軟禁と脱出
湿った石の匂いが、肺の奥にまとわりついた。
王城の地下一角――人を「客」としてではなく、物として保管するために作られた部屋だ。四方を厚い石壁に囲われ、鉄格子の向こうには無表情な兵士が一人。合図の鈴を持ち、視線は氷のように冷たい。
床に腰を下ろすと、背骨まで冷えが上がってくる。
隣でミュリエルが膝を抱え、小さな肩を震わせた。「……ごめんなさい。私が、勝手に……」
「謝るな」俺は首を振る。「お前が声を上げてくれたから、まだここで生きてる」
リリアが鉄格子に近づき、足音の周期を数えるように目を細めた。
「交代は二刻ごと。今は……たぶん宵の二更目」
セラフィナは壁に手を当て、目地をなぞる。指先で何かを探っているようだった。
「この積み方……新しい城壁のやり方じゃない。古い。王城が増築される前の“旧層”だ」
「旧層?」
「城は何度も拡張されている。下に古い構造が残っている場所は、目地の幅と継ぎの向きが違う。――ここ、薄い」
セラフィナが目地に耳を当てる。「風の音がする。裏に空洞があるな。おそらく余水路か点検の通路だ」
俺は鉄格子の兵士を横目で見る。微動だにしない。
「壁を壊せるか?」
「この場で派手なのは無理だ。けど……」セラフィナは髪をほどき、簪を一本抜いた。銀細工の飾り。
「父上に教わった“やり方”がある。目地に差し込んで、楔を内側から落とす」
リリアが口端を上げた。「じゃあ、その時間を稼ぐ」
彼女は腰袋から糸のように細い針金と、小さな小瓶を取り出す。小瓶の中は透明な液体。
「臭いは強いけど無害。藁に垂らすと煙だけよく出る」
セラフィナが簪を目地に差し込み、微かに角度を変えながら押し込む。きぃ、と乾いた音。
ミュリエルが杖を胸に抱え、小さな声で囁いた。「……《沈黙》」
部屋の中の音が一段、遠のく。これなら多少の軋みも外に漏れにくい。
俺はリリアに目で合図を送った。
リリアは藁束の一部に液体を垂らし、火打ち石で火花を飛ばす。燃え広がる前に靴で踏みつけ、あえて不完全燃焼を起こす。白い煙がもくもくと上がり、鉄格子の外に流れていった。
「おい、何だその煙は!」
兵士が顔をしかめ、慌てて格子に近づく。
「下水の逆流かな? 点検呼んだ方が――」リリアが咳き込みながら声を張る。「ごほっ……ひどい臭い!」
兵士は鈴を鳴らして合図を送り、廊下の向こうにもう一人の影が走った。
その隙に、セラフィナの眉がぴくりと動く。「落ちた」
簪を抜いた瞬間、目地の中で“何か”がコトンと落ちる手応え。壁の一部が僅かに浮き、押せと言わんばかりに呼吸をひそめる。
「開くの?」ミュリエルが囁く。
「押し戸だ。古い点検口。力を合わせろ」
俺とセラフィナが肩を当て、リリアが手を添える。ミュリエルはさらに《沈黙》を強めた。
ぎ……ぎぎ、と重たい石が滑り、壁の一部が人ひとり通れるほどの幅で奥へ引いた。そこには真っ暗な隙間と、湿った風。
兵士が振り返る。「おい、中で何を――」
「煙が! こっちも苦しいの!」リリアが咳き込みながらわざと格子に寄り、彼の視線を引きつける。
その間に俺たちは点検口へ身を滑らせた。最後にリリアがひらりと翻り、格子越しに兵士へ笑いかける。
「ほんと、ごめんね」
「は?」兵士が瞬きをした次の瞬間、リリアは点検口に身体を消し、ミュリエルがそっと石板を戻した。
真っ暗。
だがミュリエルの杖先が柔らかな光を灯す。それを遮るように、セラフィナが手をかざした。
「強い光は上に筒抜けだ。ここは……排水と配電の兼用通路。壁のこの線、魔導管の跡。流れに沿っていけば外縁の堀へ出られる」
「さすが、騎士学校の首席」リリアが冗談めかす。
「皮肉は地上に出てから聞く」セラフィナが淡々と返すが、その呼吸は少しだけ軽くなっていた。
俺たちは濡れた石段を、慎重に降りていった。通路は思った以上に複雑で、枝分かれするたびにセラフィナが壁の刻印を読み、方向を示す。
「刻印の間隔と角度で方角がわかる。北は王城、南は市街――外へ出るなら西の堀筋だ」
やがて遠くで水音が大きくなり、鼻腔に冷たい水の匂いが広がる。
途中、格子の嵌った点検窓にぶつかった。外は夜気、闇の向こうに薄い月。
「錠は……内掛けじゃない。外からしか開かない」リリアが眉をひそめる。
「待て」セラフィナが格子の片側を指差す。「この蝶番は古い。――ピン抜きだ」
俺は短剣を取り出し、蝶番の隙間に差し込んでてこの原理で押し上げる。錆びた金属が嫌な音を立て、やがてピンが一本、二本と外れた。
「いける」
格子が内側に回転し、冷たい外気が一気に流れ込む。そこは堀へと繋がる細い導水路で、水面が暗く揺れていた。
「泳ぐの……?」ミュリエルの声が小さく震える。
「大丈夫。流れは緩い。私が先に行く」リリアは迷いなく腰にロープを結び、もう一端を俺に渡す。「もし流されたら、引っ張り上げて」
「任せろ」
リリアは深く息を吸い、無音で水中へ滑り込んだ。数呼吸ののち、反対側の縁にひょいと顔を出す。「こっちは低くなってる。いける!」
俺たちは順に水へ入った。冷たさが骨まで刺すが、短い距離だ。セラフィナは俺が脇を支え、ミュリエルはロープで引き上げた。
水から上がると、そこは王城外縁の石造の導水路脇。夜警の足音が遠くに聞こえる。
濡れた衣のしずくを絞る間もなく、石橋の向こうから鎧の擦れる音――。
「動くな」
低い声。
影から現れたのはレオナルトだった。頬の傷が月光に白く浮かぶ。彼の背後には部下が二人。槍先がわずかに揺れた。
ミュリエルが息を呑む。「レ、レオナルトさん……」
彼は俺たちを順に見た。視線は冷たいが、どこか迷いが混じっている。
「宰相は、お前たちを別棟に“移送”するよう命じた。――抵抗すれば、相応の処置を取る、とも」
「つまり、ここで捕まえろってことだな」俺は剣に手を添えた。
レオナルトの目が細くなる。「剣を抜けば、全面だ。……王都を敵に回す覚悟はあるか、アレン・クロス」
「覚悟なら、とっくに決めた」
声が自分のものとは思えないほど静かに出た。「仲間を守る。たとえ相手が“国”でもだ」
レオナルトは長い息を吐いた。
次の瞬間、彼はほんのわずか顎をしゃくった。
「……前を見ろ。走れ」
部下が驚いて彼を見る。「副長――!」
「巡回だ。私は何も見なかった。お前たちもだ。――これは命令だ」
圧し殺した声に、二人の兵は口を噤む。レオナルトは俺にだけ聞こえる声で続けた。
「南門は封鎖。だが市壁の外へ抜ける暗渠が一つ、今夜だけ開いている。――西区の古い水売りの塔の下だ」
リリアが息を飲む。「どうして……助けるの?」
彼は答えなかった。答えの代わりに、わざと俺の肩を押し、石段へ突き飛ばすような仕草をする。
「“逃げた”と報告する。……走れ」
短い沈黙ののち、俺は頷いた。「借りは、必ず返す」
「いらん」レオナルトは踵を返した。「剣で示せ。それだけだ」
俺たちは濡れた靴のまま、石畳を駆け出した。
王城の外郭を巡る路地は暗く、時折、夜警の灯りが交差する。リリアが先導し、角ごとに一拍置いて物陰から物陰へと渡る。セラフィナは息を整えつつ状況を読み、近道を指示する。ミュリエルは《沈黙》の祈りを断続的に繋ぎ、足音を薄くしてくれた。
やがて、西区の小広場にそびえる古い水売りの塔が見えてきた。
塔の基部に、半ば土に埋もれた石板。セラフィナが素早く土を払うと、細い取っ手が現れる。
「これだ」
石板を持ち上げると、冷気が吹き上がった。下は暗渠。水の音が響く。
降りる前に、俺は一度だけ振り返った。
王城の尖塔が夜空に突き立ち、遠くの鐘が時を告げる。――あそこへ、必ず戻る。逃げたままでは終わらせない。
「行こう」
梯子を降り、暗渠の底に足をつける。狭い通路を数百歩。やがて、湿った夜風が頬を撫でた。
出口は城壁外の下草に隠されていた。外に出ると、王都の夜が果てしなく広がっている。
遠くで笛の音が上がった。追っ手の合図だ。
リリアが口を結ぶ。「早いね……もう気づかれた」
「構わない」俺は剣の柄を握り直す。「ここからは、俺たちの領分だ」
ミュリエルが不安そうに袖を引いた。「お姉ちゃん……」
「大丈夫だ」俺は笑おうとした。うまくできていたかはわからない。
「必ず守る。――この手で」
セラフィナが肩をぶつけてきた。「前だけ見ろ。孤に非ず、だ」
俺は頷き、走り出した。王都の裏路地を抜け、外縁の森へ――。
背後で笛が増え、鎧の足音が連なる。
逃亡者の烙印は、もう押されたのだろう。けれど、その烙印ごと、この手で塗り替えてみせる。
次の瞬間、路地の角から槍の穂先がきらりと覗いた。
――追っ手との戦いが、始まる。




