追っ手との戦い
夜気は刃のように冷たく、肺の奥まで刺さった。
城外の導水路から這い出た俺たちは、濡れた靴を鳴らしながら、西区の裏路地をひた走る。頭上では鐘の合図が重なり、王都の夜が一気に目を覚ましていく。
「合図が三つ……外郭の巡回が倍に増えるわ」リリアが耳をそばだてて囁く。
「南の市壁は封鎖される。――西の丘陵へ抜けるには、河沿いを渡るしかない」セラフィナが短く判断を下す。
ミュリエルは杖を胸に抱き、震える呼吸を整えながら《沈黙》の祈りを切れ目なく繋いでくれた。足音が石畳に吸い込まれていく。
角を曲がった瞬間、鎧の列が灯りを掲げて現れた。
「そこまでだ!」先頭の騎士が槍を構える。
俺は反射的に身をひねり、壁面に跳ね上がる。雨どいを蹴って屋根へ――と、思考より先に身体が動く。女の身体は軽い。だが踏ん張りが利かない。瓦が滑り、足首に痛みが走る。
「アレン!」
「大丈夫だ、先に行け!」
屋根から身を伏せ、下の兵へ砂利を蹴り落とす。ばらばらと降る音に視線が逸れた刹那、セラフィナが路地を横切って突撃した。
「通してもらう!」
低い踏み込みからの一閃。槍の石突を払って間合いを潰し、柄を肩口で弾く。空いた懐に、彼女の肘がえぐるように入った。二人が膝をつき、隊列に隙が生まれる。
リリアの矢が闇を裂く。
硬い金属を嫌うように、矢羽根は継ぎ目を正確に射抜き、鎧の遊環に引っかかって兵の動きを止めた。殺さず、止める矢――彼女の矢はいつだって、必要なだけの痛みしか与えない。
「右だ!」
屋根上から叫ぶと、セラフィナがすぐさま転位。空いた路地へ仲間を押し込むように動き、俺も雨どいを滑り落ちて合流した。
だが、音の層が変わる。
蹄の打音――騎馬だ。
狭い街路に馬影が差し込み、銀の徽章が月光を掠める。先頭に立つ男の顔を見た瞬間、胸の奥がざわついた。
「レオナルト……」
彼は手綱を引き、馬を横向きに止める。出入口を塞ぐ壁のような立ち位置。
「命令はひとつ。――捕らえろ」
静かな声。感情は見えない。だが、わずかに揺れる瞳の奥には、言葉にならない葛藤が灯っていた。
俺は剣を抜いた。
「ここで斬り結ぶ気はない。道を――」
「言い訳は聞かない」レオナルトが馬から軽やかに降り、鞘から長剣を引き抜く。金属が擦れる澄んだ音が、夜を裂いた。
周囲で兵が輪を描く。逃げ道はない。
セラフィナが低く構え、リリアは弦に指をかけ、ミュリエルは俺の背に祈りの光を落とす。
「お姉ちゃん……気をつけて」
「任せろ」
レオナルトが踏み出した。
一歩――それだけで、距離が消える。呼吸より速い間合い。刃が火花を散らし、俺の剣と噛み合った。重い。腕が痺れる。男だった頃に当たり前に受けた重さが、今は骨に響く。
押し負ける――そう思った瞬間、足裏が路地の砂を噛んだ。
後ろに仲間がいる。退く場所はない。
俺は受けから放し、柄を捻って刃筋を滑らせる。力をいなす。レオナルトの視線が一瞬、わずかに細くなった。
「受け流すか。……学んだな」
「お前に叩き込まれたからな」
二合、三合。
打ち合いの中で、彼は徹底して俺しか見ない。仲間を狙わないのは、誇りか、試練か。
刃が交差するたび、肩から二の腕へ、じわじわと重さが溜まっていく。呼吸が乱れそうになる。女の肺は小さく、酸素がすぐに足りなくなる――それでも、立っている。
背で空気が動いた。
別方向から槍が伸び、ミュリエルへ――。
「させるか!」
俺はレオナルトの剣の外側へ踏み込み、刃を叩きつけて軌道をずらす。同時に身体を半身に切り、飛び込んでくる槍の穂先を肩で受けた。
焼けた鉄を押しつけられたような痛み。膝が落ちる。だが、穂先はミュリエルに届かなかった。
「アレンさん!」ミュリエルの手が伸び、温かな癒しの光が肩へ流れ込む。
「治療は後!」リリアの矢が槍の石突を射抜き、兵の握りを弾いた。
セラフィナは一歩で兵二人の間に割り込み、柄頭で喉を突く。殺さない一撃で道を開けると、俺の前へ一瞬、壁のように立ちはだかった。
「下がれ。私は前」
「いや、俺が守る」
俺はセラフィナの肩を軽く押し、レオナルトへ向き直った。
彼の眼差しに、微かな変化が走る。
「仲間を庇うのは、武名でも、称号でもない。……ただの愚直だ」
「それでいい。俺は勇者じゃない。けど――仲間は、俺が守る」
呼吸を整える。目の前の剣先だけを見る。
足幅を半歩狭め、重心を丹田へ落とす。女のしなやかさを、力に変える。
レオナルトが短く息を吐き、斜め下からの鋭い返し。受ければ腕が死ぬ。
俺は剣を落とすように返して刃を重ね、上体を沈めて肩を外へ。剣筋は俺の髪だけを掠め、空を切った。
間合いが空く。そこへ踏み込む――のではなく、俺は半歩、後ろへ引いた。背にいる三人の影を、視界の端に入れる位置へ。
彼の視線がちらりと仲間へ逸れた、その一瞬を逃さない。
踏み込みと同時に、路地の砂を蹴り上げる。月光を飲んだ砂粒が白い雨になって舞い、レオナルトの視界を曇らせた。
俺は真正面ではなく、彼の剣の“死角”、肘の外へ回り込む。柄で手首を打ち、すぐに刃を引く。手応え。
レオナルトは片足を引いて衝撃を逃がし、剣先を落とす。わずかに、彼の頬が笑った気がした。
「……守るために、攻めることを知ったか」
「誰に教わったと思ってる」
周囲の兵が詰め寄る気配。ミュリエルの結界が薄く震える。リリアの矢筒は、もう残り少ない。セラフィナの肩は上下し、汗が顎から滴っていた。
限界は近い。仕留め合う局面じゃない。ここを切り抜け、丘陵へ出る。それだけを考える。
レオナルトの剣が再び上がり――そこで、止まった。
彼は静かに刃を引き、肩で息をする俺を見据える。
「お前が勇者かどうかは知らん」
低い声が、夜の底に落ちた。
「だが……お前は戦士だ。仲間の前に立ってなお、退かない。今夜は――ここまでだ」
周囲の兵がどよめく。「副長! ですが――」
「撤収だ」
短く、切り捨てるような命令。彼は剣をおさめると、目だけで路地の西――丘へ通じる暗がりを示した。
「夜明けまで、市壁の西側は手薄になる。……行け」
言葉の意味を飲み込む前に、彼は背を向けて歩き出した。兵たちは困惑を隠せない顔で見合わせたが、副長の一言に従い、隊列を組み直す。
風が通った。
俺は深く息を吐き、剣を下ろす。肩に残る熱と痺れが、まだ現実に繋ぎ止めている。
リリアが駆け寄り、矢筒を抱え直した。「今の、勝ってたよ」
「勝ってない。――生き残っただけだ」
セラフィナが苦笑した。「それを人は勝利と呼ぶ」
ミュリエルが潤んだ目で、俺の袖をぎゅっと掴む。「お姉ちゃん……!」
「行こう。夜明け前に、丘を越える」
俺たちは路地の闇へ身を滑らせた。背後で、ラッパの遠音が風にちぎれて流れる。王都は俺たちを“逃亡者”と呼ぶだろう。あるいは“偽りの勇者”と。
それでも、構わない。
石段を駆け上がるたび、胸の奥で何かが少しずつ固まっていく。
勇者という名札は、もういらない。俺は俺のままで、守りたいものの前に立つ。それが、今夜の戦いでたしかに掴んだものだ。
やがて市壁の外へ抜ける斜路へ出た。
夜明け前の空が群青にほどけ、東の低い雲が白んでいく。丘陵の稜線の向こうに、まだ見ぬ道が無数に伸びている気がした。
「王都には――戻るの?」ミュリエルが不安げに問う。
俺は立ち止まらない。「今は行けない。俺たちがやるべきことは、別にある」
背後でリリアとセラフィナが目を合わせ、静かに頷く。
丘を越えた先で、風が一段と冷たくなった。
王都の光が遠ざかる。代わりに、薄明のひかりが世界の輪郭をなぞる。
俺は剣の柄を握り直し、呟く。
「……俺は勇者じゃない。けど――仲間と、世界のために戦う」
その言葉は、凍てつく空気の中で白くほどけ、すぐに風に混じって消えた。だが胸の内では、消えずに残った。
やがて小川のせせらぎが道を横切り、獣道が北西へ伸びている。
セラフィナが地図を開き、指で一点を示した。「辺境へ向かうなら、このまま北西。……途中に“碑”がある。勇者の伝承に関わる古い遺構だ」
俺は頷いた。曖昧な称号ではなく、確かな手触りのある“何か”を確かめたい。俺の内に残った魔王の呪い、その正体を。
王都の朝霧が背後から押し寄せ、丘の影を薄くしていく。
「行こう」
四人は歩き出した。
風が新しい旅路の匂いを運んでくる。
――こうして、俺たちは王都を離れた。次に向かうのは、伝承に眠る“碑”。そこで知ることになる。勇者という名ではなく、自分の意思で選ぶ“使命”を。




