表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
34/61

隠された間

 青白い光は、冷たい川霧みたいに足首を撫でていった。

 崩れたゴーレムの広間の奥、回転した壁の裂け目から続く通路は、幅も天井もぎりぎりで、人ひとりが肩をすぼめればようやく通れるほどだ。石肌は滑らかで、古い水脈の跡が筋になっている。松明の火はここでは頼りなく、代わりに壁そのものが淡く光っていた。


「騎士団はここで待機。負傷者の手当てを優先しろ」

 レオナルトの命で、鎧の擦れ音が後ろに止まる。

 俺たち四人だけが、さらに奥へ踏み込んだ。セラフィナの呼吸はまだ浅い。ミュリエルがすぐ横を歩き、杖先の小さな光で足元を照らす。リリアは矢をつがえず、代わりに指先で壁の継ぎ目や床の段差を確かめながら進んだ。


 やがて通路が緩やかに下り、ふいに視界が開けた。

 そこは円形の広間だった。天井は高く、黒いドームは星空のように細かな瑕で点々と瞬いている。床には同心円が三重に刻まれ、外縁から中心へ向かって細い溝が走っている。中央には台座、その上に直方体の石碑――いや、“いしぶみ”があった。


 碑面いっぱいに古代文字が刻まれている。読めないはずなのに、どこかで見たことのある流れだった。

 34話で出会った“碑文の断片”――『名無き者、名を得ん。名ある者、己を捨てん。真なる導きは、孤に非ず』。あの言葉と同じ筆致、同じ癖。


「罠の気配は……ない、と思うけど」

 リリアが息を潜める。「中央に出るのは一人がいい。……アレン」


 名を呼ばれて、喉がひくついた。

 ここに来るまで、ずっと胸の奥で重石が転がっていた。ゴーレムの砕ける音が遠くなっても、消えてくれない重さ。


(勇者かどうかを、見られる)


 セラフィナが一歩前に出かけ、俺の袖をそっと引いた。「――行け。支える」

 ミュリエルが小さく頷く。「お姉ちゃん、だいじょうぶ。ここまで来れたから、きっと」


 俺は頷き、輪の溝をまたいで中心へ出た。

 足を置くたびに、床の線が淡く光る。ぴり、と皮膚の下で静電気が走るような感触。碑の前に立つと、ほの温かい風が頬を撫でた。


 手を伸ばし、碑面に触れる。

 冷たい――はずだった。それは意外にも、春の石みたいにやわらかい温度をしていた。指先に吸い込まれるような粘り気。微かな鼓動音が、石の中から伝わってくる。


『名を』


 声にならない声が、骨に沁みた。

 唇が勝手に動く。


「……アレン」


 小さな、乾いた音が広間に落ちる。

 外縁の溝に、青白い光が走った。背後で気配がざわめく。レオナルトの冷たい視線すら、今は遠い。

 碑面の文字が、一文字ずつ微かに浮き上がり、やがて組紐みたいにほどけ合って、空中にしるしを形作った。


 王都で見た王家の紋章にも似ているが、より古く、より厳しい幾何。

 その中心で、ひとつの輪が――欠けていた。


 小指の爪ほどの、小さな欠片。そこだけ光が途切れ、薄い影が滲んでいる。

 胸の奥が、ぎゅ、と捻じられた。


(やっぱり。俺の“器”が、違う)


 指先がうずく。34話で自分を切った傷は、まだ浅く残っていた。

 ふと、思いつきで、その小さな傷口を押し、赤を一滴、碑の溝へ落とす。


 光が吸い込まれ、輪郭がわずかに濃くなる。けれど――欠け目は、埋まらない。

 碑の鼓動が一瞬だけ強まり、すぐに平静へ戻る。


 背後で、ミュリエルが息を飲んだ。「……きれい……!」

 リリアが低く呟く。「反応した。勇者の証、だよ」

 セラフィナは、俺の背の斜め後ろに立ったまま、じっと欠けた輪を見ている。


「見たか! 紋が顕れたぞ!」

 通路の向こうから騎士たちのざわめきが押し寄せる。

 「勇者だ」「勇者の証だ」と歓声が重なる。鎧のきしみすら、祝祭の太鼓みたいに聞こえる。


 ただ一人、レオナルトだけが動かなかった。

 彼は広間の縁で腕を組み、長い沈黙ののち、ごく小さな声で言った。


「――欠けている」


 その声は、俺だけに届くような高さだった。

 冷や水を浴びせられたみたいに、背すじが粟立つ。


「疲弊のせいだよ」

 リリアが静かに返す。「碑も、紋も、きっと完全じゃない。何百年も放置されてたんだ。反応が鈍くてもおかしくない」


「そうだな。そういうことにしておこう」

 レオナルトの口元が、わずかに動いた。「“今は”な」


 宰相へ持ち帰るためか、彼は部下に指示して碑面の拓本を取らせた。墨と紙が擦れる音が、やけに大きく響く。

 俺は目を逸らせず、空中の紋――欠けた輪から視線を離せなかった。


(俺は、勇者じゃない。なのに――)


 碑の鼓動に呼応するように、胸の奥で鼓動が早まる。

 “偽り”を、石が祝福している。その事実が、喉に苦い塊を作った。


 セラフィナが横へ来て、小さな声で問う。「……痛むか」

 俺は短く頷いた。

「大丈夫だ。……いや、大丈夫じゃない。でも、進む」


 セラフィナの口元が緩む。「それでいい」

 彼女は碑面の下部に目を落とし、指で欠損した文字の窪みをなぞる。「読み取れるところだけ――『名ある者、己を捨てん。身と名、同じ器に帰る時――』そこで途切れている」


「“器”……」

 ミュリエルが俺と碑を交互に見上げる。「お姉ちゃんのこと、言ってるみたい」


 リリアが慎重に碑の側面を調べ、古い金具のようなものを見つけた。

 触れると、床の同心円が低く唸ってゆっくりと回る。溝に溜まった光が流れ、外縁から壁へ、壁から天井へ、青い線が走る。

 ドームの一部がぱかりと開いて、砂粒ほどの水晶の欠片がひとつ、台座の脇に転がり落ちた。


「……何これ」

 ミュリエルが拾い、掌にのせる。

 淡い光は弱々しいが、俺が近づくと、ほんの少しだけ明るくなった。石の中で、糸のような光が揺れる。


「導き石かもしれない」

 リリアが言う。「王家の古い伝承にあった。勇者の道を“指す”欠片」


「証拠には十分だろう」

 レオナルトが拓本を丸め、短く告げた。「宰相閣下は満足なさる。……だが」


 言葉を切り、俺の正面に立つ。

 近い。冷たい瞳が、俺の目だけを射抜いていた。


「お前には“二つ目の名”があるな。どちらを選ぶつもりだ、アレン・クロス」

「……どういう意味だ」

「意味のままだ。――器と名が一致しない紋は、いずれ剥がれる」


 胸の奥の塊が、さらに重くなる。

 反論の言葉は出ない。俺自身、どこかで同じことを思っていたからだ。


「レオナルト」

 セラフィナが一歩進み出る。声は低く、刃みたいに真っ直ぐだった。

「剥がれる前に、私たちが“繋ぎ直す”。それだけだ」


 彼はふっと目を細め、「好きにしろ」と短く言った。


 騎士たちが片付けを始め、広間の空気が少しずつ現実の温度へ戻っていく。

 俺は台座の縁に腰を下ろし、手の中の小さな血の痕を見た。まだ滲む。痛みは軽いが、消えない。


(偽りの証を掲げて、人を導くのか)

 吐き気に似た感覚が唇の内側を走る。けれど――ミュリエルがそっとその手を包んだ。


「お姉ちゃん。私、うれしかったよ。だって……碑が、ちゃんと応えてくれたから」

 涙の浮いた瞳で、彼女はまっすぐに言う。「私が信じてた“お姉ちゃん”に、間違いはなかったんだって」


 リリアも隣に座り、肩を軽く押す。「欠けててもいい。足りないなら、私たちで埋める」

 セラフィナは壁にもたれ、目を閉じたまま言った。「孤に非ず、だ」


 喉の苦さが、不思議と少し薄れた。

 俺は頷き、立ち上がる。導き石が胸元の袋の中で、微かに温かい。


「戻ろう。王都に、そして――次へ」


 広間を出る前、もう一度だけ振り返る。

 空中の紋は消えていたが、欠けた輪だけが、暗闇の中に残像のように滲んで見えた。

 それはたしかに“欠け”だ。けれど、輪は輪だ。繋がっている。


 通路に入ると、背後で小さな風の音がした。

 碑が、見えない誰かに蓋をされるみたいに、ゆっくりと沈黙に戻っていく。


 帰り道、レオナルトが誰にも聞こえない声量で囁いた。

「――偽りを真実に変えられるなら、それはもはや偽りではない。見せてもらおう」


 挑発でも侮蔑でもない、ただの宣告。

 俺は足を止めない。重石は残ったままだが、その上から薄い布を被せるように、仲間の声と体温が守ってくれていた。


 地上の空気は、きっと冷たくて、そして騒がしい。

 宰相の微笑と、王都の喧噪と、噂と罠――。

 それでも、俺は選ぶ。嘘のままでは終わらせない。欠けた輪を、いつか本当に閉じるために。


 剣の柄に手を置く。

 青白い光が、俺たちを背から押した。次の扉の先で、また何かが待っている。

 ――孤に非ず。俺たちは四人だ。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ