。


 ――そして夜更け。

 広間が眠りに落ちる少し前、セラフィナが立ち上がった。

「少し、外の空気を吸ってくる」

 彼女の影が柵の外へ滑り、川霧の薄い方へ消える。

 その背に、答えのない重さが乗っているのを、俺は見逃さなかった。

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