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新たな決意

 礼拝堂の欠片は、朝の光を受けて薄い虹を床に落としていた。

 俺たちは崩れた椅子を片づけ、最後にもう一度だけ祭壇へ頭を下げる。ここで交わした祈りと告白を、背に載せて歩いていくために。


「行こう」

 セラフィナが短く言い、俺たちは雪の尾根に出た。風はやや南へ流れ、空は薄い乳白。雪雲の切れ間から、平原が遠くに淡くのぞく。


 尾根をひとつ越えて、雪が薄くなりはじめたところで小休止を取った。白樺の陰に風除けを作り、湯を沸かす。指先が温まり、呼吸に余裕が戻ると、心の奥のざわつきも少し沈む。


「……ねえ」

 リリアが火を見つめたまま口を開いた。「私、決めたよ」

 俺は顔を上げる。ミュリエルも杖を抱え直し、セラフィナはさりげなく周囲を一瞥してから輪に戻った。


「兄さの冬を越えられたの、昨日でやっとわかった。怖くて逃げた私が、前に出せた。だから――今度は“私の矢”で、魔王の残滓を射る」

 リリアの声にはもう震えがない。「勇者に頼るんじゃなくて、勇者の隣で」

 隣、という言葉が、胸のひだに静かに引っかかる。


「私は、祈る」

 ミュリエルが続ける。「あの夜から祈りが怖かったけど、違った。祈るのは、誰かが前に出るための合図なんだって知ったから。……お姉ちゃんの隣で、ずっと祈る。魔王の夜の欠片かけらを見つけて、封をする」

「うんうん、よろしく頼む」

「はい、任せてください、アレンお姉ちゃん勇者!」

「最後の三文字は減らせ」


 セラフィナは火ばさみで薪の位置を直し、わずかに顎を下げた。

「私の剣は、復讐から始まった。魔王の戦で家族と主を失い、剣に誓った。だが復讐は剣を濁らせる。……今は違う。復讐の先に残った“夜”を絶つ。王都の剣に誇りを取り戻すためにも、魔王の残滓を断つ」

 短い言葉の一つひとつが刃の重さを持って落ちる。

「それが、私の決意だ」


 三人の視線が自然に集まる。最後は、俺だ。


「俺は――」

 言葉を探して、吐息と一緒に白くこぼれる。「勇者じゃない。今も、たぶん明日も名乗るつもりはない。……でも、たとえ名がなくても、前に立つことはできる。呪いを解くためにも、魔王の残滓を討つためにも、前に立つ。お前らの隣で」

 ミュリエルの顔がぱぁっと明るくなる。リリアが照れくさそうに笑い、セラフィナは「それでいい」とだけ言った。


 火がぱちりと弾ける。

 俺たち四人の視線が、同じ方向へ揃った。

 王都でねじれた名や、礼拝堂に残った夜の影に引かれるのではなく、自分たちの足で選んだ一歩。そこに名は要らない。


「進路、確認する」

 セラフィナが地図を広げ、指先で北西へ線を引く。「大河を越える。氷は割れて流れ始めているはずだ。橋はない。筏を組んで渡る」

「筏か……」

 リリアが口笛を吹く。「昔、兄さと小川でやったやつの、でかい版だ」

「やったことあるの?」

「小川だって言ってるでしょ」

 俺は思わず笑ってしまう。ミュリエルは目をきらきらさせ、「やってみたいです!」と身を乗り出した。


「渡河点はこの峡谷の屈曲部だ。流れが一時的に緩む」

 セラフィナの指が地図上の狭窄を叩く。「天候が荒れたら中止。岸際を先行偵察し、強い流れと渦を見つけたら経路を修正する」

「了解」


 火を落とし、雪を被せる。痕跡は最小限に。

 俺たちは斜面を下り、雪の縞が切れて草の匂いが戻ってくる帯へ入った。斜面の影に春の芽吹きがうっすら覗き、大河の轟きが低い雷みたいに地面から伝わってくる。


 最初に流れが見えたのは、午後が深くなった頃だった。

 谷の幅いっぱいに、黒く重たい水が走っている。雪解けを飲み込んだ流れは太く、早い。氷は砕け、岸を擦りながら流木と一緒に回る。遠目にも渦が何本も立っているのがわかった。


「ここだ」

 セラフィナが岸のえぐれた藪を見て頷く。「材は……充分あるな」

 流木、岸へ打ち上げられた古い丸太、折れた白樺。ロープは携行の麻縄に、ヤナギの若枝を合わせて補強する。結束はリリアが得意だ。

「船乗り結び、じゃなくて“兄さ結び”。昔、すぐ解ける輪と、絶対解けない輪を教えてもらった」

「後者を多用してくれ」

「了解!」


 俺は丸太の配置と荷重を考え、浮力の偏りを抑えるために短い材を間へ噛ませる。ミュリエルは手の皮を真っ赤にしながらも必死に紐を引き、結び目に祈りの言葉を一つずつ落としていく。「ほどけない、ほどけない……」

「おまじないも強度に含めていいのか?」

「たぶん、ちょっとだけ!」


 日が傾く頃、どうにか四人と荷を載せられる筏が形になった。

 俺たちは互いの装備の締め直しを確認し、最後に目で合図を交わす。

「渡る」

 筏が水に落ちた瞬間、腹の底がふっと浮く。思っていたより、速い。


 岸の浅瀬で一度流れを掴み、オール代わりの竿と板で角度を調整する。セラフィナが前、俺が後ろ。リリアは右舷、ミュリエルは左舷でバランスを取る。

 川は生き物だ。言葉を持たない怒りと気分で、こちらの小賢しさを笑い飛ばす。

「正面、渦!」

 リリアの声で、俺は竿を強く押し込んだ。筏がぐらりと傾き、縛り紐がみしりと鳴く。

「ミュリエル、祈りの帯を右!」

「《導きのガイド・リボン》!」

 彼女の祈りが水面すれすれに白い筋を描き、筏の鼻先をほんのわずか押してくれる。物理法則をねじ曲げるほどの力はない。だが、その“わずか”が進路を決める。


 流れの速い帯と緩い帯を縫うように進む。

 対岸は、近い。だが、簡単ではない。

 ここで俺たちは全員、同じ像を胸に持てているのが救いだった。――“あの夜”の欠片を追って北へ。魔王の残滓を討つ。そのために、この川も越える。


 日が山の背にかかり、影が水を濃くした時、風が一段立ち上がった。

 空の端から鈍い雲が走ってくる。

「まずい。前線が落ちる」

 セラフィナが短く言い、俺も頷く。水面がざわざわと立ち、波頭が白く泡立つ。

「進路、右二十!」

「了解!」

 竿を押す腕に、逆風がまとわりつく。筏が一瞬、風上を向いて失速した。

 その一拍で、下流の渦が口を開け、すべてを飲み込もうと広がる。


「伏せろ!」

 俺は叫び、身を低くした。水が筏を跨ぐ。ロープが悲鳴をあげ、結束が軋む。

「持って!」

 ミュリエルが両腕でロープを抱きしめ、歯を食いしばる。リリアが片足を滑らせ――

「リリア!」

 体が外へ振られた瞬間、俺は反射で腰のロープを掴んで飛んだ。指が焼ける。水が肺に凶暴に侵入し、世界が一度裏返る。

 次の瞬間、ぐい、と強い力で引き戻された。セラフィナだ。片手で俺のロープ、もう片手でリリアの襟首。

「離すな!」

 彼女の声は風に裂かれた。俺はロープを二重に巻き、手の皮が剥けるのも構わず締め上げる。リリアが咳き込み、息を吐き、再び板を取る。


「左舷、持ち上げる!」

 俺とセラフィナが同時に体重を移した。筏が斜めに持ち上がり、渦の縁を乗り越える。

 風が吠える。雨が混じってくる。

 対岸は、もう目の前だ。岸の藪が黒い牙をむく。


「突っ込む。衝撃!」

 セラフィナが叫び、俺は荷を押さえ、ミュリエルは祈りの帯を最後の一押しに変えた。

 ――どん。

 筏が岸へ乗り上げ、材がきしんでばらける。俺たちは泥と水と草の匂いを一気に浴び、斜面を転がるように岸へ這い上がった。


 雨。冷たい雨。

 息が荒く、肺が痛い。手は血と泥で赤黒く、ロープの痕がくっきり残っている。


「生存確認!」

 セラフィナが息を整えながら声を飛ばす。

「いる!」リリアが咳の合間に手を挙げる。

「います!」ミュリエルもぶるぶる震えながら笑った。

「……俺もいる。髪の毛まで水だが」

「いつもふわふわだから、今日はぺたんこですね」

「言わなくていい!」


 笑いが出たところで、安心が少し遅れて届く。

 だが油断はしない。雨は強くなり、川の音に混じって別の音――人の足音が近づいてくる。


「誰だ!」

 セラフィナが半身を起こす。茂みの向こうで灯りが揺れ、粗い毛皮をまとった人影が二つ、三つ。

「おい、大丈夫か! どこから流れてきた!」

 荒い声。敵意はない。俺は肩で息をしながら答えた。

「向こう岸から……筏で……」

「こんな時化しけに、物好きな! とにかくこっちだ、体を温めねえと死ぬぞ!」


 強い腕が俺の肩を支えた。

 そのまま俺たちは泥の斜面を登り、低い屋根の影――灯りが一つ、二つと並ぶ集落の輪の中へ吸い込まれていった。


 最後に振り向くと、黒い川が牙を鳴らしていた。

 渡った。俺たちは渡った。

 次は――この先で、何を掴むかだ。

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