幻惑の回廊
黒い口の中へ踏み込んだ瞬間、背後の石扉が重く閉ざされた。
反響が何度も折り返し、やがて音は、音でない何かに変わる。湿った石の匂い。ひやりと肌を撫でる風。松明の火は細く揺れ、橙の光が壁の文様を生き物のように蠢かせた。
「……嫌な気配だな」
セラフィナが剣の柄を握り直す。
回廊の床には細かい溝が走り、左右の壁面には古代語らしき刻印。どこからともなく、誰かの囁きが聞こえた気がした。
「みんな、間隔を詰めて。離れるなよ」
俺が言うと、リリアが頷き、ミュリエルが慌てて一歩近づいた。
後方では、第一騎士団が無言で続く。レオナルトの視線が、背中に冷たい針のように刺さっていた。
十歩。二十歩。――三十歩目で、世界が、少しだけ歪んだ。
最初にそれを感じたのは、足元だった。
石畳の継ぎ目が、見た目より半歩ずれている。踏みしめる靴底の感覚と、視界が一致しない。松明の炎が二重に揺れ、遠近が曖昧になる。
「待って、アレン――」
リリアの手が、空を掴んだ。
彼女はそこで立ち尽くしていた。
視線の先――回廊の曲がり角から、小さな影が駆け寄ってくる。
まだ幼い少年。頬に土、笑うと八重歯が覗く。
『ねえ姉ちゃん、帰ろうよ。みんな待ってる』
その声は、優しく甘い。
俺は息を呑み、リリアの横顔を見た。強かった瞳は震え、弓を持つ手が小刻みに揺れている。
「リリア! 離れるな。――そいつは、」
「違うの、アレン。あれは……弟なの。昔――」
彼女の足が半歩前に出た。
そのとき、床の細い溝が、ぱきり、と割れる音を立てた。
落とし戸だ。幻覚で覆い隠されていた罠。
俺は反射的に飛び込み、リリアの腕を掴んだ。引き寄せながら、手にした短剣の刃を自分の指に当てて、すっと切る。
熱い痛み。血が滲む。
その赤を、彼女の手の甲に押し当てた。
「痛みは嘘をつかない。――現実に戻れ、リリア!」
リリアの肩がびくりと震え、焦点の合わない瞳がこちらを捉えた。
角から駆け寄る少年の輪郭が、紙のように薄くなる。
彼女は歯を食いしばり、息を吐いた。
「……ごめん。私、また――」
「謝るな。前だけ見ろ」
俺は彼女の指を強く握る。脈が戻るのを確かめ、手を離した。
背後から、低い鼻笑いが落ちてくる。
「甘い。――血で現実を繋ぐなど、所詮は小細工だ」
レオナルトだ。挑発するでも励ますでもない、ただ価値を測るような声。
「黙ってろ。今は進むのが先だ」
セラフィナが冷たく言い捨てる。
俺は頷き、歩を再開した。手の指先に残る痛みが、頭の霞を追い払ってくれる。
回廊は四方八方に分岐し、どの角も同じように見える。
壁の刻印が、いつの間にか「目」に変わっていた。石の瞳がこちらを覗き、囁き、誘う。
次に囚われたのは、ミュリエルだった。
「……あ」
彼女の足取りが止まる。
薄衣の少女が、回廊の向こうで手を振っていた。
日に焼けて、笑うと頬がくしゃっとなる。ミュリエルと同じ年頃――いや、少し幼いか。
『ミュリ、遊ぼうよ。かくれんぼ、続きだよ』
『早く帰っておいで。お母さんも待ってる』
ミュリエルの目に、涙が溜まる。
杖を抱えた腕が緩み、一歩、また一歩と幻へ近づく。
回廊の床に、細い糸のような影が伸びた。罠の気配がする。――止めないと。
「ミュリエル!」
呼びかける。届かない。
彼女は首を横に振り、必死で笑おうとした。
「だって……だって、もう一度だけでいいから……」
追いつく。彼女の肩を掴む。
俺はその柔らかな身体を、正面から強く抱きしめた。
鼓動と鼓動を重ね、耳元で囁く。
「ミュリエル。――戻ってこい。お前の“お姉ちゃん”は、ここにいる」
彼女の背がびくりと震えた。
こぼれそうな涙が、まぶたの縁で揺れる。
幻の少女が、無表情にこちらを見た。口が横に裂け、白い歯がびっしりと並ぶ。
「目を閉じろ!」
俺は彼女の頭を自分の胸に押しつけ、空いた手で地に短剣を突き立てる。
キン――。
金属音が回廊に走り、幻の輪郭が波紋のように崩れていく。
胸の中で、ミュリエルが小さく嗚咽した。
「……ご、ごめんなさい。私――」
「いい。怖かったな。――でも、離れるな。手を」
彼女は震える指で、俺の手をぎゅっと握った。
その小さな温もりが、逆に俺を現実につなぎ止める。
振り返ると、リリアが既に矢をつがえ、周囲を警戒していた。
セラフィナは黙って頷き、先頭に立つ。
騎士団の列は乱れていない。だがレオナルトの視線だけが、氷のように冷たく俺の手を見下ろしていた。
「仲間に依存することでしか進めぬ者を、我らは勇者とは呼ばぬ」
小さく、しかしはっきりと。
「先陣に立つのは、孤独を選ぶ者だ」
胸の奥で、何かがざらりと削れた。
(俺は――依存しているのか?)
反射的に言い返しそうになった舌を、奥歯で止める。
言葉にするより、進むことだ。
俺は息を長く吐き、仲間に合図した。
「一列だ。――手をつなげ。視界は嘘をつく。触覚で抜ける」
四人で鎖を作るように手をつなぐ。
セラフィナの掌は固く、リリアは温かく、ミュリエルは少し冷たい。
その実感が、回廊の囁きを遠ざけていく。
やがて、回廊は広間へと開けた。
天井は高く、円蓋の中央に黒い穴。壁一面に刻印がびっしりと並び、床には大きな魔法陣が描かれている。
中心には祭壇――いや、石碑だ。高さは人の背丈ほど。表面にびっしりと文字が刻まれ、ところどころに欠けがある。
「……勇者の碑、か」
セラフィナが低く呟く。
近づこうとして、足が止まった。
石碑の周囲に、淡い霧が立っている。
霧の中に、俺自身が立っていた。男の姿。背が高く、刈り込んだ黒髪。鋼のような眼。
(……俺?)
心臓が一度、強く鳴った。
霧の“俺”が口を開く。
『お前は勇者じゃない。――俺の代用品だ』
世界が、狭くなる。
胸の奥の古傷が疼き、息が上手く入らない。
背後で、ミュリエルの手が強く俺を握る。「お姉ちゃん……?」
もう一人――リリアの声。「アレン、目を逸らさないで」
セラフィナの声。「前を見ろ。斬るべきは己の幻だ」
俺は奥歯を噛み締め、右足を一歩前へ。
幻の“俺”が、刃のような笑みを浮かべる。
――短剣を逆手に持ち替え、石碑の前、魔法陣の外縁に刃先を押しつけた。
金属が石を擦る、乾いた音。きりきりと嫌な響きが広間に満ちる。
「偽物に、名前を乗っ取らせない」
声が震えていた。
「俺は“アレン”。勇者じゃなくていい。――けど、仲間の先頭は俺が歩く」
刃先が火花を散らした瞬間、霧がぱん、と破裂した。
広間に漂っていた囁きが消え、空気が軽くなる。
俺はようやく、肺いっぱいに息を吸った。
背後で、ミュリエルがほっと泣き笑いの声を漏らす。
リリアが肩を叩き、セラフィナが小さく頷いた。
ただ一人、レオナルトだけが、微動だにせずこちらを見ていた。
彼はやがて、つまらなそうに吐き捨てる。
「幻覚に打ち勝った程度で、勇者気取りか。――まだ入口だ。真価は、ここから先で量られる」
悔しいほど、正しい。
胸の奥の痛みは消えていない。
それでも、俺は前を向いた。
「……行こう。碑文を読む」
石碑に刻まれた古代文字を、セラフィナが指でなぞる。
彼女の口が、ゆっくりと解読の音を紡いだ。
「『名無き者、名を得ん。名ある者、己を捨てん。真なる導きは、孤に非ず――』」
言葉は途中で欠け、そこから先は欠損していた。
しかし、最初の一節だけで十分だった。
(孤に非ず――一人では、ない)
レオナルトの視線がまた刺さる。
俺はその痛みを、仲間の手の温もりで押し返した。
「進むぞ。……俺たち四人で」
広間を抜ける扉が、ぎぎ、と音を立てて開いた。
その向こうには、さらに深い闇と、冷たい風。
幻惑の回廊は終わった。だが迷宮は、まだ始まりに過ぎない。
痛む指を握りしめ、俺は一歩を踏み出した。
自分が勇者かどうかは、まだわからない。
けれど――仲間と繋いだこの手だけは、確かだった。




