再び立ち上がる
狼たちが雪面に黄金の点を散らした瞬間、空気の層が変わった。
頬を撫でる風が僅かに東へ捻れ、雪の匂いが鋭くなる。リリアが白樺の幹に足を掛け、弓を半身で引いた。
「風は、味方」
彼女の声は、十年前の冬に置き去りにしてきた何かへ届くように、静かで、まっすぐだった。
最初の矢は殺さない矢だ。狼の右眼の外側を掠め、毛皮を散らして滑る。二の矢は雪面に落ち、狼の蹄をわずかに取らせる。
群れの進路が、白樺の列から西の沢へと、ゆっくり、しかし確実に曲がった。
「囮、行く!」
リリアが雪を蹴る。
彼女の背に、俺は短く答えた。「正面、受ける」
セラフィナは柵の切れ目に立ち、男衆を指で散らす。「二列で交互に出る。膝を抜くな。打つのは喉ではない、肩だ」
ミュリエルは門口に祈りの環を結び、子どもたちの前に両手を広げた。「ここは聖域。誰も通さないから」
――咆哮。
群れの頭が雪煙を割って現れた。片耳の裂けた巨躯、左肩の古傷はまだ塞がりきっていない。
俺は一歩踏み出す。女の体は軽い。地を噛む角度が男だった頃と違う。だが、その軽さは、前に出るための“速さ”でもある。
「来い」
牙が閃く。
受けない。誘う。刃を落として懐を開け、肩を擦らせ、体重を横へ流す。俺の背中――そのさらに後ろ、戸口で震えていた少年と目が合った。少年の瞳が、ほんの一拍で恐怖から驚きに変わる。俺はそこに立っている。前に立っている。
「左、浅い!」
リリアの声。
雪面を蹴る音と同時に、彼女の矢が再び空を裂いた。矢尻に結んだ赤い紐が、頭の左肩胛の上で小さく踊る。俺はそこへ刃を差し入れ、骨を避けて筋を断つ。
巨体が雪に沈む。群れがざわりと揺れた。
だが――終わりではない。
沢へ誘導された後続が、狭い雪庇の縁に列を作る。十年前、シウラを呑み込んだ白い天板と同じ仕組み。
リリアは風を読むように視線を漂わせ、矢を一本、また一本と縁へ置いていく。直接は狙わない。薄皮にささやくような振動だけを与え、亀裂を育てる。
「兄さ――見てて」
誰にともなく呟いた彼女の矢が、三本目で雪の音を変えた。
ばくり、と低い破裂。白い皿がゆっくり回転し、その上にいた三頭が、まるで導かれるように西の沢へ滑り落ちていく。吠え声はすぐに、遠い雪のざわめきに紛れた。
群れの均衡が崩れた。
セラフィナが柵から一歩踏み出し、先頭の脇腹へ柄頭を叩き込む。男衆の棒が続き、狼の肩を順に打っていく。殺さない、折るだけ。
ミュリエルの結界が門前で淡く揺れ、飛び込もうとした一頭の動きを半呼吸遅らせる。その一瞬の遅れに、リリアの矢が喉の下を横切って、血ではなく息だけを奪った。
頭が、なおも立ち上がる。
しぶとい。だから頭だ。
俺は雪の反動を借り、もう一度、左肩の古傷へ踏み込む。
「終わらせる!」
刃が筋を断ち、脚が沈み、巨体が音もなく白に倒れた。
――静寂。
冷たい風の音に、囲炉裏の薪が弾ける幻が重なる。俺の喉が乾いた。
次の瞬間、狼たちは、音もなく散った。残った黄金の点が、森の陰でひとつ、ふたつ、三つ……やがて見えなくなる。
力が抜けた。膝までの雪に、舌打ちのように息が落ちる。
「アレンさん!」
ミュリエルが駆け寄り、癒やしの光を肩へ流してくれた。掠った牙の痛みが、温かい水にほどけるみたいに遠のく。
「無茶、しないって……言ったのに」
「お姉ちゃん比で、今日はかなりおとなしかっただろ」
「それ、褒められません!」
セラフィナが周囲を見渡し、顎だけで西の沢を示した。「見事だ、リリア」
リリアは弓を握りしめたまま、雪庇の壊れた縁を振り返った。
長屋の影から、子どもが一人、二人と駆け寄ってくる。「リリねえ!」
リリアは笑って膝をつき、頭を撫でた。目尻に溜まっていたものが、雪より温かい筋になって頬を下りる。
◇
その夜、シウラの囲炉裏は久しぶりの賑わいで鳴った。
干し肉と芋の鍋に、保存していた獣脂の欠片を落とすと、湯気に厚みが出る。男衆は塩気に目を細め、子どもらは「もう一杯!」と空になった木椀を差し出す。
リリアは矢羽根を乾かしながら、囲炉裏の向こう側――長のウルガに向き直った。
「ウルガ爺ちゃん。……私、逃げたんじゃないよね」
問いというより、確かめだ。
ウルガは白い髭の奥で、深く頷いた。「生き延びた。生き延びた者の肩に、次の冬が乗る。今日、お前はその冬を一つ、前へ進めた」
その言葉は、十年前から彼女の胸の奥に刺さっていた棘を、するりと抜いた。
俺は鍋底をさらいながら、リリアの横顔を盗み見た。
彼女の弦を引く指は、もう震えていない。
「アレン」
気づけば、彼女の視線がこちらに向いていた。
「ありがと。……正面、任せてごめん」
「お前が道を開けてくれた。俺は前に立っただけだ」
「ううん。前に立ち続けるのは、誰にでもできないよ」
言い返そうとして、やめた。素直に飲み込む。焚き火の炎が、胸のどこかをやわらかく撫でた。
ミュリエルは子どもたちに祈りの輪の作り方を教えている。指の動かし方はたどたどしいのに、言葉の一つ一つは不思議と人を安心させる。
セラフィナは男衆の棒の握りを直し、踏み込みの角度を体で示していた。「足の裏に雪を感じろ。お前の重さは、ここだ」
彼女が笑うのを、俺は何度見ただろう。数えられるほどしか見たことがないはずなのに、今夜は確かに、口元がやわらいでいた。
◇
深夜、見張り台。
雪は止み、星の粒が凍った針金のように空に張りついている。俺とリリアは交代の合間、少しだけ言葉を交わした。
「十年前、私は音に飲まれたの」
リリアが空を見上げる。「雪の割れる音、風のうなる音、狼の爪が柵を引っかく音。全部が混ざって、頭の中が真っ白になった。……今日ね、同じ音がしたのに、ちゃんと矢が前に出た」
「前に出したのは、お前だ」
「うん。兄さが後ろから押してくれた気もするけど、足を前に運んだのは私」
彼女は弓の弦を軽く鳴らした。短い、澄んだ音。
「この音、好き。怖い音じゃない。私が選んだ音だから」
雪面が、かすかに鳴った。
遠く、森の底で狼の声が一つ。呼応は戻らない。群れは、今夜だけは近づかないだろう。
「明日には、峠を越えよう」
俺が言うと、リリアは頷いた。「うん。……送らせて。皆に、ちゃんと“行ってきます”する」
◇
出立の朝。
シウラの人々が柵の外まで見送りに出た。子どもらは毛皮の縁から鼻だけ出し、かじかんだ手を振る。「リリねえ、また来てな!」
長のウルガが俺に近づく。「勇者でなくて良い、と言ったな」
「ああ」
「ならば――戻ってこい。名ではなく、顔でな」
「約束する」
リリアが一歩前に出て、村全体に向けて深く頭を下げた。
「ただいま、と言えたから、今度はちゃんと、行ってきます」
彼女の声に、白い息が重なる。「行ってきます」「行っておいで」
その往復に背中を押されるように、俺たちは雪の斜面を登りはじめた。
尾根に取り付く頃、風がまた向きを変えた。
セラフィナが地図を折りたたみ、指で北西を示す。「峠を越えた先に、古い礼拝堂の跡があるはずだ。巡礼路の廃墟だが、夜を凌げる」
「礼拝堂……」ミュリエルが小さく息を飲む。「行ってみたいです。ずっと、胸に引っかかってる祈りがあるから」
俺は頷いた。「行こう」
シウラの囲炉裏の温かさが、もう背中越しの幻になっていく。
振り返らない。前に出る。
俺たちは、再び立ち上がった仲間と一緒に、雪の向こうの空へ向かった。
その先で――祈りの場所が、俺たちを待っている。続く冬を越えるための、小さな灯りのような場所が。




