迷宮の魔獣
中層に降りる石段を下りきった途端、空気が変わった。
湿り気は重たく凝り、灯した松明の炎が奇妙に縮こまる。正面には天井の高い広間。磨かれた黒石の床に、古い戦跡のような斬痕が無数に走っている。
「……嫌な匂いがする」
セラフィナが鞘から大剣を半ば抜き、目を細めた。鉄と土、それに――魔力が焼ける匂い。
広間の奧、円柱の陰から影がずるりと動く。
最初は壁だと思った。だが、それは立ち上がった。積み石を束ねた巨人――石像巨人。眼窩に赤い燐光が灯り、足を踏み鳴らすたび、床紋に薄く砂塵が舞った。
「隊列! 盾前へ、槍は半歩下がれ!」
レオナルトが瞬時に指示を飛ばし、第一騎士団が楯壁を組む。鋼の縁が揃い、槍先が一斉に突き出された。
ゴーレムが腕を振り下ろす。
ただの一撃が暴風のように盾列を押し潰し、前列がまとめて弾け飛んだ。床を滑る鎧、折れる槍、悲鳴。人が、玩具のようだ。
「くそっ、硬すぎる!」
騎士が槍を引き抜こうとして叫ぶ。穂先は石肌に食い込むどころか、逆に刃毀れしていた。
「核を壊さない限り止まらない!」
リリアが即座に観察を告げる。「胸部、心臓の位置に魔力の渦。あそこが核心だよ!」
「見えていても、届かぬ!」
レオナルト自らが突進し、長槍を捻り込む。穂先が赤い光に弾かれ、反動で腕が痺れる。「魔力障壁……!」
ゴーレムの足が上がる。大地震のような踏み潰し。
俺はセラフィナの手を引き、横に跳んだ。間一髪で足裏が床を割り、石片が雨のように降ってくる。
「ミュリエル、前線に保護を!」
「はい――サンクティ・バリア!」
透明の光膜が前列に被さり、崩れた楯列をつなぎ止める。だが巨腕が振り抜かれるたび、膜は悲鳴のように軋んだ。
ミュリエルの肩が震え、額に玉の汗が浮く。「ご、ごめんなさい、維持が……!」
「無理をするな。リリア、援護射撃!」
「任せて!」
矢が数本、矢継ぎ早に飛ぶ。ひとつは関節の隙間を穿ち、ひとつは胴の符刻に刺さる。だが赤い光が瞬き、石が自らの破片を吸い寄せるように塞がった。
「再生するのかよ……!」
焦りが喉を灼く。
ゴーレムが胸を開いた。洞窟のような空洞に、赤い核。脈動が加速し、広間に圧が満ちる。
次の瞬間、爆ぜる光。散弾のような石礫が四方に撒き散らされた。
「伏せろ!」
俺はミュリエルを抱えて床に押し倒す。背中に複数の熱い痛み。歯を食いしばって耐える。
側でレオナルトが楯で躱しきれず、頬に焼けるような裂傷を負った。彼の長槍が床に転がる。
「全隊、再編成――っ!」
命じながらも、彼の膝が揺らぐ。
騎士たちが次々と崩れ、呻きが重なった。
このままでは、押し潰される。
「アレン」
呼ぶ声に振り返ると、セラフィナの横顔があった。
静かな目。だが、その奥は烈火の色。
「私に、任せろ」
「待て、単独は――」
言いかけた俺の袖を、彼女が掴んで離した。
大剣の鍔に刻まれた紋が、薄く燐光を帯び始める。刃に複雑な術式が走り、握る手に逆流するような魔力の脈。
「それは……封術か」
リリアが息を呑む。
「禁呪級の“魔装術”。使えば、もうしばらくは戦えない」
セラフィナは淡々と言う。「だが、ここで退けば、誰かが死ぬ」
言葉が喉に刺さる。「駄目だ。今のお前は――」
「アレン」
彼女の声が低く、よく通った。
「勇者の隣に立つと決めた。剣士セラフィナとしてじゃない。――仲間として、命を賭ける覚悟はある」
迷いを断ち切る音が、胸の奥で鳴った。
俺は短く頷く。「……行け。必ず戻ってこい」
セラフィナが一歩、前に出る。
大剣を地に立て、刃に額を当てた。古い祈りの言葉を囁き、息を吸う。
「解錠――《星墜》」
刃が白く燃えた。
広間の光が吸い込まれ、音が消える。
セラフィナの影が一瞬だけ伸び、次の瞬間、彼女は消え――いや、跳躍した。空間を抉るような踏み切り。残像が二つ、三つ。
ゴーレムの腕が振り下ろされるより早く、白い閃光が胸元を縦に走った。
鈍い破砕音。外殻が裂け、赤い核が露出する。
セラフィナは空中で身をひねり、両手で握った大剣を逆手に構える。
「――終いだ」
白い尾を引いた一閃が、核を貫いた。
静寂。
次いで、遅れて崩落の音が洪水のように押し寄せる。
石が崩れ、赤い光が霧のように散り、巨体がふらり、と膝をついた。頭部が傾ぎ、床に沈む。
ゴーレムは――止まった。
「や、やった……!」
誰かの声が震える。
騎士たちが息を吐き、床に座り込んだ。
白光がふっと消えると同時に、セラフィナの膝が折れた。
俺は駆け寄り、片腕で抱きとめる。彼女の肌は冷たく、呼吸は浅い。
刃の燐光は完全に消え、鍔の紋が焼け焦げて小さく裂けていた。
「馬鹿野郎……!」
つい怒鳴っていた。声が震える。「こんな無茶を――一歩間違えば、お前が消し飛んでた!」
セラフィナはうっすらと笑った。
「生きてる。間違えなかった、だろう?」
「っ……!」
言い返す言葉が見つからない。
ミュリエルが震える手で彼女の額に触れ、小さく詠唱する。
「ヒール……ヒール……」
淡い光が幾度も降りては薄れ、ほんの少しずつ彼女の呼吸が整っていく。ミュリエルの肩も小刻みに震え、涙がきらりと落ちた。
「セラフィナさん……もう、こんな無茶、やだ……」
「泣くな」
セラフィナは掠れた声で言い、ミュリエルの頭に手を置いた。「私は大丈夫だ。――お前が守ってくれたからな」
そこへ、レオナルトがふらつく足取りで近づく。頬の傷は浅くない。だが目だけは、氷の色を失っていない。
「禁呪を――戦術に持ち込むとは。蛮勇か、覚悟か」
冷たい視線が俺を掠める。「いずれにせよ、次はないと心得ろ」
「心得てる」
俺は短く返す。「だが、今は勝つしかなかった」
レオナルトは鼻を鳴らし、黙って背を向けた。彼の合図で騎士たちが負傷者を集め、包帯と薬を配り始める。
広間の隅で、崩れたゴーレムの胴が、かすかに蒸気を吐いた。
赤い粉が風に溶け、床の紋様へ吸われていく。その流れに沿うように、壁面の一部がゆっくりと回転した。
「……動いた」
リリアが弓を下ろす。「隠し扉だね」
石の裂け目の向こうに、狭い通路。冷たい風が頬を撫でる。
その先から、淡い青の光がかすかに漏れていた。
セラフィナを支えながら、俺は視線を奧へ向ける。
胸の鼓動が速い。恐怖じゃない――高鳴りだ。ここで終わりじゃない。この先に、何かが待っている。
「行けるか?」
「少し休めば、歩ける」
セラフィナが目を閉じ、浅く息を吐く。「……すまない、アレン。叱ってくれて、ありがとう」
「叱ったんじゃない。――心配しただけだ」
口にして、気づく。言葉は驚くほど素直に出た。
ミュリエルが涙の跡の残る顔で笑い、俺の手を握る。
「お姉ちゃん、行こう。みんなで」
リリアが小さく頷き、先行して扉の縁を調べる。罠はない。
俺たちは傷ついた騎士たちを背に、静かに通路へ足を踏み入れた。
足音が、青い光に吸い込まれていく。
迷宮は――まだ、終わらない。
(待っていろ。俺が“勇者”かどうかなど関係ない。仲間の先頭は、俺が歩く)
そう繰り返し、俺は剣を握り直した。
青光の先で、何かが俺たちを待っている――あの碑のような、古い呼び声が。




