表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
48/61

大河を越えて

 目を開けると、温かい匂いが鼻をくすぐった。

 獣脂と麦粥。それから、乾いた藁の匂い。

 見知らぬ屋根裏の梁が見える。体が重い。湿った服は誰かが脱がせ、炉の前で乾かしてくれているらしい。俺の上には粗い毛布。肩には清潔な布が巻かれていた。


「起きたか」

 低い声に振り向くと、顎髭の男が椅子に腰をかけていた。大柄で、目尻に深い皺。外套の裾から見える靴は泥に汚れているが、手入れは行き届いている。

「お前さんら、丸ごと川に飲まれるとこだったぞ」


「助かった。……ここは?」

「リゴの渡し場。川の曲がり角の村だ。流されたのはあんたらだけじゃない、季節の変わり目は毎年こうだ」

 男は立ち上がり、木の椀を差し出した。「まずは飲め。体が戻る」


 椀の中身は薄い麦粥。唇に当てると、ひどくうまかった。胃の底に火を落としたみたいに温かさが広がる。

「仲間は?」

「女の子三人なら向こうの部屋だ。弓の子はもう起きて飯を二杯食った。金髪の子は祈りの輪を戸口に結んでる。黒髪の剣の嬢ちゃんは、もう外で村の見張り台に立ってる」

 想像がつきすぎて苦笑が出る。あいつらしい。


 部屋の戸が開いて、リリアが顔を出した。「アレン!」

 次いでミュリエルが飛び込んでくる。「お姉ちゃん、よかったぁ!」

 セラフィナは遅れて入ってきて、短く「無事か」とだけ言った。

「無事だ。助けられた。……世話になったな」

 俺が顎髭の男へ向き直ると、彼は肩をすくめた。「困った時はお互いさまだ」


 炉の火に薪が足され、温度が上がる。ミュリエルが俺の肩の布を取り替え、祈りの光を指先で流して傷の熱を沈める。

「筏、惜しかったね」

 リリアが笑う。「でも、あれだけの流れでよく渡りきったよ。……さすが、私たち」

「さすが、でまとめるな」

 心の底では、同意している。負け惜しみでもなんでもなく、四人でなきゃ絶対に渡れなかった。


 顎髭の男――自分をヴァロと言った――が、炉の上の鍋を指差した。「昼には粥をもう一鍋炊く。食ったら村の親方に顔を出してくれ。あんたらを助けた連中だ」

「恩は返す。手伝いが要るなら言ってくれ」

「助かる」



 昼過ぎ、雨は細くなった。

 俺たちはヴァロに案内されて村の広場へ行く。川沿いに木の杭を打った簡素な桟橋が伸び、小さな舟がいくつか係留されている。岸の上には筏の残骸や流木が積まれ、人々が手早く束ね直していた。

 親方の家は広場に面した低い建物。中には年配の男女が数人、雨具を干しながら地図らしきものを前に話し合っている。


「おお、起きたか」

 親方は丸い背中を伸ばし、俺たちを見回した。「命があって何よりだ。ここは“漂着者”が多い村でな。助け合って今日を乗り切るのが決まりだ」

 俺は深く頭を下げる。「礼を言う。……何か、返せることがあれば」

「そうだな。川岸の杭打ちと、流木の仕分けを手伝ってくれ。明日、上流から大きいのが来る。備えが要る」

「任せてください!」ミュリエルが元気よく手を上げた。

「弓が要る仕事はある?」リリアが地図を覗き込む。

「見張り台の交代に立ってくれ。外を読む目が必要だ」

 セラフィナは無言で頷き、俺も「やれることはやる」とだけ言った。


 作業は単純だが、じわじわと体力を持っていかれる。杭を打ち、縄を渡し、流木を長さ別に束ねる。ミュリエルは子どもたちに祈りの輪の作り方を教え、戸口の上に等間隔で結んでいく。リリアは見張り台で風と雲の向きを読み、合図旗で広場へ知らせた。セラフィナは桟橋の補強板を肩で担ぎ、水に濡れた板の上でも微塵も足を滑らせない。


 夕方――。

 作業を終え、広場の炉を囲んで温かい粥と固いチーズを食べた。人々の表情が緩み、笑い声が少しだけ増える。

 その時、舟の舟頭の一人がぽつりとこぼした。

「そういや、北の方だが……物騒な噂がある」


 俺は顔を上げる。

「どんな噂だ?」

「雪解けの道を更に行ったところに、古い砦がある。そこへ、黒い外套の連中が出入りしてるって話だ。夜に、こそこそとな。狼の皮を被って村を脅す賊じゃねえ、もっと質の悪い“何か”だ」

 黒い外套。礼拝堂の夜の残像が、喉を冷やす。ミュリエルの肩がびくりと震え、セラフィナの瞳がわずかに細くなる。


「目印は?」

 セラフィナが低く問うと、舟頭は指で輪を作った。

「見たやつの話だと、蛇が自分の尾を噛んだ輪っかの印を付けたやつがいた、と」

 ウロボロス。礼拝堂で聞いた、あの印。

 俺は拳を膝の上で握り、深く息を吸った。


 親方はうなるように続ける。「北方では、魔王軍の残党がまだくすぶってるって話もある。信じたくはねえが、冬の間に人が何人も消えた。山の村も、森の集落も、跡形もなく」

 炉の火がぱち、と音を立てる。

 リリアが静かに言う。「行こう」

 ミュリエルが頷く。「行きましょう。……私、怖いけど、でも行く」

 セラフィナが親方に向き直る。「砦の場所、行き方を知っている者は」

「森を抜けた先の“漂着の村”に詳しい爺さんがいる。昔、砦の兵だったって話だ。明日の朝、案内をつけてやる」


 渡りに船、とはこのことだ。

 俺は親方に礼を言い、ヴァロには深く頭を下げた。「命の借りを作った。返す機会をくれ」

「今返してるさ」ヴァロは笑った。「明日、道が開ける。気を付けて行け」



 夜。

 見張り台の上で、川の音を聞く。雨は上がり、雲の切れ間から星が覗く。

 隣でリリアが弓を膝に置いた。「ねえ、アレン」

「ん」

「私、今日、怖くなかったわけじゃないんだ。……でも、怖いのと同じくらい、嬉しかった。渡れたことが、嬉しかった」

「わかる」

「お姉ちゃんは?」

「俺は――正直、水が嫌いになりかけた」

 二人で笑う。

 その笑いの後に、静かに言葉が落ちる。

「でも、渡るよ。北へ」

「うん。私たちの矢は、もう後ろを向かないから」


 階下で、セラフィナとミュリエルの声が微かに混じる。

「結び目は、これでいい?」

「いい。――お前の祈りは、よく効く」

「ほんと?」

「ああ」

 短い会話が、夜気の中で溶けていく。


 俺は手すりを握り、暗い川面を見下ろした。

 礼拝堂の祈り。大河の流れ。漂着の村の灯り。

 全部が一本の線になって、北へ伸びている気がする。


「行こう」

 誰にともなく呟いた。

 それは、俺自身への返事でもあった。


 ――夜が明けたら、俺たちは“漂着の村”へ向かう。

 そして、その先にいる“黒い外套”と“魔王軍の残党”の痕跡を追う。

 新たな決意は、もう言葉じゃない。足と手で、確かめに行く。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ