隠された間
青白い光は、冷たい川霧みたいに足首を撫でていった。
崩れたゴーレムの広間の奥、回転した壁の裂け目から続く通路は、幅も天井もぎりぎりで、人ひとりが肩をすぼめればようやく通れるほどだ。石肌は滑らかで、古い水脈の跡が筋になっている。松明の火はここでは頼りなく、代わりに壁そのものが淡く光っていた。
「騎士団はここで待機。負傷者の手当てを優先しろ」
レオナルトの命で、鎧の擦れ音が後ろに止まる。
俺たち四人だけが、さらに奥へ踏み込んだ。セラフィナの呼吸はまだ浅い。ミュリエルがすぐ横を歩き、杖先の小さな光で足元を照らす。リリアは矢をつがえず、代わりに指先で壁の継ぎ目や床の段差を確かめながら進んだ。
やがて通路が緩やかに下り、ふいに視界が開けた。
そこは円形の広間だった。天井は高く、黒いドームは星空のように細かな瑕で点々と瞬いている。床には同心円が三重に刻まれ、外縁から中心へ向かって細い溝が走っている。中央には台座、その上に直方体の石碑――いや、“碑”があった。
碑面いっぱいに古代文字が刻まれている。読めないはずなのに、どこかで見たことのある流れだった。
34話で出会った“碑文の断片”――『名無き者、名を得ん。名ある者、己を捨てん。真なる導きは、孤に非ず』。あの言葉と同じ筆致、同じ癖。
「罠の気配は……ない、と思うけど」
リリアが息を潜める。「中央に出るのは一人がいい。……アレン」
名を呼ばれて、喉がひくついた。
ここに来るまで、ずっと胸の奥で重石が転がっていた。ゴーレムの砕ける音が遠くなっても、消えてくれない重さ。
(勇者かどうかを、見られる)
セラフィナが一歩前に出かけ、俺の袖をそっと引いた。「――行け。支える」
ミュリエルが小さく頷く。「お姉ちゃん、だいじょうぶ。ここまで来れたから、きっと」
俺は頷き、輪の溝をまたいで中心へ出た。
足を置くたびに、床の線が淡く光る。ぴり、と皮膚の下で静電気が走るような感触。碑の前に立つと、ほの温かい風が頬を撫でた。
手を伸ばし、碑面に触れる。
冷たい――はずだった。それは意外にも、春の石みたいにやわらかい温度をしていた。指先に吸い込まれるような粘り気。微かな鼓動音が、石の中から伝わってくる。
『名を』
声にならない声が、骨に沁みた。
唇が勝手に動く。
「……アレン」
小さな、乾いた音が広間に落ちる。
外縁の溝に、青白い光が走った。背後で気配がざわめく。レオナルトの冷たい視線すら、今は遠い。
碑面の文字が、一文字ずつ微かに浮き上がり、やがて組紐みたいにほどけ合って、空中に紋を形作った。
王都で見た王家の紋章にも似ているが、より古く、より厳しい幾何。
その中心で、ひとつの輪が――欠けていた。
小指の爪ほどの、小さな欠片。そこだけ光が途切れ、薄い影が滲んでいる。
胸の奥が、ぎゅ、と捻じられた。
(やっぱり。俺の“器”が、違う)
指先がうずく。34話で自分を切った傷は、まだ浅く残っていた。
ふと、思いつきで、その小さな傷口を押し、赤を一滴、碑の溝へ落とす。
光が吸い込まれ、輪郭がわずかに濃くなる。けれど――欠け目は、埋まらない。
碑の鼓動が一瞬だけ強まり、すぐに平静へ戻る。
背後で、ミュリエルが息を飲んだ。「……きれい……!」
リリアが低く呟く。「反応した。勇者の証、だよ」
セラフィナは、俺の背の斜め後ろに立ったまま、じっと欠けた輪を見ている。
「見たか! 紋が顕れたぞ!」
通路の向こうから騎士たちのざわめきが押し寄せる。
「勇者だ」「勇者の証だ」と歓声が重なる。鎧のきしみすら、祝祭の太鼓みたいに聞こえる。
ただ一人、レオナルトだけが動かなかった。
彼は広間の縁で腕を組み、長い沈黙ののち、ごく小さな声で言った。
「――欠けている」
その声は、俺だけに届くような高さだった。
冷や水を浴びせられたみたいに、背すじが粟立つ。
「疲弊のせいだよ」
リリアが静かに返す。「碑も、紋も、きっと完全じゃない。何百年も放置されてたんだ。反応が鈍くてもおかしくない」
「そうだな。そういうことにしておこう」
レオナルトの口元が、わずかに動いた。「“今は”な」
宰相へ持ち帰るためか、彼は部下に指示して碑面の拓本を取らせた。墨と紙が擦れる音が、やけに大きく響く。
俺は目を逸らせず、空中の紋――欠けた輪から視線を離せなかった。
(俺は、勇者じゃない。なのに――)
碑の鼓動に呼応するように、胸の奥で鼓動が早まる。
“偽り”を、石が祝福している。その事実が、喉に苦い塊を作った。
セラフィナが横へ来て、小さな声で問う。「……痛むか」
俺は短く頷いた。
「大丈夫だ。……いや、大丈夫じゃない。でも、進む」
セラフィナの口元が緩む。「それでいい」
彼女は碑面の下部に目を落とし、指で欠損した文字の窪みをなぞる。「読み取れるところだけ――『名ある者、己を捨てん。身と名、同じ器に帰る時――』そこで途切れている」
「“器”……」
ミュリエルが俺と碑を交互に見上げる。「お姉ちゃんのこと、言ってるみたい」
リリアが慎重に碑の側面を調べ、古い金具のようなものを見つけた。
触れると、床の同心円が低く唸ってゆっくりと回る。溝に溜まった光が流れ、外縁から壁へ、壁から天井へ、青い線が走る。
ドームの一部がぱかりと開いて、砂粒ほどの水晶の欠片がひとつ、台座の脇に転がり落ちた。
「……何これ」
ミュリエルが拾い、掌にのせる。
淡い光は弱々しいが、俺が近づくと、ほんの少しだけ明るくなった。石の中で、糸のような光が揺れる。
「導き石かもしれない」
リリアが言う。「王家の古い伝承にあった。勇者の道を“指す”欠片」
「証拠には十分だろう」
レオナルトが拓本を丸め、短く告げた。「宰相閣下は満足なさる。……だが」
言葉を切り、俺の正面に立つ。
近い。冷たい瞳が、俺の目だけを射抜いていた。
「お前には“二つ目の名”があるな。どちらを選ぶつもりだ、アレン・クロス」
「……どういう意味だ」
「意味のままだ。――器と名が一致しない紋は、いずれ剥がれる」
胸の奥の塊が、さらに重くなる。
反論の言葉は出ない。俺自身、どこかで同じことを思っていたからだ。
「レオナルト」
セラフィナが一歩進み出る。声は低く、刃みたいに真っ直ぐだった。
「剥がれる前に、私たちが“繋ぎ直す”。それだけだ」
彼はふっと目を細め、「好きにしろ」と短く言った。
騎士たちが片付けを始め、広間の空気が少しずつ現実の温度へ戻っていく。
俺は台座の縁に腰を下ろし、手の中の小さな血の痕を見た。まだ滲む。痛みは軽いが、消えない。
(偽りの証を掲げて、人を導くのか)
吐き気に似た感覚が唇の内側を走る。けれど――ミュリエルがそっとその手を包んだ。
「お姉ちゃん。私、うれしかったよ。だって……碑が、ちゃんと応えてくれたから」
涙の浮いた瞳で、彼女はまっすぐに言う。「私が信じてた“お姉ちゃん”に、間違いはなかったんだって」
リリアも隣に座り、肩を軽く押す。「欠けててもいい。足りないなら、私たちで埋める」
セラフィナは壁にもたれ、目を閉じたまま言った。「孤に非ず、だ」
喉の苦さが、不思議と少し薄れた。
俺は頷き、立ち上がる。導き石が胸元の袋の中で、微かに温かい。
「戻ろう。王都に、そして――次へ」
広間を出る前、もう一度だけ振り返る。
空中の紋は消えていたが、欠けた輪だけが、暗闇の中に残像のように滲んで見えた。
それはたしかに“欠け”だ。けれど、輪は輪だ。繋がっている。
通路に入ると、背後で小さな風の音がした。
碑が、見えない誰かに蓋をされるみたいに、ゆっくりと沈黙に戻っていく。
帰り道、レオナルトが誰にも聞こえない声量で囁いた。
「――偽りを真実に変えられるなら、それはもはや偽りではない。見せてもらおう」
挑発でも侮蔑でもない、ただの宣告。
俺は足を止めない。重石は残ったままだが、その上から薄い布を被せるように、仲間の声と体温が守ってくれていた。
地上の空気は、きっと冷たくて、そして騒がしい。
宰相の微笑と、王都の喧噪と、噂と罠――。
それでも、俺は選ぶ。嘘のままでは終わらせない。欠けた輪を、いつか本当に閉じるために。
剣の柄に手を置く。
青白い光が、俺たちを背から押した。次の扉の先で、また何かが待っている。
――孤に非ず。俺たちは四人だ。




