1:岶岼市-⑥ 未明の密闘
凜々とした風が、ブナの木々の間を鈴々と駆け抜ける。明かりは蛍に月と地面に散らばる小石の光沢に、山中を貫く僅かな電灯の光しかなく、視覚は数尺先からは殆ど機能しない。冷えた土をコラツルは四足で踏みしめ、舌で辛うじて『そいつ』の方角を察知する。舌先が拾う、概ね湿った土や血液に、ブナ等雑多な植物の香り等の空間座標がその存在の居場所を指し示す。今そいつが坂を下っていると察知し、出来るだけ勾配の浅い曲面を見つけ、そこを通り迂回する。蒼尾族の嗅覚では目の奥を動くそいつを捉えられず、カータクはコラツルを目視で追うことに務める。
25分は追跡した頃だろうか。そいつは途端に高速に移動しだすようになった。地鳴りがコラツルの手足に鳴り響く。彼女も足踏みのペースを上げることとしたが、同時に体力配分をどうすべきかの思考にもリソースが向いた。
あれを追うだけなら可能だろうが、観察しながら追うとなると相応に体力を使う。カータクと似た体型から察するに向こうは平面地形での移動は得意だろうし、発汗の様子があることから恐らく体の排熱処理にも向いている。時間が経つにつれ体力との勝負となるし、とりわけ平地に向かったら追跡など不可能だろう。
映らないことは承知の上で、カータクには携帯電話のカメラ機能で捉えておくように指示した。視覚フィルタを用い無理矢理観察できるか確かめようとしたが、解像度が低くよく見えないし、補助的に扱うとて画面を見る彼の指示を受ける手間が怠い。コラツルは早急にあの生物を捕まえておくべきか迷った。しかし向こうは刃物を持っている。自分に防護装備はないし、あったとて警察官のように抑えつけられるかと言われれば、不可能だ。
カータクはあの人を不審者として警察に通報し、第一発見者として会話する機会を作れないだろうかと考えたが、自爆スイッチに等しい事に気づきすぐさま脳内から棄却した。もしそいつが人類並みの知能を持つなら基本的人権の尊重の元保護するのが手っ取り早いのだが、道具が使える程度の動物は割といるし、殺処分か研究室送りがいいところじゃないか、と躊躇う。
累計36分――1時間の半分が経過したその時、そいつは更に速いスピードで動き、けたたましく合成樹脂の靴底の音を森の中に鳴り響かせる。この生き物は全力走などしていなかったことにカータクは驚く。一方コラツルとしても悪い予感を感じる。全速力を出していないことは想定していたのだが、仮にストーキングしている我々に辟易してるのならば、こちらに向かいナイフを浴びせるだろう。自身の予感を補強するさらなる材料は、頭を覆う布越しに、自分の声質に似て異なる獣のような唸り声を彼女の左耳が拾っていることだ。
コラツルが推察するに恐らくは鬼龍目の類だ。それも、我々蛇人族ではない。コラツルとして、相手が最大種のヒガシワグンオニカナヘビだとて返り討ちに出来る自信がある。四股を切断するほどの怪我を想定したが、義肢程度ならば十年もあれば実用化されるだろうし、それまでの間は適当に工学科の研究にでも参加すりゃ良い。隣でスカートを風に靡かせる彼も同様だ。なんなら自分より弱い彼を囮に横槍を刺せば確実に仕留められるだろうし、彼女たちにとって大した問題ではなかった。
問題は無いというのに、彼女は何かを恐れていた。本当に問題がないのか、自身の『安全』に粗探しをすることとする。ふと、原始的知性の芽生えとも解釈される記事を思い出す。鬼龍目の一部は、口輪を嵌めた蛇人族には襲いかかるという。が、そこまでの知性のある動物ならば、どちらが効率的か程度は把握できる筈である。
即ち、奴は我々を初めから狙っていない。
コラツルは一瞬両後ろ脚に力を入れ、前のめり気味に歩いてる最中に口輪のバックルを指で挟み込み、外れたことを確認し元の通りに地を這う。目標を瞳孔で追っている最中、マズルの坂を口輪が這いずり落ち、ちょうど頭の部分が鼻にかかるところで首を横に振り、完全に振り落とす。落としたものの衝撃は土に吸収された。
カータクのスポットライトによる視覚的なアシストが入り、向こうの連中は食物連鎖の関係を築く最中に光源へと目線が逸れる。コラツルは全速力でオニカナヘビの、ガードの甘い腹辺りへと咬み付く。
「ぁ゛あア゛ッ゛!」
コラツルは自分の口の感触を噛みしめる。彼女の毒牙は目標の白い鱗を貫き、通過箇所の肉を削り取った。間違いなく毒は対象に回っただろうし、重要臓器にダメージを与えたのでそう長くはない。舌についた血の味が彼女にそう確信させる。
今のうちに刺せ、とカータクのような服を来たそいつに目で指示を出した。出す意味すら無いと気が付いたのは実際にその人に目を向けた時のことだ。瞬時にコラツルの脳は例の生物を追う。刃物を落としたのか右手には何も持っていなかったし、突き飛ばされ左腕で着地していたのだった。
知性ある動物が最後に考えることは何だろうか。恐らくは悪足掻きだろう。この獣の目的は『餌の確保』から、『自身の命を奪った奴への復讐』へと変わり果てるだろう。コラツルは可能な限り、二人から遠い場所へと向かう。いくらといえど返り討ちには出来るはずだ。
実際の所、彼女の考えは甘かった。手負いの獣は例の生物へと襲いかかっていたのだ。蛇人への復讐など不可能と断じ、自身の復讐に対する認知的不協和の解消のために誰でも良いから襲いかかろうとしているのだ。十歩した辺りで彼女は自分を追跡していないことに気が付き、すぐさま振り向いた。
コラツルは、鮮血の臭いを嗅いでいた。台所の凄惨な光景が一瞬、頭によぎる。オニカナヘビは動脈血を胸から吹き流し、命からがら目を見開いている所だった。長く持って数分の命だろう。カータクは胸に刺した凶器を引き抜き、どう奴を葬るか悩んだ末に鳥葬することに決めた。ここまで山奥ならば、動物を狩ったことを届け出る必要はないだろうし、そこで擦りむいた下腕を痛そうにする、戸籍があるのか怪しい奴を紹介する手間も省ける。状況としては正当防衛なのだが、どう考えても人類の入るべき場所ではない。言わなきゃすぐ風化する。カータクは袖に血の付いたコートを脱ぐこととし、後でコラツルにも替えのアウターに替えるよう言っておく。
「テント……」
卯の花色の肌と黒毛の彼は、何かを伝えようと二人に呼びかける。種族全般の話かは分からないが、この人は固くベタつくような声質を持つようだ。取り分け、顔辺りは赤がかっている。
「テント! さっきのとこ!」
顔がよく変形する種族のようで、顔面はひとりでに動くシワのように見える。辛うじて本能的な怒りに該当する感情を表しているのだろうとコラツルは察する。
カータクは彼女の前に立ち、手を差し伸べる。
「お嬢さん、歩けるっすか?」
☆
「お前、死ぬ気じゃったんか? 下手したら死んどったぞ」
テントの中、コラツルはカータクが拾っていた自身の口輪を嵌め直しながら、カルタと名乗る《《彼》》を叱責する。
「あー、まぁ、敗血症にはならないでしょ……」
水主軽太は左手に目が向く。擦り向けた肌がヒリヒリと包帯の中で存在を主張する。掌から肘関節間際に渡り存在するその痛みは軽太の脳へと高頻度で割り込むが、過去の主要骨を折った際の鋭痛を偲んでなんとか耐える。
「人里行くべきじゃったろ、備蓄的に」
バックルを止め首をぐわんぐわんと降り、外れる様子がないことを確認する。確認したというのに彼女の首は止まろうとしない。父のお古であるし、破損していない事が嬉しい。
「行って良いのかわかんなくてさ」
彼は右手で髪を触る。『流石に人間くらい居ると思ったけど、見てても居なかったし』と続ける。彼らは自身をニンゲンと名乗るようだ。
「まあ、……よくて身元不明の不法入国者って扱いだと思うっす」
地球には3桁にも渡る種族が暮らしている。どこか秘境に彼と似た特徴を持つ種族が居てもおかしくはない、とカータクは手に持っていた缶詰のラベリングを見やる。東果文字や坵暁文字に似てはいるが読めそうにない。複数の表記が交ざっているように見えるが、こうも頻繁に混ざる例は珍しい。東果との接触が薄い地域なのだろうか、と、ほんの少し想像を巡らせてみる。
「そういや、君って何処から来たんすか?」
瞼をしっかり開け口角を自然に上げ、可能な限り物腰良い人を取り繕う。恐らく彼は顔を向けあって会話するタイプの種族だろう。しっかり彼の方を見据えて質問する。ファーストコンタクトで悪印象を持たれたら東果国の損害だ。勿論缶詰も床に置いた。カラカラと、分厚い地面を転がる音がする。
「日本だよ」
彼はだらけた三角座りを保ったまま両手を膝に乗せ、単語のみを返す。軽太が強迫的に視野に映った何かへ首を向けたので、カータクも独りでにそちらを向いていた。合成繊維の一つである重開窒輪布に酷似したテントの床には鳥の子色のバッグに、未知の植物革を用いたリュックサック等が置かれたままにされている。彼の何れも蒼尾人用に近いものだ。
「……県名っすか? 『ニホン』って」
カータクは一瞬考えた後、さらなる情報を求めることとした。語感としては暁坵語に近いのだが、現実的にあり得ない。
「国。県なら岐阜県だよ。飛騨市北区に住んでた」
『ギフ県』なら聞き馴染みがある。ウラアダ王国に存在する県だ。一方、『ヒダ市北区』は知らないし、『ニホン』なる国にも聞き覚えがない。
国レベルに発達した共同体ならば国連に加盟してるか、少なくとも認知はされてるだろう。そこでカータクは携帯電話の電源を付け、検索しようと試みる。電波も薄いここでは検索サイトの読み込みにさえ1分はかかる。検索バーに『ニホン国』とタイプし、検索ボタンを押す。
「お前、なんで言葉喋れる?」
コラツルはカータクの転がした缶詰を手に取り軽太へと質問する。
「うーん……そういうものじゃない?」
軽太は特に彼女の方を見ず、苦笑いを浮かべていた。
「これと違う言語を何故喋れる?」
缶詰の文字を指した上で、コラツルは妙な顔をする彼に再び質問する。
「ええと。んー、君たちの言葉ってこと?」
軽太は困惑気味に意味解釈をする。彼女はそういう人なのだろうが、意図が汲みづらい。まるでお硬い学者と会話しているようだ。
「うむ」
コラツルは二つ返事を返す。特にボディランゲージの類はなく、ただ二つ返事のみを返した。
「えぇー、……わかんない!」
思い返そうにも本当に思い当たる節がない。軽太自身も悪い癖だと思っているが、彼はこういう時に可愛い子ぶる癖がある。
「無いっすね、カルタくん」
カータクの横槍に一瞬恐怖の顔を見せる。自身の悪癖を責められたかのように思ったのだ。彼はそのような悪意などはなく、検索結果を見せたかっただけのようだ。軽太には彼らの文字が読めなかったが、レイアウトの雰囲気でどういうことかを察し頷いた。
「表記揺れってあるっすか?」
カータクは便宜上、表記揺れの可能性を考えることとした。
「日本、かな」
軽太の回答を聞き、カータクは落胆した。ただでさえレスポンスが馬鹿長いのでこれ以上別名が存在してほしくなかったのだ。しょうがないので、検索にかけることとした。
「そういや、ここってどこ?」
時間がかかるのを見越し、軽太はその合間に質問することと決めた。
「東果っす」
カータクは不満げな声色と半目を返す。
「つはた……」
思ったままの質感をぽつんと言い残す。東果。水主軽太にとって、聞いたこともない場所である。
「……詳しく言えば、東果国杜籠県、岶岼市。南区、っすね」
カータクはこれ以上不機嫌な様相を見せないよう、軽く心気を改める。説明でぶっきらぼうな態度をするのは良い行動ではない。
「異世界だ」
水主軽太は、思わず単語をぼやていた。
「異世界?」
目の前の二人は興味を引く。理学者でも人文学者でも、一度は聞いたことがある言葉であった。
「別の世界。異世界モノってない?」
軽太は本を持つジェスチャーをしつつ、『小説で』と付け加える。
「んー、あるっすね」
カータクは『妣國の図書館』を思い浮かべる。10年代に発表されたSF長編小説であり、オタク気質の彼は幾許と手に取り、その情景を思い浮かべていた。
「そんな感じかな」
軽太は頷き微笑む。そろそろ彼は左腕の苦痛にも慣れてきた。
「信じがたいな、並行世界から来たとは」
コラツルはカータクのファンタジックな発想に水を刺したいが、彼の性格を思い出して言葉を飲んだ。
極端な例だが、彼の居る並行世界が反粒子で出来ていた場合、東果は既に消滅しているだろう。単にプランク定数一つ違う世界出身とも考えられるし、そうならば想像もつかない。とにかく、こうも都合よく安全な並行世界から来る筈がない。外宇宙の存在のほうが余程納得が行く。
二人の中では既に、一つの不文律が形成されていた。
『ニンゲンの居る世界は、我々の世界より相応に文明が進んでいる』。
「そーいや、君の家に空き部屋あるっすよね」
カータクはコラツルを見やる。『あるが』、と疑問符を浮かべる彼女のみが居た。
並びにカルタくんに提案をすることとした。
「泊めてやったらどうっすか? 家ないっぽいっすし」