ミュリエルの想い
その夜。俺たちは町外れの安宿に泊まっていた。
木造の二階建て、壁も床もきしむ古びた宿屋だが、王都へ戻るまでの中継点としては十分だ。
一階の食堂で簡素な夕食を済ませ、二階の部屋に戻るころには外はすっかり闇に沈んでいた。
「ふぁぁ……やっと落ち着けるね」
リリアが布団に転がり込み、安心したように息をつく。
セラフィナは窓辺に腰を下ろし、剣を手入れしながらじっと黙っていた。
俺は背中の疲労を感じつつ、寝台に腰を下ろす。身体はまだ女のままで、筋肉のつき方も違う。戦いでの疲れが妙に残るのだ。
「……あの、少し、お話してもいいですか?」
控えめな声が部屋に落ちた。
振り返ると、ミュリエルが緊張したように膝の上で手を握りしめていた。
昼間のギルドでの一件が頭をよぎり、俺は思わず眉をひそめる。だが彼女の表情は真剣そのもので、からかいの色は一切なかった。
「今日、私……余計なことを言ってしまいましたよね」
うつむいた声は小さかったが、しっかりとこちらに届いた。
リリアが慌てて起き上がり、首を振る。
「そんなことないよ! ただ、ちょっと目立っちゃっただけで」
「でも……」
ミュリエルは唇をかみ、胸に手を当てた。
「本当はずっと、勇敢に戦う人たちと一緒に旅をするのが夢だったんです。だから、今日みたいに皆さんを見て……心の底からすごいと思ってしまって……つい」
その声音は、飾り気のない憧れそのものだった。
俺は言葉を失い、ただ黙って聞いていた。
「……小さい頃、村が魔物に襲われて、家族を……失いました」
ぽつりと落とされた告白に、空気が固まった。
リリアが小さく息をのむ。セラフィナの手も一瞬止まった。
「そのとき、旅の勇者様が村を助けてくれたんです。名前も顔も、よく覚えていません。でも……その後ろ姿だけは、今でも忘れられなくて」
ミュリエルの瞳が揺れる。けれど、涙は零れなかった。
「だから、私もあんなふうに、誰かを守れる人になりたいんです」
俺の胸に鋭い痛みが走った。
(勇者……それは、本来の俺のことだ)
けれど今の俺には、彼女が憧れ続けた“勇者”だと名乗る資格がない。女の身体で、迷いを抱え、勇者失格だと自分で思っている俺には。
「……ミュリエル」
絞り出すように名前を呼ぶと、彼女は小さく笑った。
「だから、さっきみたいに余計なことを言ってしまっても、後悔はしていません。私にとっては、お姉ちゃんたちが本当に憧れなんですから」
「お姉ちゃんたち……」
俺は頭を抱えそうになったが、それ以上に胸の奥に重く沈む感情を抑えきれなかった。
リリアがそっとミュリエルの肩に手を置く。
「ミュリエルちゃん……強いね」
「いいや、強くなんてありません。ただ……夢を諦めたくないだけです」
セラフィナは窓の外を見やりながら、静かに言った。
「夢を追うこと自体は悪くない。だが、現実は厳しいぞ。魔物は憧れだけで退けられる相手ではない」
「はい。それでも――」
ミュリエルはまっすぐな眼差しで言葉を返した。
「それでも私は、この旅に加わりたいんです」
その決意の強さに、俺は返す言葉をなくした。
本当なら「帰れ」と言うべきなのかもしれない。これ以上巻き込めば危険だし、勇者の勘違いも広がる。
だが、彼女の純粋な瞳を前にすると……否定することが、どうしてもできなかった。
(……ますます言えなくなるな。俺が勇者だなんて)
胸の痛みを押し隠しながら、俺は天井を見上げて深く息を吐いた。




