大河を越えて
目を開けると、温かい匂いが鼻をくすぐった。
獣脂と麦粥。それから、乾いた藁の匂い。
見知らぬ屋根裏の梁が見える。体が重い。湿った服は誰かが脱がせ、炉の前で乾かしてくれているらしい。俺の上には粗い毛布。肩には清潔な布が巻かれていた。
「起きたか」
低い声に振り向くと、顎髭の男が椅子に腰をかけていた。大柄で、目尻に深い皺。外套の裾から見える靴は泥に汚れているが、手入れは行き届いている。
「お前さんら、丸ごと川に飲まれるとこだったぞ」
「助かった。……ここは?」
「リゴの渡し場。川の曲がり角の村だ。流されたのはあんたらだけじゃない、季節の変わり目は毎年こうだ」
男は立ち上がり、木の椀を差し出した。「まずは飲め。体が戻る」
椀の中身は薄い麦粥。唇に当てると、ひどくうまかった。胃の底に火を落としたみたいに温かさが広がる。
「仲間は?」
「女の子三人なら向こうの部屋だ。弓の子はもう起きて飯を二杯食った。金髪の子は祈りの輪を戸口に結んでる。黒髪の剣の嬢ちゃんは、もう外で村の見張り台に立ってる」
想像がつきすぎて苦笑が出る。あいつらしい。
部屋の戸が開いて、リリアが顔を出した。「アレン!」
次いでミュリエルが飛び込んでくる。「お姉ちゃん、よかったぁ!」
セラフィナは遅れて入ってきて、短く「無事か」とだけ言った。
「無事だ。助けられた。……世話になったな」
俺が顎髭の男へ向き直ると、彼は肩をすくめた。「困った時はお互いさまだ」
炉の火に薪が足され、温度が上がる。ミュリエルが俺の肩の布を取り替え、祈りの光を指先で流して傷の熱を沈める。
「筏、惜しかったね」
リリアが笑う。「でも、あれだけの流れでよく渡りきったよ。……さすが、私たち」
「さすが、でまとめるな」
心の底では、同意している。負け惜しみでもなんでもなく、四人でなきゃ絶対に渡れなかった。
顎髭の男――自分をヴァロと言った――が、炉の上の鍋を指差した。「昼には粥をもう一鍋炊く。食ったら村の親方に顔を出してくれ。あんたらを助けた連中だ」
「恩は返す。手伝いが要るなら言ってくれ」
「助かる」
◇
昼過ぎ、雨は細くなった。
俺たちはヴァロに案内されて村の広場へ行く。川沿いに木の杭を打った簡素な桟橋が伸び、小さな舟がいくつか係留されている。岸の上には筏の残骸や流木が積まれ、人々が手早く束ね直していた。
親方の家は広場に面した低い建物。中には年配の男女が数人、雨具を干しながら地図らしきものを前に話し合っている。
「おお、起きたか」
親方は丸い背中を伸ばし、俺たちを見回した。「命があって何よりだ。ここは“漂着者”が多い村でな。助け合って今日を乗り切るのが決まりだ」
俺は深く頭を下げる。「礼を言う。……何か、返せることがあれば」
「そうだな。川岸の杭打ちと、流木の仕分けを手伝ってくれ。明日、上流から大きいのが来る。備えが要る」
「任せてください!」ミュリエルが元気よく手を上げた。
「弓が要る仕事はある?」リリアが地図を覗き込む。
「見張り台の交代に立ってくれ。外を読む目が必要だ」
セラフィナは無言で頷き、俺も「やれることはやる」とだけ言った。
作業は単純だが、じわじわと体力を持っていかれる。杭を打ち、縄を渡し、流木を長さ別に束ねる。ミュリエルは子どもたちに祈りの輪の作り方を教え、戸口の上に等間隔で結んでいく。リリアは見張り台で風と雲の向きを読み、合図旗で広場へ知らせた。セラフィナは桟橋の補強板を肩で担ぎ、水に濡れた板の上でも微塵も足を滑らせない。
夕方――。
作業を終え、広場の炉を囲んで温かい粥と固いチーズを食べた。人々の表情が緩み、笑い声が少しだけ増える。
その時、舟の舟頭の一人がぽつりとこぼした。
「そういや、北の方だが……物騒な噂がある」
俺は顔を上げる。
「どんな噂だ?」
「雪解けの道を更に行ったところに、古い砦がある。そこへ、黒い外套の連中が出入りしてるって話だ。夜に、こそこそとな。狼の皮を被って村を脅す賊じゃねえ、もっと質の悪い“何か”だ」
黒い外套。礼拝堂の夜の残像が、喉を冷やす。ミュリエルの肩がびくりと震え、セラフィナの瞳がわずかに細くなる。
「目印は?」
セラフィナが低く問うと、舟頭は指で輪を作った。
「見たやつの話だと、蛇が自分の尾を噛んだ輪っかの印を付けたやつがいた、と」
ウロボロス。礼拝堂で聞いた、あの印。
俺は拳を膝の上で握り、深く息を吸った。
親方はうなるように続ける。「北方では、魔王軍の残党がまだくすぶってるって話もある。信じたくはねえが、冬の間に人が何人も消えた。山の村も、森の集落も、跡形もなく」
炉の火がぱち、と音を立てる。
リリアが静かに言う。「行こう」
ミュリエルが頷く。「行きましょう。……私、怖いけど、でも行く」
セラフィナが親方に向き直る。「砦の場所、行き方を知っている者は」
「森を抜けた先の“漂着の村”に詳しい爺さんがいる。昔、砦の兵だったって話だ。明日の朝、案内をつけてやる」
渡りに船、とはこのことだ。
俺は親方に礼を言い、ヴァロには深く頭を下げた。「命の借りを作った。返す機会をくれ」
「今返してるさ」ヴァロは笑った。「明日、道が開ける。気を付けて行け」
◇
夜。
見張り台の上で、川の音を聞く。雨は上がり、雲の切れ間から星が覗く。
隣でリリアが弓を膝に置いた。「ねえ、アレン」
「ん」
「私、今日、怖くなかったわけじゃないんだ。……でも、怖いのと同じくらい、嬉しかった。渡れたことが、嬉しかった」
「わかる」
「お姉ちゃんは?」
「俺は――正直、水が嫌いになりかけた」
二人で笑う。
その笑いの後に、静かに言葉が落ちる。
「でも、渡るよ。北へ」
「うん。私たちの矢は、もう後ろを向かないから」
階下で、セラフィナとミュリエルの声が微かに混じる。
「結び目は、これでいい?」
「いい。――お前の祈りは、よく効く」
「ほんと?」
「ああ」
短い会話が、夜気の中で溶けていく。
俺は手すりを握り、暗い川面を見下ろした。
礼拝堂の祈り。大河の流れ。漂着の村の灯り。
全部が一本の線になって、北へ伸びている気がする。
「行こう」
誰にともなく呟いた。
それは、俺自身への返事でもあった。
――夜が明けたら、俺たちは“漂着の村”へ向かう。
そして、その先にいる“黒い外套”と“魔王軍の残党”の痕跡を追う。
新たな決意は、もう言葉じゃない。足と手で、確かめに行く。




