ミュリエルの祈り
峠を越えた先の斜面は、雪の縞模様が切り立った岩肌を縫うように続いていた。
白樺がまばらに立ち、風は乾いた鈴のような音で枝を鳴らす。陽は傾き、空の色は硝子のように薄い群青へ沈んでいく。
「見えた」
セラフィナが前を指さす。
岩棚の上、崩れかけた尖塔が一本、空の糸に引っかかった針のように立っていた。壁は半分落ち、屋根は雪に埋もれている。巡礼路の終着にあったと伝わる、古い礼拝堂の跡――かつてこの山脈を越える者たちが最後に灯をともした場所だという。
俺たちは雪を踏み分けて近づき、半ば埋もれた扉口から中へ入った。
外よりも冷たい。石の匂いと古い灯油の匂いが混ざり合い、吐息が白く、ゆっくりと漂う。割れたステンドグラスの欠片が床に散らばり、夕陽を受けて、落ちた星みたいに淡い色を返している。祭壇は欠け、聖像は首から折れ、胸元の円形飾りだけが辛うじて輪郭を保っていた。
「ここ、好き」
ミュリエルがぽつりと言った。杖を胸に抱えたまま、崩れた椅子列の間をそっと歩く。
「……静かで、でも、誰かが“おかえり”って言ってくれるみたいな匂いがする」
リリアは入口近くに罠紐を張り、セラフィナは風下側の割れ目から外を見張る。俺は崩れた長椅子を寄せ、火打ちで小さな焚き火を起こした。乾いた木くずがぱち、と小さく弾け、橙の輪が石壁に揺れる。
火が落ち着いた頃、ミュリエルは祭壇の欠片の前に膝をついた。
杖の頭に宿した小さな光を、掌に移す。彼女の指は少し震えていたが、声は澄んでいた。
「――導きの御名において。行く者の足を温め、留まる者の胸を支え、戻らぬ者に道を。……どうか、私たちの歩みに、明かりをください」
祈りは、雪解け水が石を伝うみたいに、静かに、途切れず、広がっていった。
焚き火の音さえ遠くなる。俺たちは無言で耳を傾け、彼女の声が礼拝堂の割れ目に吸い込まれていくのを見ていた。
やがて、ミュリエルはゆっくりと目を開けた。
炎の明かりのせいだけではない、薄い赤みが瞳の縁に残っている。
「……ありがとう」
彼女は祭壇の欠片に小さく頭を下げ、それからこちらを振り向いた。
「ここで、話してもいい?」
ミュリエルは俺たち三人の顔を、順に見る。「ちゃんと、言葉にしたくて」
リリアがうなずき、セラフィナは見張りの姿勢を崩さないまま「聞いている」と視線で告げた。俺は焚き火に小枝を一本足し、「もちろんだ」とだけ言った。
ミュリエルは息を整え、頬にかかった髪を耳にかけた。
「……私、前に“家族を魔物で失った”って言ったよね。あれ、本当。でも――それだけじゃ、ないんだ」
礼拝堂の外で、風が一度だけ強く鳴いた。
彼女は目を伏せ、吐息で白い輪を作るように、ゆっくり言葉をつないだ。
「私の村は、ずいぶん昔から小さな礼拝堂を守ってたの。お祭りの日には、鐘を鳴らして、灯りを持って山を一周して。……ある年、巡礼の人たちが、いつもより多く来たの。黒い外套で、顔を隠して、夜にしか動かない人たち」
声が、少しだけ低くなる。
「村のみんなは“遠くからの参拝者だ”って歓迎した。でも、その夜、鐘楼の地下――封印の石が割られた。……“古いもの”を取り出すために」
「古いもの?」
リリアが押し殺した声を漏らす。
ミュリエルは小さく頷いた。「祭壇の下に眠ってた、黒い欠片。……“魔王の夜”に砕けた、と伝えられてる、なにか」
礼拝堂の石が、ひやりと背中に貼り付くような気がした。セラフィナの肩がわずかに動く。
「封印が割れた夜、森から“音”が来た。大勢で笑ってるみたいな、でも泣いてるみたいな、嫌な音。……魔物が、押し寄せた。家が燃えて、鐘が落ちて、父さんと母さんが、私の手を引いて走って。途中で、父さんが言ったの。“振り返るな、祈りを口にして、前だけ見ろ”って」
ミュリエルは喉の奥で一度だけ息を詰まらせ、続けた。
「でも、私……振り返った。泣いてる人がいたから。……その瞬間、屋根が崩れて、父さんと母さんは――」
言葉は途切れ、音にならない。
焚き火の明かりが小さく揺れ、割れたステンドの欠片に赤い線を描いた。
俺は彼女の傍に膝をつき、何も言わず、ただそこに在ることにした。慰めの正解は、少なくとも俺の中にはない。けれど、隣にいるという事実だけは、言葉より確かだ。
「……助かったのは、鐘楼の脇にいたから。倒れた梁の隙間に、押し出されるみたいに転がって」
ミュリエルは掌を胸に当てる。「その時、見たの。黒い外套の人の指輪。銀で、輪になった蛇が自分の尾を噛んでる模様」
セラフィナの目が、わずかに細くなった。「……蛇が尾を噛む輪。王都の古い文献に出る。禁術を扱う連中が好む印だ」
宰相の陰が、いよいよ濃くなる。もしくは、その陰に潜む、別の“夜”の匂い。
「その夜からずっと、祈りは私にとって“怖いもの”だった。だって、祈ったのに、誰も助からなかったから。……だけど、お姉ちゃんたちに会って、変わったの」
ミュリエルが俺を見た。まっすぐで、子どもみたいに真剣な目だ。
「森で倒れてた私を、リリアさんが笑わせてくれた。セラさんが剣で守ってくれた。お姉ちゃんは、私の手を引いてくれた。――“振り返るな、前だけ見ろ”って、ちゃんと言ってくれた」
「……言った、かもな」
照れ隠しに頭をかく。けれど、胸の奥がきゅっと縮まる。俺なんかの言葉でも、誰かの中に残って、灯りになる時があるのか。
「だから、祈りが怖くなくなった。祈っても誰も助からないんじゃないかって思ってたけど……違った。祈りは“魔法”じゃない。祈ったから全部が良くなるんじゃなくて、祈ることで、自分が誰かのために動けるようになるんだって、今は思える」
ミュリエルは拳を握り、小さく掲げた。「私は、最後まで行く。お姉ちゃんが“勇者じゃない”って言っても、私にとっては勇者だから。――だから、最後まで、お姉ちゃんの隣で祈る」
胸が、痛いほど温かくなる。
言いかけた言葉は、喉でほどけた。代わりに、俺は彼女の額に指先でそっと触れた。
「ありがとう。……ミュリエル」
リリアがふっと笑い、ミュリエルの背を軽く叩いた。「ね、やっぱり“お姉ちゃん勇者”で合ってるでしょ」
「認めない」
「認めてる顔だよ」
「うるさい」
セラフィナが視線だけで合図を寄越す。外は静かだ。風の層が少し変わり、雪雲が尾を引きはじめている。今夜はここで休むのが賢明だろう。
「交代で休め。……明日、尾根を伝って西へ。巡礼路の碑を拾う」
「碑?」
「勇者伝承に名だけ残る“碑”。各地の礼拝堂が道標として置いた石板だ。呪いの出所――魔王の“夜”に触れた何かに、繋がる可能性がある」
焚き火に細い枝を足しながら、俺はミュリエルの方を見た。
「ウロボロスの指輪。追う価値はある」
セラフィナが短く頷く。「宰相の周辺記録に似た文様の記述はない。だが、彼が王国の古文書庫を意のままにしているのは事実だ。糸は、どこかで繋がる」
沈黙が落ちる。重い沈黙ではない。踏み出す前の、足袋の紐を結び直すみたいな、静かな間だ。
リリアが寝具のロールを肩から下ろし、「今のうちに仮眠しよ」と笑う。
ミュリエルは祭壇に小さく会釈してから、焚き火のそばに丸く座った。瞼が重そうだ。祈りは体力を使う。彼女の祈りは、誰かのための筋肉だ。
◇
夜半。交代の見張りで目を開けると、礼拝堂は薄い青に沈んでいた。
焚き火は炭火になり、赤い芯が息をすると小さく明滅する。入口の割れ目から、雪明かりが帯のように床を渡り、割れたステンドの欠片を淡く光らせていた。
隣で、ミュリエルが小さく体を丸めて眠っている。
彼女の呼吸は穏やかだ。杖は手の届く範囲に置かれている。祈りを仕事にする者の癖。眠っていても、誰かが呼べばすぐ立てるように。
「……眠れないのか」
背後から低い声。セラフィナが石壁にもたれ、外を見ている。
「少し、な」
「私もだ」
彼女は短く肩を回し、固まった筋を解す。「王都で剣を引いたあの男――レオナルト。彼が握っていた剣の角度と、今語られた“輪の蛇”の印。……どちらも、正面から斬り結ぶより、裏で絡め取ることを好むやり口だ」
「嫌な符合だ」
「だからこそ、道は選ばねばならない。王都に戻るのは、今ではない」
俺はうなずき、眠る二人を見やる。
リリアは弓を抱いて眠り、ミュリエルは祈りが溶け残ったみたいに、口元に微かな笑みを乗せている。
守りたい。それは“勇者の義務”なんかじゃなく、俺自身の希望だ。勇者じゃなくても、選べる希望。
「……セラ」
「なんだ」
「ありがとな」
彼女は驚いたように瞬き、すぐに顔をそらした。「礼を言うほどのことではない。私は剣を振るう。それだけだ」
けれど、わずかに口の端が緩んだのを、俺は見逃さなかった。
◇
明け方、風が弱まり、空の群青に乳白色の筋が差しはじめる。
礼拝堂の壁に開いた割れ目から、最初の光が差し込んだ。割れたガラスの欠片が、短い虹の切れ端を床に落とす。
ミュリエルが目を覚まし、ぼんやりとそれを見つめ、ふっと笑った。
「ねえ、お姉ちゃん」
「ん」
「私、祈るよ。怖い夜も、嫌な音も、ぜんぶ飲み込んで、祈る。――だって、祈った後で、お姉ちゃんが前を向くの、もう知ってるから」
胸の奥で、何かが静かに、正しい場所に戻る感覚がした。
「俺は勇者じゃない」
「うん」
「でも、前に立つ。お前たちの隣で」
「うん。だから、私の中では勇者」
どう足掻いても、そこは変わらないらしい。
俺は降参の息をつき、彼女の頭を軽く小突いた。「行くぞ。碑を探す」
「はーい、了解です、お姉ちゃん勇者!」
リリアが肩をすくめて笑い、セラフィナは「出立」と短く告げた。
俺たちは礼拝堂の欠片に一礼し、雪の外へ出る。踏み出した足が、薄い氷をぱりと割る。音は軽い。けれど、確かに前へ。
背後で、崩れた尖塔が朝の空気を吸い込み、静かな影を落とした。
ミュリエルの祈りは、礼拝堂の石に染み込む雨みたいに、ここに残るだろう。
けれど彼女の誓いと、俺たちの決意は、ここには置いていかない。連れていく。次の峠へ。次の“夜”へ。そして――“碑”の先にある、呪いの中心へ。
雪がきしむ。空が明るむ。
俺たちは歩き出した。




