ミュリエルの涙
「勇者の名を騙った者に、裁きを――」
宰相ラドクリフの声が冷たく広場を覆った瞬間、槍を構えた兵士たちが前へ一歩進んだ。鋼の先端が灯りを受け、白く閃く。群衆の息が詰まり、ざわめきが波のように押し寄せては消えていった。
俺は、ただ立ち尽くしていた。
足元の石畳が鉛のように重く、喉は乾いて声が出ない。胸の奥には「俺は勇者じゃない」という叫びが渦を巻き、答えの出ない問いが何度も反響していた。
(どうする……? このままじゃ、仲間まで――)
セラフィナが大剣に手をかけた。リリアも矢をつがえようとしている。もし兵士たちが襲いかかれば、血が流れるのは避けられない。
その瞬間だった。
「待ってください!」
透き通った声が、張り詰めた空気を切り裂いた。
兵士たちの足が止まり、群衆の視線が一斉に声の主へと注がれる。
そこにいたのは――ミュリエルだった。
小柄な体を震わせながらも、俺たちの前に一歩進み出て、杖を両手で握りしめていた。頬を伝う涙が月明かりに光り、彼女の決意を照らしている。
「お、お姉ちゃんは――」
声が震えた。だが、その瞳は迷わずまっすぐだった。
「お姉ちゃんは……勇者です!」
広場に静寂が落ちる。
あまりに真っ直ぐな言葉だった。装飾も理屈もなく、ただ心の底から溢れた叫び。
群衆の間から小さなざわめきが広がる。
「お姉ちゃん……?」
「勇者を……そう呼んでいるのか?」
困惑と嘲笑の混じった声が散らばる。だが、それでもミュリエルは退かなかった。
「私はずっとお姉ちゃんに守られてきました! 森で魔物に襲われたときも、旅の途中で傷ついたときも、いつだってお姉ちゃんが前に立ってくれました!」
涙で言葉が途切れながらも、必死に叫ぶ。
「勇者かどうかなんて……そんなの関係ありません! 私にとって、お姉ちゃんは勇者なんです! 誰がなんと言おうと……絶対に!」
杖を胸に抱き、声を振り絞った。
その姿に、俺は胸を締め付けられる。
(なんで……なんでそこまで……)
俺は勇者じゃない。偽りの証にすがり、人々の期待に押し潰されそうになっている。ただの落ちこぼれだ。それなのに、ミュリエルは――迷いなく俺を勇者だと信じている。
足が一歩、前に出そうになる。だが宰相の鋭い声がそれを封じた。
「子供の情緒で国を惑わすか」
ラドクリフの目が細められる。「可憐な涙に庶民は酔うだろうが、国家の真実は感情では決まらぬ」
兵士たちが再び構えを取り直し、槍の列が冷たく光る。
だが群衆の一部はざわめき、ためらうように見合わせた。ミュリエルの叫びが、確かに人々の心を揺さぶったのだ。
リリアがミュリエルの肩を抱き、彼女を支えるように立った。
「……アレン。聞いたでしょ。誰よりも純粋に、彼女はあなたを勇者だと信じてる」
その声に俺の心臓が痛む。
セラフィナも低く呟く。「嘘では救えん。だが……真実は力だけで決まるものじゃない」
ミュリエルの涙が石畳に落ち、月光の下で煌めいた。
俺は拳を握り、胸の奥で言葉を探す。まだ答えは出ない。勇者として名乗る覚悟も、自信も持てない。
けれど――この仲間の想いだけは、裏切れない。
宰相の目が俺を射抜く。「ならば証明してみせろ。さもなくば、拘束だ」
冷たい声が響くと同時に、兵士たちがじりじりと近づいてきた。
俺は一歩、前に出た。
震えるミュリエルの肩越しに、槍の先を見据える。
(勇者かどうかは、わからない。だが……仲間を守る。そのために俺は――)
唇が開きかけた瞬間、宰相の合図で兵士たちが一斉に動いた。
群衆が悲鳴を上げる。リリアが弓に矢を番え、セラフィナが剣を構え、ミュリエルが必死に俺の手を握った。
緊迫の中、宰相の罠はさらに深まっていく――。
◇
その夜、俺たちは王城の奥、冷たい石の部屋へと連れ込まれた。
鉄格子の向こうで兵士が立ち、宰相の影が冷笑を浮かべる。
「勇者の真贋は、閉ざされた場で明らかにしてやろう」
ミュリエルのすすり泣きが、石壁にこだまする。
その涙が胸に刺さり、俺は拳を握り締めた。
(絶対に、守る。勇者かどうかじゃなくて……俺自身として)
その決意だけが、闇の中で微かに灯る光だった。




