リリアの過去
集落の名は、シウラ。
白樺の柵と石塀で雪を防ぎ、家々は斜面に背を預けるように建っている。老人――長のウルガは俺たちを共同の長屋へ招き入れ、囲炉裏に火を足した。雪まみれの外套がじりじりと乾く音が、やけに大きく聞こえる。
「……よく戻ったな、リリや」
ウルガの目尻に、雪とは別の水がきらりと滲む。
リリアは膝の上で指を重ね、ぎこちなく笑った。「ただいま、ウルガ爺ちゃん」
囲炉裏を囲む者たちのさざめきが広がる。
「本当に……」「リリやが……」「都会へ行ったきりだと……」
その間に、ミュリエルが湯を温め、俺は干し肉と芋を刻んで鍋に落とす。セラフィナは入口に立ち、外の気配を見張っていた。
「……ここがリリアの生まれ故郷だったとはな」
俺が小声で呟くと、リリアは肩をすくめた。
「言ってなかった。……言えなかった、が正しいかな」
火の粉がひとつ跳ね、彼女の瞳に朱が灯る。
「リリやが山を下りたのは十年前だ」
ウルガがゆっくり語りはじめる。「あの冬は雪が多かった。狩り場が閉ざされ、狼が里へ近づくようになってな……」
囲炉裏の向こうで、若い女が唇を噛む。「兄さ……あの人が、守ってくれた冬」
リリアが小さく目を伏せる。
「……兄、いたんだな」
彼女は頷いた。「カイ。私より三つ上。弓が上手くて、優しくて、怒るときはすごく怖くて」
微笑みかける口元が、すぐ震えた。
「狼の群れが、夜、柵を破った」
ウルガの声が低くなる。「男衆が走り、女らは戸を打ちつけて火を絶やすまいとした。……雪庇が折れたんだ」
雪の音が耳の奥で蘇る。さっきの斜面の崩落が、彼らの記憶の底にも刻まれている。
若い女が言葉を継いだ。「兄さ、私らを庇って……リリやを突き飛ばして、呑まれていった」
囲炉裏の火がぱち、と音を立てる。
リリアは膝の上の拳を固くした。「私が、足を止めたから。――ぽかんと口を開けて、空の音を見てたから。だから、兄は……」
胸の奥がゆっくり、痛む。
(……あの癖。戦いの最中に空を一瞬見上げる癖。風の層を読む“矢の人”の癖。もしかして、それは)
俺は何も言わずに、鍋をかき混ぜた。塩と山椒の匂いが立ち上がる。鼻の奥が熱いのは、煙のせいだけじゃない。
「それからリリやは、山を下りてしまった」
ウルガが続ける。「山は嫌だ、雪は嫌だ、と言ってな。……だが、弓だけは捨てなかった」
リリアが小さく笑った。「捨てられないよ。兄の形見だもの」
彼女は背から弓を外し、手のひらで撫でた。「カイが教えてくれた。“風は味方だ。よく見ろ”って」
ミュリエルがそっとリリアの肩に手を置いた。「リリアさんは、逃げたんじゃないです。……生き延びたんです」
幼い言葉。でも、真実だ。
セラフィナが入口から振り向き、短く言う。「生き延びた者だけが、次を守れる」
リリアは目を伏せ、唇を噛んで、それから顔を上げた。
「……うん」
鍋が煮え、木椀に注ぐ。
「いただきます」
四人の声に、シウラの人々の声が重なった。温かいものが喉を通るたび、張り詰めていた糸が一本ずつほどけていく。
スープの湯気越しに、ウルガが俺を見た。「あんたが“勇者”か」
言葉に棘はない。ただ、確かめるような視線。
俺は首を横に振る。「俺は勇者じゃない。けど、仲間を守って戦う者だ」
ウルガはふむ、と頷いた。「それでいい。ここでは名前より、手が大事だ。狼が出る。手を貸してほしい」
「もちろん」
俺が答えるのと同時に、リリアが一歩出た。
「私にやらせて。……兄の冬を、もう一度越える」
その声には震えがなかった。
その夜、俺たちは集落の外縁に杭を打ち、柵の弱い箇所を補強し、見張りの交代を決めた。
リリアが子供たちに弓の握りを教え、ミュリエルは祈りの輪を家々の門口に結ぶ。セラフィナは男衆に斬り払いの所作を、俺は雪面の踏み方を。
気づけば、笑い声が戻っていた。子供に「姉ちゃん」と呼ばれ、リリアが照れくさそうに笑う。どこかで「お姉ちゃん勇者」という囁きが混じる。やめろ、顔が熱い。
深夜。見張り台で、リリアと二人になる。
頭上には星。雪明かりが世界を淡く染める。
「……ここに戻るのが、怖かった」
リリアがぽつりと言った。「でも、戻ってよかった。怖いのはずっと、私が逃げてたからだってわかったから」
俺は欄干にもたれ、白い息を吐く。「逃げるのも戦いだ。逃げた先で、生きて、守った。それを誰も否定できない」
リリアは笑った。火の光が睫毛に小さく宿る。「ねえ、アレン」
「ん」
「私、明日……狼を引き受けるよ。囮になる。風を使って、群れを西の沢へ落とす。あそこなら雪庇が多い」
「危ない役だ」
「危ないのはわかってる。だけど、私だけができることもある。――兄さの矢を、今度はちゃんと、前に向けたい」
言葉に嘘はない。
俺は頷いた。「わかった。なら、俺は正面だ」
リリアの目が少しだけ丸くなる。
「頭は折る。お前が切り開いた道で、俺たちが終わらせる。……それが“仲間”だ」
彼女はゆっくり頷き、弓の弦を指で鳴らした。短く、澄んだ音。
「ありがと。――頼りにしてるよ、“お姉ちゃん”」
やめろ、そう呼ぶな。喉元まで出かかった言葉は、夜気に消えた。
悪くない。今は、悪くない。
明け方。東の空が灰色に薄まりはじめる。
シウラの柵の外、雪面に黄金の点が二つ、三つ……やがて十。
狼たちが、戻ってきた。
「位置につけ!」
セラフィナの声に、男衆が杭の陰に伏せる。ミュリエルが結界の輪を広げ、子供たちは戸の影で息を潜める。
リリアが白樺の上段に跳び、弓を引いた。
「風は、味方」
彼女の呟きが、雪明かりに溶けた。
最初の矢が、空気を割る。狼の目の横、毛皮を掠める“誘い”の矢。
群れが動き、彼女は斜面を駆けて西の沢へ導く。俺は正面へ出て、頭の進路を遮った。
――兄の冬は、繰り返さない。
今日の冬は、俺たちが越える。




