勝利と代償
――炎の渦が静まり、夜の森に沈黙が戻った。
俺の剣が振り抜かれた瞬間、ケルベロスの最後の咆哮が空を裂いた。三つ首のうち二つを落とし、残る首も深々と裂傷を負っていた。黒き巨体はぐらりと揺れ、足掻くように地を抉ったのち、轟音と共に崩れ落ちる。
その瞬間、背後に控えていた狼の群れが一斉に吠え、主を失った混乱に駆られて散り散りに森へと退いていった。
「……やった、のか?」
荒い呼吸の合間に、俺は呟いた。体の奥から熱と痛みが波のように押し寄せてくる。左腕には深い爪痕が走り、焼け焦げた布がまだ煙を上げていた。
「アレン!」
リリアの声が駆け寄る。弓を手に、土と血にまみれた姿のまま、彼女は俺を支えようとする。だが、俺は膝から崩れ落ちてしまった。
力が、入らない。
「大丈夫ですか!? アレンさん!」
ミュリエルが駆け寄り、杖を握り締めて膝をつく。その顔は涙でぐしゃぐしゃになっていた。
「ま、まだ……立てる。村を……」
「喋らないでください!」
必死の声と共に、淡い光が俺の身体を包む。癒しの魔法――彼女の持てる力のすべてを注ぎ込んでいるのがわかった。
光は痛みを和らげ、裂けた肉を縫うように癒していく。だが、深すぎる傷はすぐには塞がらない。熱に浮かされる意識の中で、俺はミュリエルの必死の表情を見つめていた。
「もう……死んじゃうかと思いました……」
「死んでない。まだ、ここにいる」
かすれ声でそう返すと、ミュリエルは泣き笑いのような顔で首を振った。
周囲を見れば、セラフィナは血に濡れた剣を突き立て、肩で息をしていた。リリアは矢筒の底を叩きながら、最後の矢を握りしめている。皆、満身創痍だった。
それでも――誰一人欠けてはいない。俺たちは勝ったのだ。
◇
戦いの後、村人たちが恐る恐る姿を現した。
長老を先頭に、震える足取りで近づいてくる。
やがてケルベロスの死骸を目にした瞬間、彼らの顔に涙と歓声が広がった。
「倒してくださった……本当に、怪物を……!」
「勇者さまが、我らを救ってくださった!」
押し寄せる人々の声が耳を打つ。だが俺には、その言葉を素直に受け取れなかった。
俺は勇者じゃない。ただの、成り行きでここに立った冒険者に過ぎない。
けれど今、村人たちの瞳に映る俺は「勇者」そのものだった。
「……アレン」
セラフィナが低く呼ぶ。
「これでしばらくは村も安泰だろう。だが、お前の傷は深い。動けるうちに休め」
「そうだよ。強がらなくていい」
リリアが矢を収めながら、柔らかく笑みを向けた。
「私たち三人がついてる。あなたは――もう一人じゃない」
その言葉に、張り詰めていた心がふっと緩んだ。俺はただ小さく頷くことしかできなかった。
◇
夜更け、村の集会所に運び込まれた俺は、寝台に横たわっていた。
ミュリエルが枕元から離れず、何度も何度も癒しの術を繰り返してくれる。だが、彼女の顔色は青白く、限界に近いことが見て取れた。
「もういい……無理するな」
「いいえ……私が止めたら、アレンさんが……」
「お前まで倒れたら困るんだ」
そう言って彼女の手を握ると、ミュリエルは堰を切ったように涙をこぼした。
「ごめんなさい……私、もっと強かったら……!」
「十分強いさ。俺は、お前に救われてばかりだ」
「……ほんと、ですか?」
「ああ。だからもう泣くな。お姉ちゃんの顔が台無しだぞ」
そう冗談めかして言うと、彼女は涙を拭い、ようやく笑みを浮かべた。
◇
翌朝。
俺たちが集会所を出ると、村人たちが総出で見送ってくれた。
だがその陰で、ひそひそとした声も聞こえる。
「やはりあの方は勇者なのだ……」
「いや、違う。偽物だという噂も……」
「どちらにせよ、あれほどの力……ただ者ではない」
賛美と疑念が入り混じり、俺の胸に重くのしかかる。
もう戻れない――そう囁く声が耳の奥で響いた。
ただの冒険者だった俺は、すでに「勇者」の影を背負わされてしまったのだ。
「アレン」
リリアが横に並び、肩を軽く叩いた。
「気にすることない。真実は私たちが知ってる」
「そうだ。勇者だろうが偽物だろうが、俺たちの仲間に変わりはない」
セラフィナも笑みを見せる。
「アレンさんは……私たちを守ってくれました。それがすべてです」
ミュリエルの言葉に、胸が熱くなった。
俺は深く息を吸い、仲間たちを見渡した。
彼女たちが信じてくれる限り、俺は歩き続けられる。
勇者か偽者か――そんな呼び名に振り回されるよりも、守るべき人々と仲間のために。
「行こう。次の道へ」
俺の言葉に、三人が力強く頷いた。
こうして俺たちは、新たな旅路へと踏み出す。
だが胸の奥には、噂という形を取った「代償」が、確かに刻まれていた。




