宰相の罠
王都の石畳に馬車の車輪が鳴り響く。凱旋を告げる鐘の音は高らかで、人々の歓声が広場に溢れていた。
だが、城門を抜けて王城の中庭に着いた瞬間、その華やかさは鋭い冷気に変わった。
広場の中央に、宰相ラドクリフが待っていた。
銀糸を縫い込んだ黒衣、鷹のように鋭い目。左右には文官と兵士が並び、まるで裁きを執り行う法廷のような威圧感を放っていた。
「よくぞ戻った、勇者殿」
口元には笑み。しかし声は冷え切っていた。
俺は思わず背筋を強張らせる。背後でリリアとセラフィナが構えを正し、ミュリエルは小さく杖を抱え込んだ。
宰相はゆっくりと壇を上がり、群衆に向けて声を張った。
「諸君、この者こそ辺境を脅かした魔獣ケルベロスを討ち果たした“勇者一行”である」
歓声が広がり、花弁が舞った。
だがラドクリフは片手を上げてそれを制し、視線を鋭く俺に向ける。
「……だが」
その一言で、空気が凍り付いた。
人々の息が止まる。太鼓すら鳴りを潜めた。
「勇者の証――“碑”の紋章は、不完全であったと報告を受けている」
広場にざわめきが走る。
「欠けた証をもって、本当に“真の勇者”と呼べるのか? もし偽りであるならば……それは国家への反逆に他ならぬ!」
言葉が刃のように突き刺さり、足元が揺らぐ。
群衆の視線が一斉に俺へ注がれる。信じたいという期待と、疑念の影が混じった視線。
「ち、違う……!」
口を開くが、声は群衆に呑まれた。
ミュリエルが慌てて一歩出ようとしたが、セラフィナが肩を掴んで止める。彼女の瞳も揺れている。
リリアは必死に俺の背を支えた。
宰相はゆっくりと歩み寄り、低く告げる。
「お前が勇者である証拠は、どこにある? 名を騙り、人心を惑わせたのならば――処罰は免れぬぞ」
喉が焼け付く。
――答えられない。碑が示したのは、確かに“欠けた紋”。それが真実だった。
「……」
沈黙が広場を覆う。
その時、レオナルトが一歩前に出た。鎧に包まれた肩がわずかに震え、頬の傷跡が赤黒く浮かぶ。
「宰相閣下。確かに紋は不完全でした。だが――」
一呼吸置き、彼は俺を見た。氷のような視線。だがそこには僅かな逡巡もあった。
「戦場において、この者は確かに仲間を導き、命を賭して戦った。その事実だけは、疑いようがありません」
広場に再びざわめき。
宰相の目が細くなる。「……レオナルト卿、貴殿まで惑わされるとは」
声は冷徹だが、その奥に苛立ちが見えた。
俺はその背中を見つめながら、唇を噛む。
仲間たちのために剣を振るったのは事実。だが“勇者”という名に値するかと問われれば――答えは出ない。
宰相の声が再び広場を貫いた。
「この場で決する必要がある。真の勇者ならば、次なる試練を前にしても証を立てられるだろう。だが偽者なら……ここでその仮面を剥がす!」
兵士たちが槍を構え、輪を狭める。
人々のざわめきが恐怖に変わり、歓声は消え失せた。
喉が乾く。手の平が汗で滑る。
――俺はどうすればいい。
リリアが小声で囁いた。「アレン、信じて。私たちがいる」
セラフィナは大剣に手をかけ、低く構える。「罠だ。宰相は最初からこうするつもりだった」
ミュリエルの瞳が潤み、必死に俺を見つめている。「お姉ちゃん……!」
けれど、答えは出せない。
勇者じゃない俺には、何も。
宰相の口元が冷たく歪む。
「――勇者の名を騙った者に、裁きを」
兵士たちの足音が、石畳を打つ。槍先が迫る。
群衆は息を殺し、空気が凍り付いた。
俺は胸の奥で叫ぶ。
(俺は勇者じゃない……だが――!)
その瞬間、横から伸びた声が広場に響いた。
「待ってください!」
小さな、しかし必死な叫び。
ミュリエルが一歩前に飛び出していた。杖を抱き締め、涙で震えながら。
宰相の冷たい目が、彼女に向けられる。
広場の空気が再び大きく揺らぎ――物語は、次の瞬間に委ねられた。




