〈楓〉
その日をきっかけに、僕はたびたびそのピアノで演奏するようになった。
と言っても積極的に弾きに行くわけではなく、静くんと一緒に通りかかったときにたまたま空いていたら、静くんに強請られるようになり、リクエストに応えて弾いているだけだった。
たいがいは僕の弾き慣れたクラシックなピアノ曲だったけど、色々な他の人の演奏を聴いているうちに最近の流行曲も弾けるようになっていた。
そうして回数を重ねるごとにギャラリーの数も増えてゆき、いつしかあの時のユーチューバーさんくらいのギャラリーがコンスタントに集まるようになっていた。
「ねぇこれお兄ちゃん?」
妹にそれを教えられたのはその頃だった。
見せられたスマホの画面にはショート動画が流れていて、聞き覚えのある幻想即興曲が流れている。あのユーチューバーさんがアップしたものだった。
そう言えば連絡先交換した時に動画上げていい? とか聞かれたかもしれない。
目立つ感じで「ショパンコンクール優勝〜〜〜!!」とかテロップが入っている。恥ずかしい。
「ほらこれも」
次に見せられたのはSNSに上げられた編集も何もされていない動画。最近弾いた時のものだ。しかしこれには全く心当たりがなかった。
投稿には「最近話題の◯◯駅のイケメンピアニストに会いに行ってきました!」と書いてあった。
「ひどいよね。勝手に上げるなんて」
妹はちょっと憤慨していた。
これは、わざわざ僕の演奏を聴きに来たってこと?
僕は知らないうちに、ちょっとした有名人になっていたようだ。
そうこうしているうちに駅のストリートピアノのギャラリーにも見知った顔が増えてきた。
いつもピアノ前のベンチに座っているおじいさんは別に僕目当てじゃない。ただ駅に来て日がな一日ピアノを聴いているのが好きなだけの人。それでも顔見知りになってくると、演奏の後に話しかけてきてお褒めの言葉をくれたりした。
もちろん僕目当ての人もいる。たまに曲をリクエストされたり、演奏後に写真を強請られたりもするようになった。そういう人たちはたいてい演奏中の動画を撮影しているので、その都度静くんが「SNSへの投稿はNGで!」と釘を刺している。
「もういっそ友ちゃんがチャンネル作って配信したら?」
そう静くんが言ってくるけれど、そんな気軽にできるわけがない。SNSにだって投稿したことないし、見るのもたまにしかしない。僕はそちら方面には疎い、というか興味がない。
「撮影と編集はオレがするからさ。ほら、こっち見て〜〜。笑ってよ〜」
「もう、やめてよ静くん」
静くんがふざけて撮った動画の自分は、聞き慣れない声で喋っていて、どこか別の人のように思えた。
最近増えたギャラリーの中にちょっと変わった人がいた。
僕と同じくらいの年頃の男性で、グレージュっぽい薄い茶色の髪に細かくメッシュの入った凝った髪色をしている。服装は普通だけどどことなくおしゃれなタイプだった。
そして、いつも必ず黒のマスクをしている。黒のマスクをして、ピアノの鍵盤がかろうじて見えるくらいの遠くから僕の演奏を見ている。
最初はたまたまかと思った。たまたま通りかかって、遠巻きに見ていく人。
でも次も、その次のときも、その人が遠巻きに見ているのが目に入った。
マスクをしているので表情はわからなかったけれど、その目はギラギラして見えた。目力が強いというのか。演奏している時は気にならないけれど、弾き終わるとなぜか視線を感じた。遠くから見られているだけなのに、なんだか僕の全てが暴かれていくような不思議な感覚だった。
その日はギャラリーからのリクエストで珍しくクラシックではない曲を弾くことにした。
J-POPの名曲で、流行に疎い僕でも知っている曲だった。メロディラインが綺麗な曲で、歌詞も相まってどこか物哀しい曲だ。
原曲もピアノパートから入る曲のイントロを丁寧に弾き始める。
わぁっ、というどよめきが聞こえてくる。
印象的なイントロなので、それだけで何の曲かすぐにわかる。目の端で、足を止める人がちらほら見えた。
もともとはバンド編成の曲なので、演奏は自分なりにアレンジする。いろいろな楽器の音が感じられるように、音が薄っぺらくならないように、それでももともとのピアノパートには忠実に弾いてゆく。
歌詞も本当に綺麗な曲だ。ボーカルの歌声はまるで霞のようにあえかなのに、とても強く響く。その空気感を音に乗せてゆく。
要所要所に散りばめられた流れるようなピアノパートがすごく綺麗だ。ほら、このメロディの切り替わるところとか――
その時急に右側が翳った。
右手に何かがぶつかり、危うく演奏が途切れそうになる。慌てて確かめるように右を見ると、誰かが鍵盤に指を滑らせている。1オクターブ高いところでメロディラインを奏でるその人は、あの黒マスクの人だった。
マスクをしていて表情は読めないけれど、その目は楽しそうに細められている。視線が合うと、そうとわかるくらいににっこり微笑んだ。
連弾するってことか。
目線で促されて僕は少し椅子を空けた。空いたスペースにその人はするりと入ってきた。狭い椅子で肩が触れ合う距離で演奏を続ける。
右手だけで弾いていた黒マスクの人は左手も使ってメロディラインを弾く。音が重なり、高音のメロディに厚みが増す。
僕は伴奏に専念した。繊細な高音のメロディが消えないように、低音部は抑え気味でいく。
黒マスクの人の演奏はなかなかに力強かった。ドラマティックなサビに向かって僕の伴奏にもボリュームを出してゆく。低音を重く響かせる。
サビ後のメロディは輪唱のように追いかけ合う。間奏部分は思い思いに弾き合う。
いきなりのセッションではあったけれど、不思議と息が合い、弾いていてとても楽しかった。このまま終わらせたくなくて、サビのままフェードアウトしてゆく曲をどうやって引き延ばそうかと考えていると彼と目が合った。
何も語らないのに、何を言わんとしているのかが手に取るようにわかった。原曲にはない音を重ね合わせる。あまりにも美しく絡み合うコーラスに僕が驚いて顔を向けると、彼もこちらを向いて、微笑っていた。
駅の構内が拍手に包まれていた。
いつの間にか集まった人の数はこれまでにないほどの多さだった。通路に面した店の中からも拍手をしている人がいる。あまりの音量に僕は面食らっていた。
隣の黒マスクの彼が少し顔を寄せてきて言った。
「ありがとう。楽しかった」
静かな声で、落ち着いていた。危うく拍手の音にかき消されそうだったけれど、はっきりと聞こえた。
「母さんが好きな曲だったんだ」
そう言うと彼はにっこりと目を細めて微笑い、その場を去って行った。まるで木の葉を散らして吹き抜ける風のようだと僕は思った。
「なに今の! 超かっこいい! 超〜〜〜エモかったんだけど!!」
撮影した動画をチェックしながら、静くんは興奮気味に捲し立てた。
「あの人知り合い? よく聴きに来てるよね」
「うん。全然知らない人だけど」
「おぉぅ!? じゃあ飛び込みだったんだ・・・・・・」
静くんは僕に動画を見せながら言った。
「演奏ももちろん良かったんだけどさ、二人並んだ感じがそっくりだったんだよね」
確かに、背後から並んだ姿を見ると、背格好がよく似ている。それにどことなく雰囲気もよく似ていた。
「友ちゃん、この動画上げてもいい? 絶っっっ対バズるよ!」
「いいけど・・・」と、まるで自分ごとのように浮かれている静くんを見て僕は苦笑いした。
僕も少しだけ浮かれていた。あんなに楽しいセッションは初めてだった。打てば響くようにとはこのことだと思う。演奏もとても上手かったし、どこかの音大生か、それともプロだったりするんだろうか。
そう言えば彼の声は、動画で聞いた自分の声とよく似ている気がした。声まで似ているのかと、なんだか可笑しくなってフフッと笑いがこぼれた。
また弾きに来ないかなと、あの黒マスクの人を思い出しながら、僕は笑顔で帰路に着いた。